caguirofie

哲学いろいろ

#30

もくじ→2005-12-23 - caguirofie051223

§39(幸福ゆえにおつきあいしていく)

ところで 真の自然人は所有の発展とともに希薄にはなるが 決してほろびはしない。それは理性の発展にもかかわらず それに対抗して 人々の胸の中に存在しつづける。ことに庶民の間でおいて・・・。・・・ルソーは・・・この社会の危機をきりぬけるためには哲学者の眼ではなく 庶民の眼をもたねばならぬことを主張する。そのことを正確に分析したのが人間の形成を個体発生的にとらえた《エミール(エミール〈上〉 (岩波文庫))》であり そしてこのような論理を用いてルソーは私有一般を攻撃しながら じつは〔――《人格自立性の発展のための基礎をなす》と同時に 近代的=資本主義的所有への《必然なる経過点》をなすところの――〕労働にもとづく所有をうちださんとするのである。
(前編・2)

新版 経済学の生誕

新版 経済学の生誕

少し引用のしかたが不十分であるから ルウソ自身から 次の一節を引いて付け加えよう。

自尊心を生み出すのは理性であり それを強めるのは反省である。この反省によって人間はみずからを省み 自分を妨げ苦しめるすべてのものから離れるのである。人間を孤立させるのは哲学である。・・・
(ルウソ:人間不平等起原論 (中公文庫) 第一部の終わり近く)

このようであるとき 先の内田の把握したものを 《庶民=自然人》の眼から見ると どういうことになるであろうか。ルウソのこの一節にしたがうなら 内田の理論は 《哲学とそれによる反省》である。ほとんど誰れもが そういう一面を持っているであろうから 内田を攻撃するわけではない。だから そのような哲学者の群れの中から わたしはルウソにならって 《庶民の眼》をもって いま言おうとしていることは ① わたしたちは 危機をもたない ② もし危機が意識のなかに入ってきたなら これに対して わたしたちは すでに初めに危機を切り抜けているゆえに その危機をはらむ特定の情況・人びとに おつきあいしていく である。
《労働にもとづく所有をうちださんとする》(洒落ではない)ことは 《契約》(=基本会議)ではないが 法律的な措置として 一つの社会交通の形式として 《哲学的な あるいは理性による》主張であってよいはずだ。これは 会議の展開 具体的な協議としてうちだしていくであろう。そして この労働が 《〈人格的自立性の発展のための基礎をなす〉と同時に 近代的=資本主義的所有への〈必然なる経過点〉をなすところの》ものであるという考えは 生活態度の後行する経済基礎としては そのとおりだし ということは 《必要なる経過点》のほうとしては この経済基礎の領域での行為のすでに進行過程を いっていると考えたほうがよい。そして 《出発点》をいおうとおもえば 生活態度(まだ価値観である)におけるふつうの合理必然的な資本志向とわれわれがよんだもの これである。《人格の自立 そしてその発展を含めて》は 会議の基本原点にある。一個の主観動態として 会議人であるということ また それの自乗過程が発展 である。
これなら 《人間は 自分を妨げ苦しめるすべてのものから》 離れているのではなく すでに自由――無力になりうる有効なとしての――なのである。つまり 危機意識をもたない。それは 外のものである。人間は この自己から離れるわけでは行かない。それでも 無効の跳躍が起こった。その《自尊心を生み出すのは理性であり それを強めるのは反省であり 人間を孤立させるのは哲学(理念主義志向)である》。すなわち この二重会議の跳躍は 基本の会議から ともかく 出発している。密会するのは 二重信号をおくる理性なのである。
とするなら かれらも 利己心を利用している。そしてほんとうは このように無効の行為として出発しており かれらはおのおの自らを孤立させているのだけれど 人格の交換と包摂とは その限りで かれらに交通信用をあたえる つまり 自尊心からの追随者をしたがえて 同情にみちた友だちの環をきずいているというわけである。浪花節にしろドライなものにしろ この友だちの環が一つの国家の全体にまでひろがって そのひとまとまりの国からの 出づるを制し そこへの入るを図る もっぱらガリ勉でそうするという道徳哲学的にも経済的にも 二重会議帝国としての重商主義。われわれは 危機を見ようが見まいが この宿敵と 対決していかなければならない。もっとも 危機をもたないということは すでに述べたように この敵を生け捕りにしているということでもあった。すでに勝利しているゆえに すすむ。これが 庶民の眼から見た井戸端会議である。

こうした 階級的特権的利己心〔――じつは これも理性――〕とか 政治家のあやまった国家理性とかにさまたげられながらも しかも富裕と文明は発展する。そしてその〔――資本志向の合理知解と 基本関係の交通たる――〕富裕と文明は(スミスにおける文明は・・・その生産的基礎を交換をつうじての分業においていることに注意)ひとびとの中に何千回 何万回とくりかえされる交換の実践的活動をつうじて 正確 精密な《正義感》(=法意識)をうみだし 旧来の実定《法》をますますたえがたくかんぜしめながら これをうちやぶり自己を実現してゆくと スミスはみるのである。
(内田義彦:新版 経済学の生誕 前編・2)

現代からみるときゆえにでは本当はないのだが そういったとき わたしたちは この《自己の実現》は すでに会議の成立において かちとったというところから 出発するし スミスの時代からの人びとも そうしたであろうと見る。内田の理論をぬすんだようなのであるが そうだないと この認識の受け取り手は 自分がまだ これこれの段階にしか到っていない それゆえ 目的をめざして〔心理的に〕力強く進もうとかいうことになるか それとも この認識を 一幅の理念像としておがむようになるかするであろう。哲学者として 読みに読んで 反省・反復するからである。
だから われわれが対決すべき敵は きわめて抽象的な二重会議派の信仰理念であってよく しかも 基本会議の成立の以降 資本志向と資本主義志向との入り混じった生活態度の中に それは見られ 会議を出発点としている限りでは この敵はすでに生け捕られている。こういう対決のしかたとして ルウソとスミスは 同じ一つの行きかたをもったと考える。論証はまだ終えられていない。
なお 《庶民=自然人の眼》にかんして パスカルは 

民衆の意見は健全である。けれども 真理でないものを真理とするから 意見そのものは間違っており 間違ったかたちで健全なのである。
パンセ (イデー選書) ブランシュヴィク版〈第五章 正義と現象の理由〉 結論的な内容として 断章327;328;335など)

ちなみに アウグスティヌス(354−430)からは――。

感じる自然は それが苦痛を感じるときでさえも どうしても苦痛を感じえない石よりも ましであるように 理性的な自然は 悲惨(=無力)であっても 理性や感覚を欠いている自然よりも優れている。それゆえ悲惨はこの自然に似合わしくない。もしそうだとすると この自然は 大変優れた仕方で創造されているので それ自身変化するものであるにもかかわらず 不変の善すなわち至高善にすがりつくことによって 至福に達するかもしれない。そしてそれは ともかく祝福されているのでないならば その渇望の満足には 神のみで十分であろう。かかる自然はまさしく 神にすがりつくのでなければ 邪悪である。
神の国 3 (岩波文庫 青 805-5) 12・1)

そしてパウロは マルクスが《自由の領域と必然の領域との関係》について――後者に立って前者が開花しうると――語ったことに関連したことばとして――。

霊的なものが先にあるのではなく 動物的なものが先にあり 後に霊的なものだある。
(別訳1:最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり 次いで霊の体があるのです。)
(別訳2:最初にあったのは 霊のものではなく肉のものであって その後に霊のものが来るのである。)
コリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 15:46)

わたしたちは 《ともかく祝福されているのでないならば》とアウグスティヌスが言うように 《自由の領域は 自然必然の領域に 先行する》という言い方で 会議を想定した。

使徒パウロの言葉が励ましているように 神の霊に属することを認識するために進歩するのを欲しない人々は 旧約(律法・理念主義志向)に属するものであろう。だがもしかれらが進歩するなら それを達成する前にすでにその進歩と接近によって 新約に属するものとなる。
アウグスティヌス:洗礼論 1・15〔・25〕)

わたしたちは 想定した会議の問題で そこから跳躍する人びとも ともかく会議から出発したのであれば 密約の二重会議も理念主義志向も 会議人に属すると考えた。

キリストの洗礼の恵みを受けた者は たとえ教会の外に去ろうとそれを失わないのとまったく同様に 教会の外に去った人々もまたキリストの洗礼を授けうる。
(同上 2・4)

だから われらが政権党も 会議の理念にのっとって 自由民主というではないか。同時に もし跳躍の密会がおこなわれているとするなら これを認識してわたしたちは おつきあいしなければならない。

あなたがた自身から逃がれよ。なぜなら あなたがたは・・・教会(つまり 会議)から離脱してきたからである。
アウグスティヌス:同上 2・15〔・20〕)

もちろん マルクスのいう《否定の否定》のほうが 客観的で新しい認識である。もういっぺん おののの主観をとおす必要があるのだが。
後半の議論は ルウソとスミスのほかに 一世紀前のパスカルをとりあげるだけでは まだ足りないと思われたので 歴史的な系譜の通底性とか あるいは 自然ひとりを・また理性ひとりを それぞれ重視したり軽視したりするのも まずいということとかを 念のために つけくわえた。