caguirofie

哲学いろいろ

#33

もくじ→2005-12-23 - caguirofie051223

§42(人格の交換は理性がおこなう)

だが それではスミスは 社会と個人とのあいだに なんの矛盾もないとかんがえたのであろうか。いいかえれば ベンサムのように アトムとしての各個人が それぞれの幸福を追求すれば 全体としての社会は 最大多数の最大幸福を達成できると かんがえていたのだろうか。もしそうだとすれば 資本主義社会をひとつの調和ある社会とみるブルジョア社会観が スミスにおいて完成したことになる。スミスが 個々人の利己的活動が 外的統制なしに秩序を形成しうるとしたのは たしかにそのような方向への 巨歩をふみだしたことをいみするが しかし その秩序にまったく対立がなかったわけではない。
スミスは 人の良心にしたがった行動が 世論と対立すること あるいは すぐれた内面的動機から発して行為が それにもかかわらず失敗することを しっていた。
(水田洋:アダム・スミス研究〈生涯〉4・6)

生活態度の問題について水田が こう切り出し すでに結論的におさえて論じるのは 生活態度が かくて経験的な社会科学としての経済学の実践へ発展するということとともに たしかに その上での生活態度の人間学そのものについてである。

動機と結果の背反のばあいには スミスは 神の法廷にうったえることをのべているが この法廷は 社会的存在としての人間の行為を判断するものではないから ここでは無視していいであろう。したがって問題の焦点は 社会のなかで 世論と良心〔――あるいはたとえば 世論とルウソ――〕が対立するということである。

  • もう少し例示すれば 記号をつうじての交換の合法性(その意味での世論)と そのとき同時に 信号交通という背後の領域で 密約しようというまじわりに対する良心的拒否との 対立。

この二重性を スミスはどう解釈したか また それは歴史的になにをいみしたのであろうか。スミスは この対立が生じたときに 人は世論や支配階級の恣意に抗して 《内なる人 man within 》の声を聞くべきだという。このことは 〔むろんそういう生活態度のことだが〕第一に スミスのホモ・エコノミクスが いぜんとして 自己の良心をさいごのよりどころとして ふるい世論とたたかいながら あたらしい社会をきずいていく過程にあったことをいみするが(このたたかいが一おうおわったとき ベンサム的社会観が成立する) 第二に 社会そのものの本質(じつは歴史的な市民社会の本質)〔――これは じつは われわれの会議の本質の問題――〕として 人は 社会からはなれたときに じぶんじしんとなるというじじつがあることを しめしている。
(水田洋:同上 つづき)

われわれはこの点――《内なる人・良心》(それと世論とのたたかい) そして 《歴史的な市民社会の本質として 人は自己実現・自己還帰する》といった点――を くわしく見ていきたいのであるが その前に この《自己還帰》と水田がいうところの一点についてもう少しくわしく きちんと引用して見ておかなければならない。

第二の点は さらにすこし説明を必要とするであろう。スミスは 人がもとめる最高の幸福を 《健康で 借金がなくて 心にやましいところのない》状態と 規定している。

  • 《同感人はつねに幸福である》とわれわれが スミスにしたがって すでに言うところのものは それは 先行するものの領域で主として言っている。後行する経験の論法で言って 上のようでも よいだろう。

これだけを獲得することは あまり困難ではないし 社会の下層においても不可能ではない。あるいみでは これは 人が 社会の錯綜のなかに身を投じなくても 実現されることがらである。この状態を 社会からはなれてじぶんじしんである人間の状態 とかんがえることもできよう。

  • この点について後に考察する。

ところで このような目的を達成するための手段として 人は 財産 地位 名声を 追求するのであるが ここに 目的と手段とのてんとうが生じてくる。すなわち 目的をよりよく達成するためには すぐれた手段をととのえておかなければならないから 手段の獲得じたいが目的となるし そのうえ これらの手段は 社会における他人との競争にかつことによって 確保されるのだが〔――このあたりは すべて 後行経験として述べられている――〕 この競争そのものは無限である。

  • 無限の競争は はじめに 先行するものの領域で すなわち理性がこれを えがくのである。字句どおりの問題としては 無限というとき それは 跳躍ではある。人は 無限ではない。

こうして 手段を目的とするかぎり 人は 個人のささやかだがみちたりた幸福をはなれて 無限の競争のなかに みずからとびこむことになる。スミスは 《自然がこのようにして 人をだまして》社会を発展させるのだとさえ いっているのである。

  • 競争場裡に《とびこむ》ことは 理性で無限競争という理念へ跳躍することを ほとんど先行的に ふくむものと思われるが スミスがそのようなだまされてもよいというのは ただ単なる(単一なる)猛烈の勤勉のばあいだとわれわれは 考えた(§40)。

そして こういう目的と手段のてんとうによって生じてくる 社会かんけいは 個人の幸福とは〔直接には〕別な問題として 道徳哲学ではなく 社会科学=経済学の 対象となるであろう。スミスにおける経済学の成立は 道徳哲学のたんなる具体化だけではなく いじょうにのべたような 社会かんけいの特殊性に そのきそをもっていた。
(水田:アダム・スミス研究 同上)

確認するならば だから この最後のほうの問題 経済学の実践の起こりと必要性とについて そのとおりだと思うし われわれはここではそれを措く。
スミスの《内なる人》――じっさいには《幸福》の問題――をめぐって経済学への発展の問題をすでに前提としながら措くとすれば あらためての生活態度のそれとして 《会議人=同感人=経済人(ホモ・エコノミクス)》が 良心において 対立する世論とどうたたかうか これが やはり問題になるとも言えるし すでに解釈ずみだとも言えるとまずは考えた(§41)。
くどいように確認すれば この二重性は たしかに二重会議のことであって 経済上のこととして 資本志向と資本主義志向との入り混じった生活態度ないし社会情況のもとで 抽象的には 資本志向と資本主義志向との対立として 一般的には 全体の世論のなかで 自己の生活態度(幸福)をどう守っていくかとして われわれはいかに人間学するかということになっていた。
ただし この上の問題は それが同時に 歴史的な過程のなかにあるにほかならないのだから 《社会そのものの本質(じつは歴史的な市民社会の本質)として》 いかなる人間学=経済学(経済学としてはその踏み出し点)のもとに とらえていくかということでなければならないのでもあった。これが われわれの想定する会議の問題にほかならず しかも そういった新しい観点に立っても むしろなお その内容の一例としていえば 《同感人はつねに幸福である。後行するものの領域で 自己に到来したところから出発している》と 堂々巡りのように 考え 主張してきた。ここでの新しい論点は 水田がここで言う《人は 社会からはなれたときに じぶんじしんとなるというじじつ》との兼ね合いである。《内なる人》をどう把握するかとかかわるものと思われる。
スミスにおける《内なる人・良心》と《自己還帰》 この二点がいまの焦点である。
初めに少し間接的な議論をはさもう。スミスの《幸福》観である。《同感人》のそれとは別に――別様にではなく同様にであるが 表現を変えたものとして―― 次のように言う。前後の文章をできるだけ端折って次の一節。

われわれは 感謝の念から感謝してはならず われわれは 人間愛から慈善的であってはならず われわれは われわれの国への愛から公共精神をもってはならず 人類への愛から寛大と正義をもってはならないのである。それらのさまざまな義務の遂行にあたって われわれの行為の唯一の原理と動機は 神がわれわれにそれらを遂行せよと命令したという 感覚でなければならない。
道徳感情論〈上〉 (岩波文庫) 3・4)

水田が 先のところで 《神の法廷は 社会的存在としての人間の行為を判断するものではないから ここでは無視していいであろう》ということに ここでは従おう。経験的な議論が 重要であるから。むろん スミスにおいて このように表現されるところが スミスにとっては 経験的をふくむ生活態度を形成したとは見なければならず そういう議論をしてはいけないのではない。
ただ 上の(直前の)文章は 重要であろう。というのは かれのいう《内なる人》が 《神の命令の感覚――感覚!――》のことでもあると考えられるし あるいはそうではなく ただ人間の知解する理念 たとえば《感謝の念》としてここで それへ理性的にのみ跳躍していくことをしりぞけたものであるとも考えられる。この一パラグラフを直接 肯定するのではないのだが 微妙なふうに スミスは言っていると見られる。だから 第一命題としては 上の《神》という語を用いた表現のほうが はっきりしているとは考えられる。
わたしの推察だが むしろこのような第一命題を経験的な論法で表現したものとして 水田は 自己到来のことを  《社会からはなれたときに》実現するものと 見ているのかも知れない。べつに 隠遁せよということではあるまいだろうから。ただし このときにも 《〈内なる人〉の声を聞く》そのこととして そうなのかどうかは つねに微妙である。その声に聞くとは 理念跳躍のことではないから 《神》を理念視しないというためにも 議論として《神の法廷》を無視するところの水田のここでの見解をとることにしたい。一つの行き方として そのほうが スミスの意図は生きると思う。
そうすると おそらく 我田引水するとすれば結局 後行の社会経験から離れ(ということは それをそのまま 後行するものだと認め その世間に倣わないということだ) 先行するものの内なる〔人の〕声を聞くことが 良心の 世論との対決のありかただということになる。資本主義志向と入り組みつつ資本志向の市民社会が 全体としてあるいは資本志向主義の様相をもってきたとしても ひととおり 会議の基本合意事項にのっとるかぎり 道徳哲学の問題は 経済学の実践に 代理される段階へうつるのだと ここでも こういうかたちで やはり歴史的にも とらえうる。
すなわち それが ベンサム功利主義的な社会観でよいかどうかを別として つまりということは よくなくても 良心のたたかいとしての人間学が ひととおりつねに 経済学のたたかいとして 実践しうるようになる とあらためて確認できる。すなわち 《会議人=同感人=経済人が 良心において 対立する世論とどうたたかうかが やはり問題になるとも言えるし すでに解決ずみだとも言える》と考えたこと。
そして 問題はここから始まる。いつも人の理論を借用しつつだが ひととおり確認の確認をして ここから新しい論点である。それは 経済学の必要で有益な実践を 措いておくことができると 考えたからである。国富論道徳感情論を 《たんに具体化しただけではなく 社会関係の特殊性に その成立の基礎をもって》 良心と世論とのたたかいを いちおう代理するようになった後 この後でも 以前とおなじように 世論じたい――世論をつくる人びとの良心の信号――に 二重性を見る場合があると考えてきたからである。ここでは
たしかにほんとうに 堂々巡りなのであるが 生活態度の形成にかんする焦点は よりいっそうはっきりしてくる。《良心と世論との対立が 問題になるとも・ならないとも 言える段階での〈内なる人〉》の問題である。
《社会からはなれて》いる・いないにかかわらず この段階でこそ むしろ 内なる人が問題になっている。それは 一方で すでにわれわれの良心の 世論との対立が解決済みだというとき そのときにも あるいは そのときにこそ 他方で 隠れて跳躍する二重会議は それが見られると思われるなら この《内なる人》の領域でこそ起こると考えられるから。問題になるとも・ならないとも 言えるというのは この意味である。だから もちろんわれわれの基本は 《感謝の念や人間愛や理念念観からの行為》というこの跳躍には 関知しないということであった。
この《内なる人》とはなにか。すなわち 経済行為を媒介として 経済外的に(非経済的に・政治的に)密約をかたちづくろうとする理性の跳躍。これを だから 内なる人がおこなう。これが 経済学実践とは別ものだとは考えられないところの いまのわれわれの問題である。これに対決するのも 経済学実践における・ほとんど経済学実践だけとしての 内なる人だということになる。だから ふたたび確認すれば この意味で 経済学は 道徳哲学に代理したが 人間学=経済学という一個の主観動態の実践であって この踏み出しの地点をとおりこえた政策理論のほうは 踏み出し=出発点の生活態度への 補助道具だと考えられるのである。
おのぞみならこれは 観念論ではあるが これを言わず扱わないと そのほうが 正真正銘の観念論か理念論かであり スミスにしたがえば 理念論=観念論の内なる人の声(政策理論の諸原則)は それに人が従っても 経済はそれなりに運営されていくだろうが 幸福への準備・補助を――補助として 必要・有益だが―― 永遠におこなっているやはり二重会議ということになるであろう。善意であり またそれが本意ではないとしてもである。
マルクスは こういう議論を暗黙の前提としている。暗黙のうちにおこなっている。暗黙であることのほうを強調すれば 《社会から離れた》ままである。自己還帰を言っており 自分では自己還帰しているのであろうが もろもろの観念=理念論――たとえば 二重会議を予定調和のうちに許容する国民経済学の《抽象的人間の礼拝》に対抗するものとして やはり《人間なるもの》――を おおいに許容するような叙述となっている。
世論と良心との対立は 一個の主観動態の内において 世論(これも一人ひとりには良心)が その内面に 会議の合意事項の合法的な記号(理念)理論としての生活態度をもつだけではなく また それを 単一に猛烈なほどの勤勉のもとに遂行するような生活態度をもつことでもなく その合法記号と同時に かくれて跳躍する理念信号をもつとき・それを人に仕掛けるときに起こるもの これが つねに残っており ここでの対決すべき問題である。
人格の交換は 《感謝の念(ありがとうの心)・人間愛・愛国心・人類愛・はては 文字理念としての神の愛》を 語ってかかげ 友だちの環をつくろうと呼びかけ これを 自己の資本主義志向の跳躍台とする 人間的なあまりにも人間的な 経済的=人間的な社会行為のことである。関知しないが 認識はするし しばしば関与せざるをえないのである。もちろん 人間はほどほど・中庸が肝心なのだといって 抱擁を仕掛ける人格の交換もある。
だから 生活態度がもんだいだと言える。