caguirofie

哲学いろいろ

#15

もくじ→2005-12-23 - caguirofie051223

§23

われわれは 無効の跳躍は 独立性をみせかけて 密会の運動において その独立性のみせかけを保持すると論じた(§4)。みせかけの独立性でも その生活態度において 会議の出発点を守っているのである。合法的なのであるし また みせかけをでも保持するというのは 生活態度の問題であって 主観の意志と意図とは おおいにかかわっている。
ただし 会議の準備をするというだけの姿勢において 永遠の運動をおこなうのは――資本それじたいになり代わって その価値増殖の無限運動を遂行するというのは―― たしかにそこに 反面で 主観の意志から独立した動きが 密約への忠誠心のうちに また 国民的成心のうちに 展開されるということを 妨げない。
マルクスは この点に注目する。説明の一手法としてであっても。

生産物交換者がまず初めに実際上関心をよせるものは 自分の生産物にたいしてどれだけ他人の生産物を得るか したがって 生産物はいかなる割合で交換されるかという問題である。このような割合は ある程度習慣的な固定性をもつまでに成熟すると同時に 労働生産物の性質から生ずるように見える。・・・事実 労働生産物の価値性格は 価値の大いさとしてのその働き(価値記号あるいは記号価値)によってはじめて固定する。

  • ただちにつづけて次のように言っている。

この価値の大いさは つねに交換者の意志 予見 行為から独立して変化する。彼ら自身の社会的運動は 彼らにとっては 物と運動の形態をとり 交換者はこの運動を規制するのではなくして その運動に規制される。
資本論 1 (岩波文庫 白 125-1) Ⅰ・1・1・4)

これは 社会形態の歴史総体的な経済運動の法則のことを言っているのではなく 市場価格の変動といったことがらで言っているものである。つまりに だから 独立法則のことを言うための大きな要因をなすものだと考えられるが これに対してまずは その独立した運動に 事が 還元されるのではないと言わなければならない。単純にいえば このとき 商品としての労働生産物の量の多い少ないによって 価格を 変動させることを 人びとが取り決めあうという要因もはたらくものだからである。
《交換者がこの運動を〈規制〉するのではなくして その運動に規制される》というとき そのような受動的なものだが 主観の意図をはたらかせている。そして じつは それだけではなくして この市場価格の独立的な変動性をいうとき 人為的な力の及ばないもの・あるいははじめに人間が意図しなかったことなどを別として なにを・いかに・そしてどれだけ 生産するかということは そこに密約があったならこの密約への忠誠心をもって そして 密約をもたない資本志向の経済活動を含めての或る国民的な成心をもって おこなっているという事情は 看過することができないものだからである。
だから 気の早い結論ではあるが 資本の――広く資本志向(ふつうの勤勉)と資本主義志向(ガリ勉)とをふくめた社会的な資本総体の――独立的な運動というものは 不可抗の力や意図せざる結果を別とすれば 必ずしも真実の認識ではない。資本主義志向の価値増殖の理論――記号価値をもとにした経済活動の理論―― これはその限りで 法則的であって この法則は 人間の意志から独立した運動をおこなうかも知れない。いや そうさせようと これも 人間が考え出したものであるが(数の論理などに関する部分は ただ自然的な法則であって 発見したものであるが) 一たん運動がすすむと わざわざ狂気にも理論と法則とを先行させて そのときには 独立した動きを見せるものであるかも知れない。市場価格の変動性が ただはじめの意図(計画)どおりには行かないものとして あるいは 個人的な意図の問題を その点では もともと超えているものとして 推移するということが 独立した運動の法則をもつと 理論されることがあるわけである。資本主義志向は この運動と遊びたわむれるわけである。永遠の準備の会議の世界へ 跳躍したのだから。景気がよくなったとか わるくなったとか よくしようとか 言いつづけあっている。
というのみなのである。つまり 無効の跳躍に対して われわれは 関知しない。こういうふうにこそ 経済学しなければならない。だから

私的労働の社会的性格を したがって私的労働者の社会的諸関係を明白にするかわりに 実際上蔽いかぶせてしまうのも まさに商品世界のこの完成した形態――貨幣形態――である。
(Ⅰ・1・1・4)

というのは うそである。記号形態に秘密はない。跳躍への信号と同意 その――そのような――信用関係 その共同信仰 これが 意図の密約なのであって 実際上その資本志向主義にもとづく頭の体操のような経済学理論も その限りで 私的労働の社会的性格を――分業=協業のなかのその位置を―― 貨幣記号によっても示して明白にする。この経済学理論以外のところで 跳躍点が明らかにされず それを蔽いかぶせようとするものがあるというよりは この密約は もともと隠れているのである。
現われたところでは 基本的にすべて 合法的で妥当なものとして 活動している。だからわれわれは 密約の跳躍にかんして これを知らないと 言っていなければ・そのように生活していかなければ いけない。マルクスの解剖には 誤認がある。
われわれは 運動法則に対して これに適応することはおこなうが それを明らかにしたからといって どうにかしようとするものではない。しかも われわれは それに対して どうにかするであろう。なぜなら この運動法則は 近代経済学では 多かれ少なかれ 人がその意図において跳躍したことを前提にして 資本の理論が明らかにされ マルクス経済学のばあいには この跳躍に対して あとは知らないというのではなく 解剖の結果 がん細胞であると判明したと主張するようなかたちで やはり資本の理論が 組み立てられていく のであるが このとき われわれは あとは知らないと言っているということは どちらの理論にしろその運動法則に対して 先行する主体として確かに生活態度において 自由になる そして そればかりではなく(その自由は 無力にされうるが それだけではなく) われわれが基本の推進力だと知っている資本志向の動き これを 確立させていくからである。わづかに 個人的に生活態度において なのだが。
そのとき 運動法則をどうにかよくした結果を 手に入れるだろう。この接近・対処のしかたが 基本であるだろう。つまり これが 経済学・経済的な社会生活なのである。マルクス経済学ではなく マルクス自身のばあいは あいまいだとしか考えられない。
くどいように言うと 資本主義志向という密会の跳躍 これは われわれは関知しない そして 毒麦だと言えるかも知れないが 言っても たしかに これをただちに引き抜こうとは思わない。じっさい それは 資本志向という合意事項に むしろあまりにも忠実なだけである。この認識は しかるべき場合には 言いつづけていくし 基本的には 生活態度の出発点への復帰を想起せしめつづけていく。個人として 資本志向の経済活動をおこたるわけではなく 社会として・社会科学として 経済学の具体的な政策理論を持たないというわけではない。会議からの展開 会議じたいの展開は あくまで自由である。
このほうが 現実経験的であり 近道である。というよりも それ以外の道を われわれは 能力によって 歩むことができない。この能力を持っていない人は いないはずだが 持つための準備を永遠につづけるのではなく ただちに持つべきである。持たないことは自由であるが 持てないとは言わせない。持てているから マルクス経済学にしろ近代経済学にしろ 生活態度の出発点からの展開を 理論する。
この理論の意図において はじめの生活態度を持っている。ただ 跳躍したあとの地点から ながめるかたちで その場合は 持っているのである。だから その意味では 経済学理論などというのは 初心者や専門家のほかには 読む気もしない。

24

〈第一章 商品〉のつづき(その第四節)である。

もし上衣や深靴等々の生産者たちが これらの商品の一般的等価としての亜麻布に――あるいは事実上すこしもことなるところはないのだが 金や銀〔の価値記号〕に――関係せしめるとすれば 彼らにとっては その私的労働の社会的総労働にたいする関係は 正確にこの倒錯した形態で現われる。
資本論 1 (岩波文庫 白 125-1) Ⅰ・1・1・4)

ものかどうか。個人のおこなう私的労働は その主観から独立して動く市場価格にもとづく商品流通に 規制される側面を 明らかに 持ち そのような構造的事態としての社会的総労働に対して 価値記号をたしかに行動の指標とする。自分の信号・自分の主観的な価値記号は 社会的に既成の価値記号のあたいに 規制されるが これが記号価値に転化したものとして 行動の指標となっていたとしても その貨幣記号に罪はない。貨幣記号で表わされるところの商品流通の体系 これにも 秘密はない。記号を社会的に持つこと これには どんな倒錯も起こっていない。倒錯した形態は まだ 目に見えて現われていない。跳躍は つねに隠れておこなわれるのである。

このような形態が

  • だから 記号の問題では決して倒錯をおこしていないところの そして 隠れた信号世界で 跳躍するゆえに倒錯をはらんだところの形態が

まさにブルジョア的経済学の諸範疇をなしているのである。
(同上・つづき)

これとしての近代市民の経済学は たしかに跳躍点のことをあまり言わないが――あるいは 《経済人》の前提で その前提じたいに 跳躍(むしろ 理念主義・合理主義)の可能性を秘めていると思われるが―― その跳躍ゆえの倒錯(ガリ勉)は 記号概念そのものには現われないゆえに その限りで――少なくとも 上の前提のあとでは――扱わない。記号概念による労働・商品・資本の理論は こうして あくまで 記号の記号による〔そして 時に記号のための〕整理にとどまる。
主体の意図・信号がむろんないわけではないが それをつきつめていくと たしかに記号価値の動き・資本記号に有利な動きを たいてい 一つの目的としているのをわれわれは発見する。アダム・スミスが この利己心でよいと言ったとき 一つには 《使用価値と価値記号との基本構成》としての商品の流通形態にのっとり 一つには たとえ利己心であろうと 人間主体の意志および意図の行為としておこなわれるということ これらを前提としていたはずである。

  • 同感行為という基本の会議のことである。

そして あとは たしかに この意志および意図の自由な合意・同意にもとづくなら ふつうの資本志向とあたかも跳躍しがちな資本主義志向との入り混じった経済活動として 出発し展開していくことになると。そして この場合 《記号のため》というとき またそれでよいというとき 記号とは別のところで 跳躍する信号の秘密をやどしているのだが

それは この歴史的に規定された社会的生産様式の すなわち 商品生産の生産諸関係にたいして 社会的に妥当した したがって客観的である思惟形態なのである。
(同上・つづき)

すなわち人は あの会議の出発点から 近代市民の経済生活を展開しはじめようとしたとき 一人ひとりの主観的な資本志向を 合理的に知解しその設計図をつくり これによって行動しようと図った。機械・技術などの自然科学的な設計図をむろんそこに含んで。
価値記号を中心にあつかうとき 客観的に理論整理しうる思惟形態を見いだした。それは たしかに 合理的なのである。だが 記号は信号に従属し 客観は主観に後行している。客観がふさわしい考え方だと決めるのは 主観である。会議の出発点は 信号(ないし信用交通)を重視する。この基本の生活態度を それはすでに過程的なのだから・そして主観のものだから 信仰動態と言ってもよい。また 知解をこえている もしくは 知解・知識のみによっては 規制・限定されない部分がのこるからである。
つまり 考えるを超えているから 生活態度は 信じるの関数であるといったほうがよい。生活は待ったなし つまり 考えるによる合理的な解答を持たずに 一般の経験現実としては 動く側面がある。あるいはまた 記号を用いての合理的な思惟形態による理論ないし解答は じっさいに得られるのであるが 個々の理論的な解答は 互いに対立し矛盾しあうのが 現実経験の過程なのである。
つまり 信号・信用交通の関係 ないし各自の信仰動態 といった主観の問題が とうぜん 経済学(経済行為)には それを小区分するなら経済外の領域として しかも同時に 発生しており からんでいる。
そこで 跳躍を熱望する密会が生じえた。信用交通の場で 価値かがみたる人間を政治的に(信用関係的に)包摂するという言ってみれば支配欲の熱心によって支配されるという一種の信仰動態が そういった密約を発生させつつ 起こりえた。この人格の包摂という秘密の準備会議は 意志の自由・人間労働の平等という基本会議の合意事項を じつは まさに準備するだけのもの・永遠に準備だけを果たそうとするもので 自由と平等との放棄であって まさに跳躍したあとその倒錯によって実現しようという姿勢だけを示すものであるが 基本会議からの正当な出発のゆえに 生起しえた。
もしこれが 一種の信仰動態となって ともかく社会的に信用を得ることに成功したとするなら ここには 跳躍・倒錯そして狂気がある。それは そして単純には 記号を指標にしこの記号指標を中心にした行動のほうが 合理的で めんどうなこともないと考えたからである。そのほうが 世話がないと考えた。記号理論を 行動理論つまり信号伝達そのものと見なすことと欲した。
これは はじめの生活会議を前提にしていたから 一つの正当な信仰の教義として捉えられた。人間は 価値記号をめぐって動く経済人なのであるという教義。それに先行する会議の生活態度は それが前提であることを 言われなくとも じゅうぶんに知っているという信仰発進。だから 価値記号が もっぱら一人歩きしうる記号価値に転化したといっても その記号概念によって整理した理論は それじたい 倒錯しているものではなく 信号のありうべき思惟形態を 記号をめぐって 整理したという行動の経路の問題である 行動の可能性・選択肢の問題であると 弁明することができる。たとえ狂気があっても その跳躍をじゅうぶん人間は管理していけるのだという理論動態。
すなわち しかしながら そういう準備段階の理論が生じたのである。準備段階の理論が 生活態度を 代理しうると考えられた。この理論準備は むろん会議人たる主体が 自由意志で おこなっていくのだという理由をもって この準備理論の動態が あたかも基本の会議であると見なされていく。ならば すでにそこで 跳躍しているし あるいは同じことで転落しているし しかもこの密会による二重会議が 普及していくことができた。資本志向主義。《資本志向》の志向。
《それゆえに――つまりそれが信仰であるゆえに―― 商品生産にもとづく労働生産物を はっきり見えないようにしている商品世界の〔とくには 準備信号 信用蓄積の理論のほうの〕一切の神秘 一切の魔術と妖怪》(同上:Ⅰ・1・1・4)。そして この妖怪に われわれは関知しない。魔術の信仰をこのむ妖怪も 商品の生産と流通との現われた世界では 会議の合意事項にのっとって おとなしくしている。

このばあい 人間にたいして物の〔記号概念での〕関係の幻影的形態をとるのは 人間自身の〔主体の信仰・信用・信号の行為での〕特定の社会関係であるにすぎない。したがって 類似性を見出すためにはわれわれは宗教的世界の夢幻境にのがれなければならない。
(同上:Ⅰ・1・1・4)

マルクスは言う。のがれてもよいし また そののがれるのは あくまで 説明の一環としてである。この幻影的形態は 《これを物神礼拝と名づける》(同上)こともできるだろうし あるいは 見方をやや変えて 《抽象的人間の礼拝》(Ⅰ・1・1・4.われわれの§11)ととられることもできる。
《経済人》という抽象的人間への あるいは この抽象的人間を思惟しうるという人間の知解力(インテレゲンティア)への 礼拝。そして 生活態度の経済的な側面での資本志向(その意図) また 人間の知解力 あるいは知解した結果の内容知識が 記号をめぐっての手段としての思惟形態を提供していること これらそのものは 中立的なものである。資本志向は 歴史的に相対的なものである。倒錯は あくまで 密約として密会のなかで おこなわれている。そうしたい人には まず 好きなようにさせるほかない。
言いかえると われわれは あの会議の以降 たとえばスミスの同感行為は 基本的に関係しあう存在たる主体の意志自由(ゆえに同感という判断行為)として 損傷を受け無力になりうるが 有効なのであって このワルプルギスの夜に集まって密会する有力になりえた無効の妖怪を それゆえに すでに生け捕りにしている。
これを 会議を持ちえたふつうの信仰において 誇ってもよいだろうし また よいだろうが 礼拝する必要はさらさらない。二重会議をひらこうとする人は 信仰に 抽象的人間の礼拝という信仰を わざわざ おおいかぶせるわけである。それは 正当な跳躍をなしえた者こそが 人間の交通において 人間を(信仰動態を)包摂し 人間の一般信用をかちえるのだという経済学=人間学の教義なのである。
これは 無効だから 明らかな欠陥としては目にみえて現われて来ない。《見えざる手の導き》の地点へも跳躍したと思い込んだわけである。
こういうかたちで 《ブルジョア的経済学》あるいは一般に社会の経験科学・経験的な社会科学が 知解されてきている。記号としてのロゴスのあいだ(インテル)を整理する(レゲレ)ものである。われわれは これを活用していけばよい。倒錯は 活用の過程で 信仰・信用・信号の問題として 生じうる。生じても 無効である。すでに その妖怪は 生け捕りにされている。
マルクスにおいては この妖怪が 個人の主観に対して独立なものとして規制的にはたらき 記号流通の統一的なまとまりをもった商品世界の経済運動の法則となって 手がつけられない――そして その場合 革命によって手をつける――と捉えられたかの感を持つ。

商品生産者の一般的に社会的な生産関係は 彼らの生産物に商品として 従って価値(記号価値)として相対し また この物的な形態の中に 彼らの私的労働が相互に等一の人間労働として相連結するということにある――のであるが このような商品生産者の社会にとっては キリスト教が その抽象的人間の礼拝をもって とくにそのブルジョア的発展たるプロテスタンティズム 理神論等において もっとも適応した宗教形態となっている。
(Ⅰ・1・1・4)

われわれは 信教・良心・思想の自由をみとめなければならない。マルクスは みとめないと言ったのではなく それら宗教形態とからみあった妖怪(跳躍への誘惑者)を むしろ およがせたかの調子で 叙述していく。すなわち 《強い》方法だが そして この物言いは あやまりであってよいのだが つまり その場合は マルクス認識のあやまりが明らかになるという消極的な役目をもった一つの物言いであるというにすぎないが そのことによっても すでに妖怪の生け捕りが 基本的に完了したことを われわれは確認して 宣言しうる。
関知しないと言い 好きなようにさせることと わざわざ泳がせることとは べつである。好きなようにさせるということは 目に見えておよごうとしてくるときには 《きみはなぜ ワルプルギスの夜の密会へ向かうのか それは無効ではないのか》と ただちに隣人の礼をもって 関与(交通)するのである。
生け捕られたことを すでに 信仰動態(生活態度)において 了解しているからである。これからやおら生け捕ろうというのではない。だれもが 会議人であるというその先行する領域としての存在主体は 善である。先行は 後行するものに対する超越・超絶のことではないから この善ということは 経験的な概念である。つまり 会議の同意事項という意味である。この個人次元の生活態度は 社会総体の次元の だから社会科学の 対処の仕方と 後者の複雑さをもってしても 別ものではない。ほとんど同じものであり 別様のかたちをとるとき 社会総体のほうが有力で優先される場合があったとしても 前者・個人の生活態度のほうが 先行している。これを とりたてて言う意味は 跳躍する妖怪がすでに生け捕られていると 確認するためである。
いわゆる反体制派の科学では わざわざ妖怪が 再び出て来ていてその力を発揮していてもらわねば 自分たちが困るといっているような節がある。ちなみに体制派の科学では むしろ会議以前の妖怪に対して およがせ政策をとったりすることを別とすれば 会議の理念も愛するが 妖怪をも我れは愛すと 語っているようなふしがある。精神の科学や文化人類学が この妖怪を――ただし決して 会議以前に戻ろうなどと言ったりしないが―― 提供する。妖怪学が めしの種になるということである。

古代アジア的な 古代的な 等々の生産様式においては 生産物の商品への転化 したがってまた人間の商品生産者としての存在は 一つの副次的な役割を演ずる。だが この役割は その共同体が没落の段階にすすむほど 重要となってくる。
(Ⅰ・1・1・4)

からかも知れない。アジア社会では 会議が 明確な表現で自覚されないで自覚(直観)したかたちで もたれていたかも知れない。だから 商品生産者としての生活態度をもった人間と言うことはこれも 明確な会議の合意事項となることを経ないで 直面することとなり そして じっさい 社会と経済との動きや経験科学やの発達とともに 認識されるということを経ても 意識して自覚するのをこばむ性格をもっているのかも知れない。その点その限りで 妖怪学を 反面教師として愛するところが強いのかもわからない。
だが すでにわれわれの鎖は解かれ われわれは 自由である。明らかにこういわないほうが 神秘的である。
つづく→2006-01-08 - caguirofie060108