caguirofie

哲学いろいろ

#22

もくじ→2005-12-23 - caguirofie051223

§31(スミス;利己心)

アダム・スミス(1723−1790)が 《国富論 (1) (中公文庫)》で はじめに《分業について》(第一編・第一章)論じたことは その工場内での作業の分割も 社会内での職業の分化も とうぜんのごとく 人びとが 会議人として出発したということを物語っているとしなければならない。
より高級な動機によって・かつ古い表現でいえば 《すべての人がひとしく天を所有する》ことにもとづこうとして 分業をすすめたのだし ふつうに・ただし抽象的にいえば 一人ひとり 自己が自己である出発点に立って さまざまな階層・分野での社会的な分業を展開していったのだと。それまでの歴史に分業がなかったのでは むろん なく しかも《自由な労働者》の会議にもとづき だから むしろ新しい会議人として 基本的にはその愛(同感)の関係において 後行経験的にはその交通と信用との生活関係において したがってさらに 分業をあらためて 会議の社会的な・とくに経済上の 展開として とらえなおし 再出発したのだと。
先行するもののうち 知解の合理性(理念でもよい)といった能力をつうじて わたしたちは 経済活動としては――自由な意志による知解が 端的にたとえば機械の発明をもたらすといったことを含めて―― 資本生産の合理志向を 一つの基調としたのだと考えられる。

よく統治された社会では 人民の最下層にまで広く富裕がゆきわたるが そうした富裕をひきおこすのは 分業の結果として生じる さまざまな技術による生産物の巨大な増加にほかならないのである。職人はだれもみな 自分の必要とする以上の処分できる製品を多量にもっており また他のすべての職人もこれと同じ状態にあるのだから かれは自分自身の多量の財貨を他人の多量の財貨と あるいは同じことであるが他人の多量の財貨の価格と 交換することができる。・・・こうして 豊かさが一般に社会の種々の階級のすべてにゆきわたるのである。
国富論 (1) (中公文庫) 1・1)

会議人の信仰動態 その主観動態の信用(交通)・信号(意図)――つまりそれは 記号(価格)を用いる信号として――の社会関係 これにかんするふたたび戻っての各主体の生活態度 そしてその経済的な側面としての資本志向 これらの点については この上の一文のとおりでよいのである。

  • 《財貨どうしの交換》と《財貨の価格との交換》とは スミスは《同じことであるが》と見ているようである。あるいは 意地わるく見るならば 後者の交換行為には あの《跳躍》が起こりえているのかも知れない。価格という記号との交換は じつは その背後に人の信号が控えていると考えられるゆえ。その信号発信のありようによっては 経済外の交通関係としての要因を含み持って・つまり政治的な意図がからんで  けっきょく二重会議となるかも知れない。

《よく統治された社会》というのは こういった会議人の共同自治――つまりその出発点は 自治=自立――のことにほかならない。スミスが この会議から跳躍して資本主義志向つまりガリ勉に走る人びとによって 二重会議なる 階級対立の事態の発生を 見なかったというよりも そのばあいは 基本会議の有効な出発点が しかも 無力にされうるというやはり会議での合意事項を 見ていることにおいて 潜在的に語っていると取ったほうがよい。

  • 二重会議にあっても 自由・平等あるいは等価交換といった合意事項は 建て前として 守られている。ガリガリ亡者も含めて みなが 近代市民なのである。

スミスは わたしたちの利己心をみとめたうえで しかも 植民論(4・7・3)のなかで――東インド会社の問題として―― 二重会議派の利己心には 苦言を呈している。だから われわれも 会議は 無力になりうるが つねに有効であると 踏ん張ったほうが 《ぶつぶつこぼす》よりも まず現実的である。スミスは 《自己愛》すなわち同感を インドにも あるいは《全宇宙にも拡げたい》と言っていることにほかならない。言い過ぎ・あるいは強い表現だが それは 先行するものの領域で言うからであって 資本志向あるいは《国富》なる後行領域のものを それとして先行させて ひろめたいというのではなかった。
このスミスの路線を継承しなかったと見るところのマルクスは 存在しないと考える。ただしマルクスは 同じく強い表現で 二重会議派の資本主義志向の欠陥を 弾劾している。解剖学による分析としてなのだから この弾劾をただちに各人が 主観動態として 実践しうるというようなかたちには なっていない一面があった(§19)。けれども むろんかれが 《ぶつぶつこぼした》のではない。
われわれは ここでは 《会議》の観点から 思想家の出発点・生活態度を読んでいく。
スミスを ひとりの会議人としてとりあげることについて たとえば《同感》の理論で――それをまだわたしたちは くわしく議論していないのだが―― 人間学の側面としては 恣意的な理解でも牽強付会のぎろんでもないと 認めてもらえるとおもっているのだが ただし 経済学の側面にうつると これから述べる議論については その恣意性を・少なくとも主観性を 指摘されるかも知れない。また 逆に あくまで 《会議の観点から》と言っていることは もともと 恣意的な理解にとどまると言われてもしかたのないことではあるのだが。とよぶんなことわり書きを 再度 はさみつつ。――
スミスは 《分業をひきおこす原理(=生活態度といったほどの意)について》(1・2) こう切り出す。

こんなにも多くの利益を生むこの分業は もともと それによって生じる社会全般の富裕を予見し意図した人間の知恵の所産ではない。分業というものは こうした広い範囲にわたる有用性には無頓着な 人間の本性上のある性向 すなわち ある物を他の物と取引し 交易し 交換しようとする性向の 緩慢で漸進的ではあるが 必然的な帰結なのである。
国富論 (1) (中公文庫) 1・2)

恣意的でない理解にとりかかろうと思えば 《人間の〔自然〕本性上のある性向》が とうぜん ひとりの人間の主観の 社会的な共同化のことを言っている。その生活態度の経済的な側面で たしかに 自己の労働生産物を他人のと《交換しようとする性向》である。《自由な労働者》としてこの世に放り出されたことを契機として かれは 会議人として立った その《社会全般の富裕という広い範囲にわたる有用性には無頓着な》生活態度は 主体の意図と行為との自由 人間労働の等一性を見たゆえに すすんで《商品生産者》という歴史的にして社会的なすがたをとって すすんで交通し物を交換していくことができる。無力になりうる有効な出発点だが 基本的に そして具体的には資本志向として これである。すなわち 会議の成立が この一文にも含意されている。この出発の時代たる近代の以前には さまざまな社会的の制約が この会議の展開にかけられていただけだとさえ 考えられる。
この生活態度が 経済的な側面で 知解の合理性によって 資本志向を意図したとするなら その意味で すでにこの設計図(《人間の知恵》)は最初にあったとも考えられるし そしてそれは 基本的に一個の独立(自由)の主体の問題としてだけであったとも言える。
基本主体は 同じく基本的に関係しあう存在であるが この意志や意図においてとらえるところの《関係》は 後行する交通において 物の使用価値の実現を 社会的な交換をとおしておこなうという生産の形態への 一つの前提となる根拠までであって たしかに 社会総体としての分業は その根拠と意図とに付随するとはいえ あからさまに前もってこれを自覚的に計画したとか 意識的にそうして 《その分業によって生じる社会全般の富裕を予見し意図した》とは 見ないほうが 適切である。一個の人間の《資本志向》は  《社会全般の富裕》としての全体概念たる資本志向によって  《代表されることはできない》と言ったほうが 適切である。ゆえに 会議人の社会。これが のちに 二重会議派の跳躍をゆるすが それによる資本主義志向の有力化のもとにおける階級対立について 基本的に 関知しないでよいのである。
会議の展開としての社会の進展とともにあらわれる事態を 認識はしなければならないし それとして対処していくのであるのだが それはむしろ 基本の会議が この事態もしくはその意図となっている跳躍志向に 関知しないゆえに そうすると考えたほうが 現実的なのである。つまり 早まった一つの結論としては 経済学ないし一般に社会科学――これが こののちの事態を 認識しそれに対処する手段である――は しかしながら会議の人間学・その基本の生活態度に まったく取って代わってしまうものではないことを 意味している。
無効の跳躍をもってして 社会的に有力となった二重会議派の資本志向主義 これに対しては われわれが じゅうぶん 人間学=経済学の実践において 経験的に処理していけるということを ものがたる。いまのところ 分業社会の中で・分業社会として われわれは進むことができる。《社会全般の広い範囲にわたる有用性に頓着》するような計画経済という一つの手法が 考えだされ実施されるということも その会議の基本線のうえで 自由な処し方の一つなのであろう。どんな手法が いちばんよくはたらくかは 後行する社会経験の領域での その意味で偶然的である 交通関係の結果にかんする《予見と意図との人間の知恵》は 事前計画的であることもできるし 非計画的であることも可能であるのだろう。そして このばあいの 事前計画的である人間の知恵(経済学)は 一人ひとりの会議人たる市民の生活態度(人間学)に 微妙だがどちらかといえば 後行する。
非計画的であるなら もともと そういうかたちで 後行する。言いかえると 経済学――学――は そもそも先行する意志と意図とのものであるから それとして 事前計画的でありうるが 社会経済的な後行する経験領域は とうぜん それがいかにきちんと運動法則のようにして認識されたとしても この認識そのもの・そのままが 生活態度に先行するものではない。運動法則は 自然必然 偶然必然である。そのほうが人間に対して より強い制約する力を有しているとしてもである。
われわれが もし社会全般にわたる事前計画的な経済学の手法を 実行することになったとしても それは この後行する偶然領域での 有力な制約要因たる運動法則に 取って代えるためなのではない。学の手法は 具体的な手法といっても まだ先行する学の領域にあるものだし 経済運動の必然法則は それがどんなに客観的に認識されていたとしても まだ 外の 後行する 経験偶然のものであるから。認識そのままは まだ 外から来たものである。
互いに異なる二つの領域のものを 交換することはできない。学は認識にもとづき認識に対して なにかを意図するものである。非計画的で無政府的な経済学の手法に交代しうるのは 計画的な考えに立つそれだし 両者は おそらく相対的なものでさえあろうし 自然必然の法則的な運動に代わるものは それぞれの手法の試行錯誤的な実施過程・その効果のぐあいであるし また いづれの場合での社会偶然としての経済運動に対しても われわれがどう 制約され譲歩し・また対処していくかが 個人個人の生活態度においてとともに ふたたび社会総体的な経済学としての態度において とらえられているその出発進行いかんの問題である。
要するに 会議に立つかぎり――そして まだ 立っていてよいと思われるかぎり―― 経済的な側面としては 資本志向にもとづく分業社会を われわれは ほとんど普遍的に 前提していく。資本志向の資本ということばがいけなければ 合理志向 そして合理でもいけなければ 自由とか平等とかの必然真実の志向 これでもまだ あまりに 人間中心主義でその自我志向がつよいと思われるなら これらの合理・真実必然は 人間の自然本性のものであり 資本は 生活のゆたかさという一つの態度に属するものであるのだから 自由で平等な自然志向=資本志向といえばよい。もう一度 要するに 分業社会は 会議人の社会の一つのありかたであると考えてよい。
だから ここから さらに会議の協議を展開していけばよい。スミスは まだこのことを 語っていることができる。社会主義社会も スミスの会議思索の基本線に立つものだと言ってよい。
このいまの議論が 非常にややこしく 現状肯定だとか保守主義だとかとして 批難されやすいのは すでに(=まったく) 後行するものの経験偶然の領域で あれこれ判断しようとしているからである。自由で平等な自然志向=資本志向というのなら 逆に すでに社会主義の経済学の手法がおこなわれてきている社会にあっても それは 保守主義だと 見られるのではないか。つまり 社会主義の理念の平板な確認による現状肯定にすぎず それは 何も言っていないではないかという批判。もっとも わたしは いま 社会主義社会の中にいないから やはり資本志向がそこに入り組んだ資本志向主義の社会を 現状肯定したものと見られるかも知れない。
資本志向は じっさい ルウソのいう《自尊心》にかかわる。そして 資本主義志向に反対するいわゆる現代のエコロジストは 自然志向をもって――それを 自然志向主義とは言わずとも―― 資本志向にも反対する。つまりだから――ここで ややこしいのは―― たしかに スミスのいう《利己心》の問題にかかわる。次の文章では 《自尊心 self-love 》と言っている。

文明社会では 人間はいつも多くの人たちの協力と援助を必要としているのに 全生涯をつうじてわずか数人の友情をかちえるのがやっとなのである。

  • ルウソの孤独を意識して あわれんだわけでもないだろうが。

・・・ところが人間は 仲間の助けをほとんどいつも必要としている。だが その助けを仲間の博愛心( benevolence )にのみ期待してみても無駄である、むしろそれよりも もしかれが 自分に有利となるように仲間の自愛心を刺激することができ そしてかれが仲間に求めていることを仲間がかれのためにすることが 仲間自身の利益にもなるのだということを 〔信号と記号とをとおして〕仲間に示すことができるなら そのほうがずっと目的を達しやすい。・・・こういうふうにしてわれわれは 自分たちの必要としている他人の好意の大部分をたがいに受け取りあうのである。
国富論 (1) (中公文庫) 1・2)

《博愛心》のほうが ルウソのいう《自己愛(基本関係の愛)》または そこから出た《人類愛と徳と》であるように思われる。だとすると ルウソとスミスとで意見が互いに分かれてもどうということはないであろうが われわれの会議の成立の例証にとっては こまる。もっとも われわれも 後行する交通関係におけるあわれみや信用としての《人類愛と徳と》には あまり意味がないとは 言っていた。だが われわれが 《基本関係の愛》としたルウソの《自己愛》に やはり かかわる《博愛心》を スミスは どうでもよいものとするのであり つまり いま現在の交通・交換に際して どうでもよいとするだけではなく 《自尊心=利己心》としての《自愛心》のほうを 博愛心に代えて おしだしている。
これに対するわたしたちの解釈は 会議の宣言のなかで言っていた《わたしたちは 歴史を夜から始める》(§29)というすでに 後行領域での処し方の問題だという見かたである。すでに出発しているときの事例で スミスは 論じているのだと。きわめて保守主義だと批難されやすいところの すでに会議の展開におけるものとしての生活態度 また それの協議が ここで述べられているのだと。
博愛心を 会議の一つの理念として――それを 理念主義にするのではないが また そうとられないように むしろ しりぞけて しかし一つの理念としては―― スミスも 持っている。自愛心・利己心・そしてむしろそのような心理の動き(つまり 主観の内に起こっているが 外から入ってきた実際には外のもの) これを スミスは 持っていない。どうでもよいものとして 扱っている。きっかけ 手続きの要素としているだけだ。
もちろん 上の引用文の中でも 《自分に有利になるように》とか《仲間自身の利益にもなる》とか言って 明らかに 自愛心をみとめている。みとめるだけではなく それを利用している。利用せよと言っている。ところが このことは やはり かれは 《歴史を夜(自然必然の領域)から始めている》のである。この《利益》の信号または記号は まだ 跳躍していないと言わなければいけない。
そしてただし 明らかに 資本志向ではある。そして しかも いま一つ別の信号を送って その交換にあたって 密会しようというのではない。商品を交換するのであって 人格を交換するのではない。議論のうえでいえば 《乞食ですら それ(博愛心)にすっかりたよることはしない》(同上)で 自愛心を 商品交換のきっかけとし それは すでに単一の信号および記号(そういう商品の基本構成)でもって 交通をおこなうというのである。仮りに《乞食》であっても もはや中世封建社会の不自由な人間ではなく 自由な労働者の会議にのぞんだことをとおってきており しかも 跳躍の密会をおこなうようなどれいでもなく 自立しているのだと。非自発的な失業者の 特殊な緊急避難のばあいが 考えられるから こじきも 議論に入る。
ここには 会議の宣言がある。(ここから わたしが 勝手に 宣言をこしらえた?) つまり スミスにおいては  《同感 sympathy 》というやはり基本意志――関係としては愛――がある。ペーソス( -pathy / 情念)を共に( sym- )するというのだから これはやはり 後行の経験心理に着目して 会議に立つ主観動態のことを言ったと考えられる。その限り 《あわれみ pitié 》とも言える。この《同情 pity 》は もっぱら感情移入――そして時に その移出――のその感情のみを指して言っているとは思われるが。
《会議》のことを スミスの用語にならうなら 《 synod 》というのがよい。《道( -hodos )を共に( syn- )する》という意味である。この会議人たちは 生活の経済的な側面として ともかく資本志向をもって進んできたと考えられる。
つづく→2006-01-15 - caguirofie060115