caguirofie

哲学いろいろ

#38

もくじ→2005-12-23 - caguirofie051223

§47(同感はまだ就いて来ている)

先行的蓄積 previous accumulation(これは スミスからの造語である)→資本→資本制生産→利潤→資本制蓄積というプロセスの構図は マルクスが《資本制蓄積に先行する〈原始(本源的)〉蓄積(アダム・スミスにおける〈先行的蓄積〉)》と述べたにもかかわらず かえってまさに原始蓄積 ursprüngliche Akkumulationという一環を欠く点に特徴を示すものであるといえよう。なぜなら おなじ場所でマルクス自身がいうように 原始蓄積とは 一方で生産手段を資本に転化し他方で直接生産者を賃労働者に転化する過程であり したがって《生産者と生産手段との歴史的分離過程》にほかならないのに このようなものとして資本・賃労働関係そのものを創造する過程――すなわち貨幣が資本に転化しうる十分な条件の成立の過程――は スミスの理論のなかには示されていないからである。先行的蓄積を果たした《独立の職人 independent workman 》は 独立生産者の社会のなかで どこから プロレタリアにとどまろうとする《手間取り職人 journeyman 》を《自然に》見つけてくることができるのであろうか。
(《国富論体系の成立》6・1)

しかし 不生産的労働者=家内奉公人 menial servants を生産的労働者に転ずるということは 一方の無産者を他方の無産者に加えることであって 無産者そのものを創造することでえはない。《国富論》は独立生産者のなお広汎に残存する社会を具体的に描破しつつも 直接そこに資本制蓄積の理論を建設しようとして 原始蓄積の問題の理論的把握には関心を抱かなかった。原始蓄積が進行しつくそうとしていた十八世紀後半のイギリスにあっては 一方には賃銀騰貴の現象が生じつつも 他方には多数の不生産的無産者を容れる余地が存在してて それが賃銀労働者を供出するプールとなっていたために 先行的蓄積と資本制蓄積とのあいだに原始蓄積=近代プロレタリアートの創出の段階が必要であるという理論的認識を スミスはもつことがなかったのである。《国富論》において 《商業的社会》の観念像と資本主義社会の具体像とが無媒介に重ねあわされていることも 重商主義批判がその一面性を脱却しえなかったことも ここにもとづくものであった。
(同上6・5)

第一。《資本制蓄積》は スミスの《先行的蓄積》が 分業社会のなかで――そしてむろん 商品交換を 交通および経済行為の 基礎形態とするところの 分業社会のなかで―― その軌道にのった段階のものである。スミスにあっては これは 消費者のために――商人や生産者のためにではなく 最終の使用価値の所有・消費のために―― 基本的におこなわれるものであるのだから ふつうの合理的な再生産をめざす資本志向が その生活態度であり経済行為への出発点となっている。これが 基本会議の合意事項にのっとるものであり 《〈商業的社会〉の観念像》だとは 言い切れないとは思うが そうであっても 歴史的に有効な主観動態がえがく 経済生活上の 《プロセスの構図》である。
経験的に言って これ以上 自由な知解と意志の発現は ないほどなのであり この歴史的な有効性は 無力にされえたということと 《観念像》に終始とどまるということとは べつである。
第二。《失われた環。原始蓄積》(当該章の副題)と小林が指摘するところの 《近代プロレタリアートの創出》たる本源的蓄積について そ《の段階が必要であるという》のは あくまで 《理論的認識》にとどまる。もしくは 細部の 経験現実の一過程である。もちろん そう認識したほうがよいのだが。ところが いいかえると 《資本制蓄積に 因果関係的に先行するところの先行的蓄積》は すでに 《無産者》たる自由な労働者――または《独立生産者》――を 歴史事実として 前提している。《賃労働者》として 《資本制蓄積》の段階において 《資本》のもとに包摂されていなくとも 必要条件としてはこの《近代プロレタリアートの創出》は 成ったと言わなければならない。
スミスがどう言っていようと そう見なければなるまい。理論的認識としてのみ 失われた環なのである。必要条件は 先行的蓄積→資本制蓄積のプロセスの構図にもとづいて 十分に実現されていく。会議の基本合意事項にのっとる生活態度またはそれの総体たる商業社会において この会議成立ということじたいが 《自由な労働者》の想定(また 歴史的なじっさいの出現)にもとづくものであったのだから くして理論的に 本源的蓄積を 認識して プロセスの環を完璧な状態において見なくとも あるいは そう見たとしても ここでは まだ依然として ふつうの資本志向の経済行為形式が 有効である。
第三。重商主義(あるいは 生産こそを重んじるのと一緒だから 重工主義)に対するスミスの批判は これら一連の先行的蓄積→本源的蓄積→資本制蓄積という経済生活上の 構図としても実行としてもの過程にかんして 単純にはそのガリ勉 しかも 単なる猛烈な蓄積のことではなく 消費もしくは最終目的たる生活一般を省みずに 商品をこそ血k須恵器しようとする資本主義志向の二重会議に向けられたものである。商品蓄積――もしくは §商品たる金ないし貨幣の増殖――じたいで 手段が目的となっているが この資本主義志向を実現させるためには さらに その会議の二重性を利用する。すなわち モノの交換を基礎形態として しかも 人格の交通の側面で 先行的蓄積を図ることが 目的となる いや 先行的蓄積のために 人格の交通――じつは その交換・包摂――によって獲得する信用関係を 手段とする。つまり はなから 人格の交換を 記号交換の同じ行為のなかで それとは別のところで密約させようとしつつ 計画実行する。ころんでもただでは起きないだけではなく 立っていてもただでは歩かないのである。これが スミスの批判する重商主義である。
それは ただちには法律に触れない。会議展開の単一性(資本志向)は そのつどの段階の蓄積においても この二重性を 無効のうちに かつ無効が実効をもったものとして 持ちえた。会議の単一性が 自由で有効なものだからである。また 法律は法律で――そして道徳習慣は商習慣として―― この会議展開に つながり その役割をはたしている。ただし 道徳論はほとんど必要のないようになるということでもあった。議論は きわめて抽象的で しかも これでしかありえない 少なくとも これであってよいと思われる。
第四。《生産者と生産手段との歴史的な分離過程》 これを 自覚(理論的認識)していなくとも すべては この歴史事実から起こったのである。資本と賃労働との関係という事態は そういうものとしての 上の事実の一つの実現である。すなわち まだ 抽象的に 会議の成立とその生活態度の形成およびそれの単一の展開 そして時に 同じくこれの二重性の展開。資本と賃労働との交通関係それじたいでも まだ 資本主義志向の二重会議によるものだと 全面的に決め付けるわけにはいかないくらいである。つまり 会議の単一性は 《資本と賃労働との包摂関係》が社会的に成立した段階でも 有効である。経済行為の 記号および進行による交通関係として 資本と賃労働とは 基本単一性にもとづいて 《包摂》しあう場合すら 考えられる。そして 会議の問題すなわち人間の問題が つねにそこに ある。二重会議も すなわち無効の 人格の包摂も おこりうるということだが スミスの理論にもとづくかぎり こうして 同感行為は まだ有効に ついて来ている。
等価交換ないし雇用契約は 記号と信号との社会行為として しかも 基本単一性を有効に保ちうる そして 等価とか自由意志とかは それとして記号理念であるし それだけとしては 表徴(しるし)の理論である。同感行為がついてきているゆえに その単一性の展開にもとづいて そしてそれをいいことにしてこそ 資本主義志向の二重会議――異感・背感――がおこる。しかも ここには つねに経済基礎が基礎となっているというこになったし 一つひとつが 社会的諸関係の総体をなして つながり合っている。スミスの市民社会は つねにバラ色である。手放しのバラ色であったなら そうは描かなかったであろう。これは 包括的であってよいし 包括的ゆえに――あるいは 主観動態の生活態度から出発するゆえに―― 一面的であることを 脱却し得なかったとしても 同感会議の一般理論を提供しえた。
この一面的であること――基本単一性――が その中でおこる二重会議を 歴史的な実践の過程とともに 包括し それが敵ならこの敵を 基本的には生け捕ることができたと語った。社会的な交通関係の 階級敵対を どうしても しっかりと客観科学的に認識しなければ われわれは有効に生活できないというものではない。しかも それらの理論的な認識は 必要・有益であるから われわれは これを活用していくことができる。そこで意見が分かれても それは ふつうのことであって われわれは 自由に対立し 矛盾を展開し発展させていくことが可能である。同感人の会議が 生活態度(出発点)として 一般理論(起源論)であるというゆえんである。
(完)