caguirofie

哲学いろいろ

#29

もくじ→2005-12-23 - caguirofie051223

§38(同感人=会議人はつねにきわめて幸福である)

寛大で人情のある人びとがもっとも残念に思いがちなのは かれらが いっしょに生活している人びとの背信と忘恩によって 失うものの価値ではない。――とスミスが議論を始めている。
かれらが失ったかもしれないものがなんであろうとも かれらは一般に それなしにもきわめて幸福でありうる。かれらをもっとも動揺させるのは かれら自身にたいして背信と忘恩が実行されたという観念であり この観念がかきたてる不協和で不快な諸情念が かれら自身の意見では かれらがうける侵害の主要部分なのである。
(1・3・3)

道徳感情論〈上〉 (岩波文庫)

道徳感情論〈上〉 (岩波文庫)

同感人は そもそも《幸福》なのである。自己到来したから。《寛大で人情のある人びとは かれらの意見では 自分たちが その交通信用の関係において欺かれ なんらかの信用価値を失ったとしても それなしでもきわめて幸福でありえ かつ 欺きの観念によっては 侵害をうける》ということらしい。同感人は そもそも幸福なのである。まったく単純にである。
欺かれるならば わたしは存在するから。土地や生活手段を奪われた(=それらから自由になった)市民は あたかも諸情念・侵害の意識からも 自由になったのである。もちろん 感性がなくなったのではなく 欲望・心理・意識が 外から入ってくるのであるが その虚偽を知ってしる・その自尊心をこころえている ゆえに むしろこれらの虚偽を内的に棄てる。この会議の自由をかれらは所有したのである。外から入ってきたものは 出ていくであろう。
人が《背信と忘恩》をうけたということは 人格を交換されたのである。かれは 《自身にたいして背信と忘恩が実行されたという観念》によって 《不協和で不快な諸情念》がかきたてられるのではない。人格の交換のときに この諸情念をもあたかも交換したのである。外から入ってきた。つまり 意図したわけでなかったのだから 欺かれた。欺いた者は それで――おそらく 欺きという人格交換の成立したと思ったその刹那において―― すっきりしたのであろう。つまり《跳躍》したのである。そう思う込んだのである。
すべては消えてなくなるものである。ゆえに 無限の跳躍運動を余儀なくされる。中毒である。――ただし この一定の交通行為は 夢の中でおこなわれたわけではないのだから 事実関係とか そこに物がからんでいたのならその物の移動・変形。費消などとかは 残る。法律に照らして 無効の訴えをおこし 原状回復をかちとるといった問題点を別とするなら われわれ同感人にとっては 無効の跳躍人たちに対して 会議の基本前提にのっとる限り どうおつきあいしていくか これが 問題である。《危機の意識》はない。少なくとも まだ ない。この第一の否定の さらに否定を いづれ うけるであろうという展望を持とうが持つまいが 出発点の問題としては基本的に どうおつきあいしていくかが 協議事項である。
道徳感情論〈上〉 (岩波文庫)》《国富論 1 (岩波文庫 白105-1)》は 道徳哲学上の・あるいは経済行為上の 無効の跳躍者たる重商主義に対して 会議人として出発している限りで――つまり かれらも その跳躍は 会議にのっとってこそおこなうのである―― おつきあいして 批判や主張をおこなったと見るべきであって だから その後のおつきあいの進展のうえで あるいは危機意識をもつことはありうるかも知れないが はじめの危機を意識し それにつらぬかれることによって ものしたのではない。さいしょに たとえば若いときに 危機意識なるものを持っていたかも知れない。ところが 同感人の会議に立った そのとき それは消えた。消えたゆえに 書いたのである。

私の敵たちにゆがめられなかったこの唯一の確実な私の性格の記録を 私の死後の記念からとりのぞかないようにおねがいする。つまり あなた自身が そのような宿敵の一人であろうとも 私の屍灰にむかってまで宿敵となるのはやめていただきたい。
そして あなたも私ももう生きていない時代にまで あなたの非道な迫害を及ぼさないでいただきたい。決してわるいことをせず またしようと思わなかった一人の人間にさしむけられる悪が かりに復讐という名をもつことができるとすれば あなたが悪意にみち 復讐にもえたようなときでも なお寛大で心やさしかったという高貴な証拠を せめて一度だけでも 示していただけるように。
告白 上 (岩波文庫 青 622-8) まえがき)

とルウソが語るのは 一方で 危機意識がみえようとするかのごとくであるが 他方で 《高貴な証拠を示せ》と言うようにより高級な動機にうったえようとしているぶんだけ 危機の意識は 薄い そして いいかえると この危機心ともいうべき意識を かれの《宿敵》たちの中に見て それを 表現上 利用しているのである。要するに ここでルウソは みづからとして一人の同感人であろうとしているが 幸福なのである ゆえに 迫害する跳躍者たち――その思惟形態――に対して 欠陥を指摘してあげたくてたまらないというほどに おつきあいをつづけている。基本関係の愛と 経験交通の愛と。
後者の場でおこる《自尊心・自我愛・利己心》は それを利用していく。迫害されても――もちろん 物体的な・生活上の諸条件に 変化や迷惑をこうむることは言うまでもないが―― 《侵害》をうけたおぼえは ないのである。会議人の愛とは こういうものである。
だから おつきあいするし 欠陥はこれを どんどん指摘していく。人びとは つまり跳躍の機会をねらっている人びとは あざむきの手口では もうなんともならないと見ると しかし人格交換という戦略では同じことなのだが こういう会議人のことを 《おめでたい》と言って なんとか自分がすっきりしたいと図る。自分の中にある虚偽と迷妄とを すべて 交換しようとたくらんでいる。われわれは 基本の会議に立って いたるところで無数のそして無限の 愛にみちた井戸端会議を展開していかなければならない。
社会総体の観点も重要だから それについてスミスは 《国富論》を書いた。ルウソは 個人的な問題 人間学じたいの観点が 基軸である井戸端会議だ。――この会議人が歴史のなかに生きることに 危機意識はないであろう。
前節(§37)の終わりのほうで 水田洋が言っていたことは そのくわしい内容として 次である。

たとえば ホッブズは 資本主義的個人の原型として 自然状態における人間をとらえ 闘争状態にあるかれらが 生存を確保するために 絶対主権を設立するという。ところが ロックにとって とくにスミスにとっては 資本主義的個人の 商品生産を中心とする生活は〔――だから そこに 資本志向の個人をも含むかたちで――〕 自律性をもっていて 権力による統制なしに存続しうるものであった。すなわち このばあいには 絶対主義的ないし重商主義的な育成=統制のなかから 産業資本がそれに反逆しつつ独立していくのである。
ルソーのばあいには 事情がかなりちがう。かれは 自然人が自律的な秩序をもつようになったというかわりに 哲学者たちは自然人の名のもとに資本主義的人間をかんがえたにすぎないという。かれは 資本主義そのもの(じつはフランス絶対主義下の資本主義)に対立して 自然にかえれとさけんだのである。この点に スミスとルソーの 旧制度への対決のしかたと 両国の旧制度そのものの性格が みられるであろう。
(水田洋:アダム・スミス研究 4・4)

これは 社会総体の観点 または 経験行為の関係事実そのものの描写として このとおりであろう。言いかえると 《〔資本主義的〕個人 / 人間》をいうときにも だからそのような思想としての影響関係をいうときにも 社会とか歴史にあてはめて こういった指摘をおこないうるというものである。だからわれわれは わざわざ 変な言いがかりと見られかねなくとも これらの事実認識の背後に・あるいは底に スミスならスミス ルウソならルウソの 会議人としての生活態度があって 基本的には どちらもその個人として出発しているのだから たとえ経済学といった社会総体の観点での議論をもつときでも 具体的でその場を特定しうるような個人の井戸端会議として 発言したということ以外には 歴史はないと考えるべきである。
その結果 たとえばこの水田の指摘するような社会関係の見取り図が 得られるというものである、そのうえで 《ルソーの批判とスミスの批判とが あきらかに 共通の問題意識によってつらぬかれていること》がわかる。だから ただし それは 《社会的危機の意識によって つらぬかれてい》たのではない。井戸端会議を進展させたいという《共通の問題意識》なのである。そのあと それでもだめなら 危機を意識したかも知れないが スミスにもルウソにも その形跡はないようである。
だから ほんとうには まず《この危機への二人の対決のしかた》というのは 《井戸端会議の進展のさせかた そして その確かに敵への対決のしかたを含む》のことであり これが 結果的に なるほど《ふたつの国の資本主義の性格におうじて特ちょう的に区別される》としても 会議人(資本志向の個人)におうじて区別されることはないであろう。
わざと質を落として議論するなら 《スミスとルウソとは もちろん批判しているのであるが この批判をそれぞれ ふたつの国の資本主義の性格におうじて その対決のしかたを区別したうえでやろうと言って やったのではない》。たとえば マルクスの資本主義的個人への批判 これは そのかれの対決のしかたが ほかの国ぐににそのまま適用されうるかどうか 国ぐにの資本主義の性格におうじて 区別しながらおこなうべきではないか なといったことを われわれは考えることは考えるのであるが――そして事実 結果的には必ず そうしているはずだが―― 区別したから批判するのではないし 批判をおこないたいために区別をしっかり認識しようとするのでもない。
会議人が 生きて行くとき目の前の相手を見て とくにその思惟形態が 会議人の生活態度にとって敵と考えられたとき その具体的な情況を出発地点として 自分の考えをのべ そして批判もする また自分のまちがいもあらためていく これらの歴史の一定の集積が 《対決のしかたの 国ぐににおうじた区別》を そこに見させるかも知れない。しかも この区別から かれは 出発しているのではなかった。
だとすれば 会議の進展のしかたは 基本的に一つであり じっさい 敵との対決のしかたも 基本的に えらぶものではない。資本志向と資本主義志向との二つの意図形式の入り混じった一定の社会のなかで じっさいには 後者の資本主義志向を さらに抽象一般的に 無効の跳躍による人格の交換でもって密約しつつ すすむ二重会議派であるとして 認識・指摘・批判をおこなっていくはずである。
資本志向と資本主義志向とが 必ずしも分割できるものではないとしたら 抽象的な議論も必要である。この人間学の点では ルウソもスミスも 同じ対決の歴史をもったのだから 後行する経験領域から見たその対決のしかたの区別を言うことへ 議論を拡散させないほうがよい。あるいは 《共通の問題意識》を言って 拡散させず人間学の出発点にとどまるとき しかもそれの内容が やはり外的な《社会的危機の意識につらぬかれていること》だというふうに 外化させないほうがよい。
人びとは それを聞いて むずかしいことをいう人だなとか ああなるほどスミスらは この危機に向かって対決したのか たいへんだなとか 受け取るのが一般である。ルウソら個人においては 大変でも危機でもない。パスカルの言い分を聞いて この章を閉じよう。

プラトンアリストテレスといえば 学問というたいそうな服を着せてでなければ 人は考えつかない。もちろん かれらは ふつうのまじめな人間であった。友と笑いながら話をかわす ほかの人びとと変わりない。気が向いて『法律』や『政治学』をものしたというのは わざわざ そう楽しんだのである。それは 生活の一部であって 哲学がもっともお留守になった時間 どちらかといえば ふざけに近い行為なのだ。
かれらの流儀で哲学の時間とは ただ静かに過ごし 生きるときである。政治について書いたというのは ちょうど気ちがいの病院に規律をあたえようとしてであり むずかしいことを語っているように書いたのは その気ちがいの人たちというのが 自分たちを王であり皇帝であると思い込んでいるそのことを知っていてなのである。かれらのあたえた原則は これらの人の狂気をやわらげ 最小限度の悪にとどめようとするためであった。
パスカル

パンセ (中公文庫)

パンセ (中公文庫)

前田陽一訳 1952  断章331)