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全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207
§4 R.L.ミーク《スミス マルクスおよび現代》 a
§4−1
ロンルド・L・ミーク(1917−1978)は スミスとマルクスとが 歴史的に見て 思想上の同一の系譜に立っていると言おうとしている。
たとえば 《スミスの資本主義擁護》には 一方でその《顕教的な exoteric 》諸要素をとりあげ ほとんどそのまま通俗的に叙述していく理解があり これとならんで 他方で この表面的な理解と入り組みあったところの 《秘教的な esoteric 》諸要因をとらえていく内面的な理解とがあったと マルクスにしたがってミークは見ている。(第一部 スミス 一 スミスとマルクス)。
《内面的な理解》というふうに ここにわざとわたしが表現するのは そしてさらにこの一面での理解によってもじつはスミスが《資本主義》を擁護したのだと 同じくわざと解釈して表現するのは ミークに対してもスミスに対しても 曲解する部分があるのだが ここで 一つの論点としたいところなのである。
曲解した部分を容れたままが もちろんわたしの主張ではない。主張内容は ミークのと同じであって 結論としては わたしは スミスとマルクスとが 一般的に言って思想の視点(タカマノハラ出発点)を 同じくしていたという言葉で表現するところのものである。だから 思想の視点は 個人の内面にあるものだが それは 経済思想であるならば特に 内面も外面(すなわち 経済行為事実)も 同時に捉えるものでもあるのだから 人間の社会的な理解 あるいは社会的な人間の理解というふうに 言い直しておかねばならない。《内面的な理解》と表現したことばを そのように 訂正しておかなければならない。なお 経済理論は ムスヒ経験領域をあつかわないわけには行かない。
これらのことが 主張内容の結論にかかわるものである。すなわち スミスによる《資本主義》の擁護は この《資本主義》を推進する〔にせよ その〕人間の擁護だと見ようとする点にある。人間存在は擁護したいと見る点にある。個人にあてはめてみて 顕教的な心理起動力ではなくて 秘教的な内面の推進力としての人間 これは明らかに われわれの出発点として 擁護されているというか しかるべくそこに立脚している。
人間の内面秘教――つまり 《隠されていること》=《解明されていること》である――の視点というのは 外面顕教の心理(たとえば 利潤追求の欲望) これを どう見るか どう用いるか どうそれに対処するか だからまた すでにつねに 〔主観の〕動態のことである。
心理は じっさい 内面に起こるものだが おそらく外面と対応するもの 外界の動きが心理的・感性的に中に入ったものである。そして 文化やその社会構造として むしろ有力なものである。人間ムスヒ出発点――これは 心理に対して 主観動態または一般に 精神のこと――は 外面社会および内面心理に 弱いものだが つまりただちに有力ではないが おそらく そのことを越えるようにして 有効だと見るということ この点を取り上げたい。無理を無理と捉える自由までは われわれ人間にそなわっているというわけである。あとは 実践過程 すなわち あくまで過程的な実践だということになる。すなわち この点で
資本主義を根本的に是認する楽観的な スミスの《諸国民の富》における見解から 資本主義を強く否認する悲観的な マルクスの《資本論》における見解へ移ってくると 一見したところでは 完全に違った世界にいるように思われる。
(ミーク:スミス マルクスおよび現代 訳書p.5)
というときも 先走っていえば やはりマルクスも スミスと同じように一つの視点に立って その社会的な人間(ムスヒ出発点)を擁護したと わたしたちは見たいというわけになる。
さらにこのことから これまで使ってきた《資本主義》という一つの表現規定を もう少しくわしく言い直すことを 要請されるのではないかという結論内容のことでもある。人間ムスヒ出発点という抽象論にとどまっていることもできないし じっさい――ここでは 思想の問題として その出発点の論議が おもな考察対象だとはいうもの それは―― 経験現実をどう見るかをめぐって 展開されなければならない。
ただちにこの論点に入るとすれば まづ《資本主義》は 個人的にそういう一つの生活態度であり 社会総体的には生産様式もしくはもっとばくぜんと言って 社会生活の様式である。生活態度は より多く内面にかかわり 生活様式は どちらかと言えば 外面にかかわり 思想の視点は――そしてその思想にもとづく限りでの生活態度は―― 内面・外面を合わせて捉えるものである。
言うところは まづたしかに 《資本主義》も 表面の顕教的な諸要素のことだけではなく 個人の内面の秘教的な(やはり それとしてのタカマノハラ出発点にもとづく)生活態度要因のことをも含んでいる。これを 内面の生活態度として(だから それとしての思想の視点として)捉えるなら 《資本主義志向》のことだと言える。
つぎに 資本主義志向としての人間の生活態度は とうぜんのごとく社会的な人間の一つのあり方である。そして 資本主義を志向する人間ということと 人間が資本主義を――歴史的に社会的に―― 一つの生活態度として志向しうる存在であるということとは その観点が 互いに微妙に異なるはづである。このことは 特に後者の観点が 供犠制度的な非供犠的な文化の(つまりやはり 経験合理思考としての)有効ではあると考えられる。
ここで 同じく先走って結論づけるならスミスは そして大前提としてマルクスも 資本主義を志向し得た人間 またすでにこの志向で出発進行している人間という存在 これを 擁護したと考えられる。人間の自己弁護だといってもよいのである。そして じっさい 資本主義志向の人びとにあっても このような擁護は 同じようにおこなっているものと思われる。だから ただちに有力ではない有効も 有力の支配する社会経済関係(または 供犠制度の構造)かあ 遊離したものではないのである。まづ ここまで 言うことができるであろう。
繰り返すつつ進むならば 生活態度は より多く内面的なものであり またさらに このような視点のもとに生活態度および生活様式を捉える思想は 内面的な生活態度としての資本主義志向 これをも 相対的なものとして とうぜん少なくとも 認識しようとしているものである。供犠文化の有力に対するときには ある意味で無理を承知でであるが みづからをも相対的なものとして捉えているから 無理を犯すのではなく 無理を透き通して 人間の登場のことを 思っているし 図ってもいるわけである。
とにかく この限りで 思想〔の主体 また 志向=意志の主体〕が それにもとづく一つの生活態度として 資本主義をえらんだということが言える。そう見ることができる。だとすると おそらくこの人間は――この人間をスミスやマルクスは 擁護しようとしているのだと考えられるが―― はじめから 主義として資本主義を明確にえがいて 選んだのではないであろう。《先行的な蓄積または 本源的な蓄積》が 《資本主義》〔の登録完成の段階〕の一つ前の段階にあったと考えられる。あるいは そうではなく それでもはじめから明確にこの志向を頭の中に描き これを取ることを選んだという場合には しかしながら 人間――ムスヒ推進力の主体たる人間――が(少々くどくなるけれど) これを自由な意志によってえらびとったのであって タカマノハラ志向理論像が 人間をえらびとったものではない。たとえそうなったのだとしても その一段階の前には 人間こそが 主体であった。そうでなければ 封建社会から 近代市民社会へ移行しがたかったであろう。局地的に 一部の人間集団の間で 資本主義の生活態度と社会様式が 発達していたかも知れないとしても。
だから 人間が 思想(知解と意志)の主体であるというとき いわゆる近代人として かれは その歴史的に具体なる生活態度を いうなればまづ資本志向において――つまりまづは 主義を問わず 資本志向という素朴なかたちにおいて――描き えらびとったと考えられる。それは 既存のたとえば身分制約的な社会制度に圧迫されることなく それとたたかいながら 自由な意志のもとに合理的な知解をおこなって 生活の基礎である経済活動 この経済活動を ふつうに経済基礎であるものとして おしすすめ 生きてゆくという一つの生活態度である。
(つづく→2008-01-03 - caguirofie080103)