caguirofie

哲学いろいろ

#25

もくじ→2005-12-23 - caguirofie051223

§34(国富論

経済学は その出発点として 人間学の一部であるが 考察する対象領域は よりいっそうひろがります。人間がその一部を占めるところの社会総体を 対象とする。経済学が社会を総体的に考察対象としうるのは 人間学の素養にもとづく。すなわち 学としては――そして経済の行為も同じくではあるが――あくまで 人間がこれをおこなうという単純なる一前提としてのことではあるのだが。
人間学が 会議において 人間の理念を明らかにし これにもとづくようにして 生活態度を形成し さらにその個人個人の社会生活の展開が 人間の社会的な交通関係のひとまとまりをかたちづくったとするなら これを考察対象とする経済学は こんどは はじめの人間学を そのままにではなく 人間社会の交通関係という経験事態のなかに 諸概念・理念としてちりばめたかのように当て嵌め――そしてそれらは記号をともなうようになり―― この前提のうえに もろもろの現象をあつかっている。労働の秤量単位としての等一性にも 商品の価値記号の設定にも だから交換の等価 さらにはそれらの背後の信号の交換ないし信用のまじわりにも やはり自由や平等といった理念の問題として 人間学を前提している。ということは 学の全体としては すでに経済学ないし社会科学がはじめの人間学を 代理するとも考えられる。この限りで 会議の具体的な協議は 経済学(ないし社会科学)の討論で すませうるかのごとくである。
すまされるものではないし すませきったものではないが スミスは たとえばパスカル人間学(ないし神学)を 国富論という政治経済学に あらわす。

国民の年々の労働は その国民が年々消費する生活必需品と便益品のすべてを本来的に供給する源であって この必需品と便益品は つねに 労働の直接の生産物であるか またはその生産物によって他の国民から購入したものである。
したがて この生産物またはそれで購入されるものの これを消費するはずの人々の数にたいして占める割合が大きいか小さいかにおうじて 国民が必要とするすべての必需品と便益品が十分に供給されるかどうかが決まるであろう。
だがこの割合は どの国民の場合も 次の二つの事情によって左右されるにちがいない。すなわち第一は 国民の労働がふつう行なわれるさいの熟練 技能 判断力の程度如何であり また第二は 有用な労働に従事する人々の数と そのような労働に従事しない人々の数との割合である。
国富論 (1) (中公文庫) 〈序論および本書の構想〉)

そうして じっさい 《労働の熟練 技能 判断力の程度如何》は 基本人間学の社会経験的な人間学および自然科学の成果の問題であり 《どのように有用な労働に従事するかの分業のありかた》 だからまた《労働の生産物が社会のさまざまな階級や境遇の人々のあいだに自然に分配される秩序》(同上)あるいは 《他の国との交易》などなどは 経済の問題として経済学の問題である。すでにあたりまえの事柄であるが 会議の具体的な展開は このような道をたどってきた。そして この展開過程とともに 人間学も自然科学も社会科学も それぞれ発達してきたところに われわれはいる。

ところが すべてどの社会も 年々の収入は その社会の勤労活動の年々の全生産物の交換価値と つねに正確に等しい いやむしろ この交換価値とまさに同一物なのである。それゆえ 各個人は かれの資本を自国内の勤労活動の維持に用い かつその勤労活動をば 生産物が最大の価値をもつような方向にもってゆこうとできるだけ努力するから だれもが必然的に 社会の年々の収入をできるだけ大きくしようと骨を折ることになるわけなのである。もちろん かれは 普通 社会公共の利益を増進しようなどと意図しているわけでもないし また 自分が社会の利益をどれだけ増進しているかも知っているわけではない。外国の産業よりも国内の産業を維持するのは ただ自分自身の安全を思ってのことである。そして 生産物が最大の価値をもつように産業を運営するのは 自分自身の利得のためなのである。だが こうすることによって この場合にも 見えざる手に導かれて 自分では意図してもいなかった一目的を促進することになる。かれがこの目的をまったく意図していなかったということは その社会にとって かれがこれを意図していた場合に比べて かならずしも悪いことではない。社会の利益を増進しようと思い込んでいる場合よりも 自分自身の利益を追求するほうが はるかに有効に社会の利益を増進することがしばしばある。社会のためにやるのだと称して商売をしている徒輩が 社会の福祉を真に増進したというような話は いまだかつて聞いたことがない。もっとも こうしたもったいぶった態度は 商人のあいだでは通例あまり見られないから かれらを説得して それをやめさせるのは べつに骨の折れることではない。
自分の資本をどういう種類の国内産業に用いればよいか そして 生産物が最大の価値をもちそうなのはどういう国内産業であるかを 個々人だれしも 自分自身の立場におうじて どんな政治家や立法者よりも はるかに的確に判断できることは明らかである。他人に向って かれらの資本をどう使ったらよいかを指示しようとするような政治家がいるとすれば かれは およそ不必要な世話をみずから背負いこむばかりでなく 一個人はおろか 枢密院や議会にたいしてさえ安んじて委託はできないような権限を また われこそはそれを行使する適任者だと思っているような人物の手中にある場合にもっとも危険な権限を 愚かにも そして僭越にも 自分で引き受けることになるのである。
国富論 (1) (中公文庫) 4・2)

《見えざる手に導かれて》というのは 神学の痕跡である。すなわち 基本人間学の実践として われわれは 夜から・偶然必然の領域から 歴史を始めるときの つまりは 自尊心=自愛心=利己心の心理を きっかけとして利用し――だからそのときにも ほとんど欲望は存在していないと 煮つめた議論としては 言えると思うのだが―― 交換および信用交通をおこなっていくときの 大前提会議のことに 触れようとしたのである。
神学の痕跡を必要としないほどになるとき 会議が会議であるとき――すなわち すでにいま 資本志向および資本主義志向の互いに入り混じったものとしてのみ 跳躍の資本志向主義が力を持ち だから 資本志向をさえその生活態度において取る・取らないは 自由であることが可能なほどに 会議がたとい建て前としてでも 普及したこの現代にすでに そうであると言おうとしているのだが―― このとき 利己心をきっかけにすることすら 必要がなくなって 欲するままに生活することができる世界が 現われつつあると すでに言おうとおもう。現われていくであろう。
皮肉でも逆説でもなく そう言わないとしたら その人は たとえばこのスミスの理論ないし出発点を はっきりとした説明をもって 否定してみせなくてはいけない。地球上のこの歴史がいやなら 確固とした別の会議をその人は 示さなければいけない。政策手法に新しいものを導入したいと要請することと ただいま・そしてつねに あたかも別の会議で進んでいきたいと ぶつぶつこぼし(ルウソ) 懐疑の会議をもつ(パスカル)こととは 別である。
跳躍する人びとの密会の夜は じつに すべてが合法的であるように 昼の光を標榜している。理念の昼のよそおいをこらしてこそ 密約をおこなう。おおむね ここにまで たどりついたのである われわれは。利己心をきっかけにせずともよいといっても それに代えて ふたたび 社会公共の利益を増進するためと思い込む意図と信号とを 取る必要はない。会議を複写する必要をわれわれは みとめない。
《個々人だれしも 自分自身の立ち場におうじて 明確に判断できる》とは言えないとか あるいは 判断はできてもそれを自由に実行にうつすことはむずかしいとか こぼすつぶやきは どこから来るのか。それは 自尊心からだが 階級対立の制約によるというわけのわからない理由づけをそれに与えるのは その人がまだ 自尊心をきっかけとし 利己心を利用することさえ すなわち歴史を始めようともしていないことから 来るのではないのか。
といっても その人たちも じっさい 自尊心から 歴史を始めているのである。ゆえに そしてまた 自尊心をルウソがきらったのをいいことにして それにならって スミスの歴史の開始を おこないながらも どこかにやましさが残るからか スミスの理論と主観動態とでもまだだめだとつぶやいて かのマルクスの意図の王国にのがれ階級対立を 仮想敵として たたかいつづけていると 思い込んでいる。なぜなら それは  《社会公共の利益を増進する》という人間の人間的な目的だと 信じたから。政府のやることとして だから経済学として そうなのだというのなら ただスミスの基本線で すすめばよいはずだ。事態が新しいだけである。
先行するものの自由 有効な同感行為 これが 社会後行的に 無力となりうることは はじめから わかっている。マルクスが《資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)》で政策主張として意図したことは 社会の生みの苦しみを短くしこれを緩らげることである。階級関係の障害は 解剖学の知識である。われわれは 人工臓器 人工の会議つまり二重会議あるいは複写会議をもって 無効の跳躍の有力に あたることはできない。つまり すでに勝利しているから すすむのである。解剖学は 一つの知識として その行進(生活)のための補助である。跳躍する人びとの良心のために 利己心をきっかけにしてもよい。より高級な動機を別とすることができる。そうできるのは より高級な動機をよくわきまえる基本人間学によるのでもある。
むろん 人間学も いまも 有効であるから より高級な動機を排除せよというものではない。パスカルに対して すべて古いと言ったかのように受け取られるおそれがあるとすれば それは まちがいである。
歴史を夜から始める あるいは その夜は 会議からの跳躍としてのものであるから 昼の光をその信用として灯している これにわたしたちは対処していくのだ といったことをパスカルは 次のようにのべる。

徳(信用でもある)を二つの極端にまで推し進めようとすると もろもろの悪徳があらわれる。小さいほうの端では 人に知られないような道をとおって 人に知られないように忍びこむ。大きいほうの端では 大きな塊となって現われる。こちらの場合では 人びとは その悪徳の中に迷いこみ 徳がもはや見えなくなる。そこで人は 完全なもの〔という理念〕にしがみつく。(パンセ〈1〉 (中公クラシックス) 357)
人間は天使でもなく獣でもない そして不幸なことに 天使を演じようとする者は獣を演じる。(358)

信用の二重会議 そこでの 個人的に人格の交換 集団的に理念主義志向の狂気 また 社会公共の利益のためとか博愛心とかへ訴えようとする昼の光の中の夜(夜の中の昼)。
自尊心( amour-propre )と自己愛( amour de soi )とについては 《パンセ〈1〉 (中公クラシックス) 》の断章100が

自愛心( amour-propre )。自愛心と人間の《わたし》とは 自分のみを愛し自分のみを考えるということに その本性( nature )を持っている。(断章100)

と始めて かなり長い議論をあつかっている。そんなにたいしたことは言っていないが 上の叙述に対しては 肯定的な理解をもつこともできる。

しかし人間はどうしたらよいのであろうか。彼は彼の愛するこの対象が欠陥と悲惨とに満ちているのをどうすることもできない。彼は偉大でありたいとおもう。彼は自分が卑小であるのを見る。彼は幸福でありたいとおもう。彼は自分がみじめであるのを見る。彼は完全でありたいとおもう。彼は人々から愛され敬われたいとおもう。彼は彼の欠点が嫌悪と軽蔑とにしか値しないのを見る。
パンセ〈1〉 (中公クラシックス) 100)

このあとつづけて 《人間はかような当惑におちいっているがゆえに 人間のうちに 考えられうるかぎりの最も不正にして最も罪ぶかい情念が生じる なぜというのに彼は 彼を非難するところのそうして彼に欠点のあることを承認せしめるところのこの真理に対し 非常なるにくしみをいだくのである》と やはり 自尊心を みとめるべきでないもののように とらえたかに見えるが このような自己認識は もし《真実であるなら それを聞く人には有益である》(100)から。だから 肯定的に理解できる あるいはパスカルもそう理解しているふしがある。あとは あえてかれ自身の信仰動態 それとしての社会的には一つの立ち場に触れた一節を 引用しておこう。

その証拠をつぎにのべよう。恐ろしいことだと私はおもうのだが。カトリック教は 自分の罪を誰にでも無差別にうちあけるようにしいはしない。ほかの人には誰に対しても匿していてかまわないといってくれる。ただし唯一人例外がありこの人に対してだけは心の奥底をうちあけ自分のあるがままを見せるように命ずる。カトリック教はただ一人この人にたよってのみ迷いを解くがよいと命じ またこの人は 知っていても知らずにいるかのようにしていてくれる。これほど愛に富んだやさしいことがほかに考えられようか。そうであるのに人間の堕落した心は この定めをさえ苛酷なものと見るほどに 甚だしい。
パンセ〈1〉 (中公クラシックス) 100)

自分の自愛心の惨めさをうちあける相手たる《ただ一人の例外》は 《わたし》であればよいわけだ。そのばあいの自愛心・利己心は すでに ほとんど存在していず きっかけとして わたしが 用いていくことができる。わざとパスカルの特定の信仰や立ち場に触れたけれど また故意に スミスとのあいだに 橋をわたしたことになる。生活態度の問題までとしてのみ 会議の歴史的なかんたんな例証を いじょうのように考える。
つづく→caguirofie060118