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もくじ→2005-12-23 - caguirofie051223
§37(古い会議の復活ということ)
《一般意志 la volonté générale 》には わけのわからない一面がある。あるいは 経験上のことがらとしては わけのわけらない(どちらとも判断の定まらない)先行するものであるところの意志一般を指して言っている一面がある。
《社会契約 le contrat social 》という一件で まずルウソから見ていこうと考えているのだが まずこれが 理念(または法律)主義志向ではないということを 見ておかなければならない。
すなわち 政府を設立する行為は けっして契約ではなくて 一つの法であること 執行権を委託された人々は けっして人民の主人ではなく その公僕であること 人民は 好きなときに 彼らを任命し また解任しうること 〔公僕である〕かれらにとって 問題は契約することではなく 服従することであること 彼らが国家から課せられた職務を引き受ける場合 彼らはただ市民としての義務を果たしているにすぎず その条件についてとやかく言う どんな権利も持っていないこと 以上である。
だから たまたま人民が世襲の政府を設ける場合 それが一家族による貴族政であろうと 人民が行なったことはけっして約束ではない。それは 人民が別の統治形態をとろうという気を起こすまで 人民が統治機関に与えた仮りの形態にすぎないのである。
このような変革はつねに危険なものであって 公共の福祉と両立しなくなるまでは けっして既存の政体に手を触れてはならない ということは事実である。しかし この自重は政策上の(――会議の具体的な協議上の――)格率であって 法律上の規制ではない。
(社会契約論 (中公文庫 D 9-2) または政治的権利の諸原則》3・18)
なぜなら
国家には廃止できないような基本法は何一つなく 社会契約でさえも例外ではない・・・。
(同上)
たしかに われわれの《会議》も 歴史的な一つの特殊性であることをまぬかれない。もう少し細かく見て 一点だけルウソにも たてつこうとすると またまた引用になるが 次のような考え方は どうか。
人間が社会契約によって失うもの それは彼の自然的自由と 彼の欲望を誘い しかも彼が手に入れることのできるすべてのものに対する無制限の自由とである。これに対して彼がかち得るもの それは社会的自由と 彼が持っているすべてのものに関する所有権とである。この埋め合わせについて思い違いをしないためには もっぱら個人の力だけが限度を左右する自然的自由と 一般意志によって制限されている社会的自由との違いを はっきり見分けることが必要だ。
(社会契約論 (中公文庫 D 9-2) 1・8)
生活の手段も場も奪われてしまった《自由な労働者》が 《自然的自由》を制限され 所有権に代表されるような《社会的自由》を 基本的に 得ることになったことは――使用価値とその価値記号とから成る基本構成をもった商品として かれの労働生産物を 社会的に融通しあうことになったのを 意味するから―― そのとおりであるが そして そのことを 社会契約(会議の合意事項として)と言っても かまわないわけであろうが このことは けっして 後行する社会経験的な行為関係に 直ちに初めから そのような枠をはめたというものではない。すべては――会議の成立ということのすべては―― 先行するものの領域で おこなわれるものであるから。しかも 生活態度ないし後行する行為として 商品生産者として現われたことも 事実である。また 先行するものの領域で会議が成立したことが 歴史経験的な人間に起こったのだということも 事実である。
言いかえると ルウソにここで故意に盾突くというそのわけは 会議の成立ということが 自由な労働者の もうそれしか持っていないようになったところの自己の行為能力 これの所有を 基本的に意味しているものでなければならず このとき ここから出発することこそが 人間の 自然本性の自由でもあれば 同時に 歴史特殊的に社会的な自由でもあると 人びとは了解し同意(同感)したという一点である。
この意味で われわれが想定するものは 会議である。社会的自由が 法律制度として 所有権のかたちで実現されること これは 社会契約であるだろうし われわれの観点からは 会議の展開としての具体的な協議・協約の一事項である。基本の会議は 自己到来・自己所有というきわめて抽象的な そして自同律( identity )のような 同感行為に成立する。先行する同感行為。
ということは 他方で スミスも 叙述としては――《道徳感情論〈上〉 (岩波文庫)》において―― 必ずしも明確ではなかったかも知れない。マルクスは この先行する同感行為からの跳躍――たとえば 疑いによる異感どうしの密会 という第二次の(二重の)同感――を 解明することに 力点をおいていた。《自由な労働者》たちが 自然本性においてと同じく社会的な存在として 会議人たる自己を発見し それに到来したとき 心を一つにしたのと同じように 資本主義志向に走る二重会議派も 互いに心を一つにし ガリ勉の会という国民的成心の促進・普及につとめた。これが 《契約ではなく 法〔律〕による》とルウソが言うとき 先行する同感行為をかれも言っており 所有権を契約しあったというとき かれは 道徳哲学としての一つの規範を問題にしている。
自由な労働者たちが 会議を展開していくとき それは 労働生産物を商品として融通しあい 社会的な分業を展開していくことであるが このような分業=協業という経済行為そのものをとおして 互いの所有の自由や平等を 究極的に 実現していこうということであって そのほかに 基本人間学は 自己の主観動態として 基本主体つまり自己そのものであったとしても 哲学も政治学も芸術も自然科学も そのための補助手段であるか それによって開花しえた成果であるかであった。むろん 補助の道具は必要で有益であり 花ひらいた成果はかれらのものであるが わづかに 主観動態としての個人の経済行為と その社会総体的な過程や構造関係とは べつのものでありうるから 経済学が必要であった。おそらく この経済学も 何もしないでよいという考え方がありうるように 補助道具の一つなのであろう。そして しかも この経済学が その社会構造的な観点をもって 社会的な存在としての人間学を代理しうるという位置を占めるものとさえ思われる。
先行するものの同感行為は 社会的諸関係の総体という観点――観点――までには おのづから及ぶものと思われ したがって 必ずしも だからといって 同情を第一義に要請するものでもなければ あるいは 博愛心とか人類愛を同じく要請するものでもなく 結局は依然として 個人の主観動態が 基本であり かつ それにおいて 人間の社会行為は ひとまず完結すると考えるのだが その主観動態が 自由に平等な関係を展開したいというとき 自己の愛は 利己心をきっかけにはするが それにのりうつっていくものではないことが 帰結される。ゆえに 経験科学・社会科学としての経済学。自己の欲するままに 利己心を活用していくという個人個人の主観動態の形成にまね 経済学をもった同感行為は およぶと考えるのである。もしくは そいうういうものとして 経済学が出現した。
そして このとき 経験上の考え方として・手法として 何もしないのではなく 総体的な観点に立って側面的に 調整・援助をしていくという経済学の行き方が ありうるというものである。これは 一個の主観動態が その同感行為が 社会総体の事実関係とは別のものであって なおかつ その総体としての観点にまでは及ぶものであり その限りで いちおう社会行為としても それ自体で完結しうるとさえ考えられるゆえに この経済学が 共同自治の次元で 何もしなかったり 何かをしたりするという考え方・手法を 可能にするのだと思われる。一個の社会形態の総体つまり共同自治の制度にかんして 扱わなければならないというとき 政治経済学という行き方にもなるかと思われる。
これの実現のための 社会科学上のあるいは自然科学上の技術的な補助手段の問題を別とすれば 教育は この政治経済学についての自己教育・相互教育が 柱になると考えられる。その余は 文学の問題である。文学ゆえに 文学をとおして 政治経済学のことを理解するという方面もあるであろうが。そして あとは 分業=協業の問題になると考える。たとえばルウソとスミスとマルクスとは ここまで語ったと考える。
問題は これに対する障害 つまり二重会議派の歴史的な遺産の問題にある。その無効の跳躍――疑いの密約 密会する信用交通 これに対抗する理念主義志向の信念 両者で資本志向主義――について われわれは関知しない だから 会議の基本線のあとは知らない と言ってうえで この愛すべきかにみえる商業の帝国に対して 認識し どう対処していくかにある。ここでは つねに 出発点としてである。マルクスが
資本主義的生産様式から生ずる資本主義的領有様式は したがって 資本主義的私有は 自己の労働に基づく個別的な私有の〔――跳躍・人格の交換による――〕第一の否定である。しかし 資本主義的生産は 一種の自然過程の必然性をもって それ自身の否定を産み出す。それは 否定の否定である。この否定は 〔――だから基本の会議の 直接には資本志向の 肯定であり――〕 勤労者の私的所有を再建するのではなく 資本主義時代の成果を基礎とする すなわち 協業と 土地をふくむ全生産手段の共同占有との 基礎のうえに 勤労者の個体的所有を再建するのである。
(資本論 1 (岩波文庫 白 125-1) Ⅰ・7・24・7)
というとき まずは 会議の基本線の再確認と再確立とである。そして 資本主義時代にも 資本志向のわたしたちが いたと言わなければならない。あたりまえのごとく。すなわち 会議はすでに成立していたし その意味で 復古ではないだろうけれど 復活であってよく それは 将来に向けても 経験的な過程をとおってであるし 過去にさかのぼっては これは各主観動態の生活態度としての 過去にとおってきた径程を学び知り そこで 虚偽の心理であったものはそれとして棄てていくというやはり 経験動態をつうじて 再生するものであると考えられる。出発点としてだから このように 抽象的に議論する。
過去にさかのぼって ここに具体的に見えてきているものは 理念的な商業主義志向の一つの経済学(重商主義) あるいは この商業主義は はじめの同感を疑い否定することによって異感をもち その異感が国民的に心を一つにしてなったものであるが そのような倒錯した思い込みと習慣上の惰性とから はじめの同感者をのけものにし迫害するそのときの思惟形態 これら二つである。すなわち二つを言いかえると 重商主義の 経済学および道徳哲学であるのだから これらに対して スミスがそしてルウソが どうたたかったかが 当面の焦点である。
なお水田洋の見方に 次のようなのがある。わたしたちの見方は 経験的なことがらの問題として 結局 異議をとなえるものではないと思うが 生活態度のさらに内面的な問題 そこでの意図の跳躍としての本源的蓄積(=人格の交換・包摂)に 焦点をあてようとするものである。
スミスとルソーとの対比は・・・注目されるべきである。それは フランスのアンシャン・レジーム(絶対主義下の資本主義的発展)にたいするルソーの批判と イギリスの後期重商主義=旧植民地制度=パーラメンタリ・コルベルティズム(議会権力による本源的蓄積)にたいする スミスの批判とが あきらかに 共通の問題意識すなわち 社会的蓄積の意識によってつらぬかれていること そして そのうえで この危機への二人の対決のしかたが ふたつの国の資本主義の性格におうじて特ちょう的に区別されることを 明示するであろう。
(水田洋:アダム・スミス研究4・4)
商業主義は 内面の意図として二重会議 経済的には資本主義志向(志向としては内面のものであるが)のかたちで つづくものである――または それらの逆――と考えられ わたしは これに対決するところの 認識 そしてほとんど結局は認識のみなのだがを 出発点において 考える。妙な言いがかり そしてほとんど一見して 理解しがたい議論だと思われるかも知れないが 《社会的危機の意識》は 必ずしも歴史的なものではないと考える。それは 主観の内に入ってくる意識だが わたしの主観動態なのではなく わたしは その危機意識では《つらぬかれ》ない と言いたいとおもう。
経済的な重商主義の社会的な影響にしても内面意図の重商主義(それは ガリ勉による他者の人格の征服)にしても 人に 危機意識を植え付けるまでに到ることは 事実である。だが どちらにしても わたしは わたしに 危機がないから 個人的な 重商主義者に対する交通関係においても 一般的な次元でのそれにおいても まず その特定の重商主義者の意図を とらえる。認識をその一件で完了したなら 基本的には 相手との具体的な交通関係で その個人と同じようになって――利己心をもった人間のようになって―― そしてそれに応じて その意図の欠陥を指摘する。ほめて指摘するばあいも 関知せずしかも関与せずというふうに何も言わないという指摘のばあいも ある。
危機は もしそれをわたしが確かな危機として認識するのは 指摘が もし有効であるなら 有効であるのに 無力となって その相手の人が 抽象的には会議に参加しないことをつづける場合 具体的には交通信用の関係をまったく成立させないで居つづけるばあいに起こる。これは 解剖学的には 疎外という交通関係であり さらにその一つの原因が人格の物象化であると 分析知識としては 言える。もし 個人的にしろ社会的にしろ 《危機》が わたしに意識されるのは このとき初めてである。(分析知識なしでも そう言える。)
わたしが この危機意識につらぬかれるとしたなら それは あくまで 結果なのである。解剖学知識は この事態をそれなりに解明してくれるが まだ 主観動態の実践には 上がってこないはずである。知識をひろめるという実践までである。このあとは まったく形而上学の議論になるから 言うのをよすとして このような見方・考え方を 別に言いあらわすとするなら 《ふたつの国の資本主義の性格におうじて特ちょう的に区別される》ところの《危機への二人の対決のしかた》というものは ないということである。もし 危機の意識につらぬかれるような事態が起こったとするなら その事態が 人びとのあいだに区別されるようなことはなく したがって その危機への対決のしかたにも 区別はないということである。
出発点の問題というのは ここにあり 空論のように見えるかも知れないが これを解き明かさないでは わたしがこれをつづることは まったくないはずである。安っぽい禅問答であるといわれるだろうが この点を以下に明らかにして お目にかけたい。
先のマルクスの展望も――これにわれわれは反対ではないが―― まだ展望の意識であり 意識する展望であって これは 認識事項をもっているからにはただの心理ではないが まだおそらく 外のもの あるいは 結果的なものである。出発点をいまは問題にしているから 具体的な政策実践のことは別にするというわけでもあるが しかも 必ずしも別としたわけではない というのは われわれは 政策実践へうつるときも 展望意識――あるいは危機意識――で必ずしも 出発するのではないから。会議人の同感行為から出発する。結果的に その道程で 展望や危機をもったり意識したりすることはある。