caguirofie

哲学いろいろ

#15

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

§3 R.ジラール著《世の初めから隠されていること》 j

§3−6(追記)

われわれの言うタカマノハラ出発点(これは むろん アシハラ出発点と言ってもよい)におけるジラールマルクスとの類同性 これを素描したのは 次章の議論へつなげるためであった。ところが のちになって このことは おおむねすでに今村仁司が解明していたことが判明した。
たとえば その著《批判への意志》 とくにその《第一部 マルクス現代思想》そして《第二部・第四章 ルネ・ジラールと暴力 / 補論 暴力論の諸相》。したがってジラール論におけるわたしの基本的な見解も 今村説と遠く無い。それも知らずに――じつは――最終の§14でわたしは 今村の別の著書《現代思想の系譜学》の中から 比較的に議論しやすい一論考をとりあげ 批判をくわえた。そのあとで上のことが判明した。
全体的にジラール論の一章あるいはこの一書じたいをも書き直すか あるいは改めてその違いを明らかにするかしなければならない。のではあるが 前者の必要はそれでも必ずしも起こらないと思い 後者にかんしては 非常に荷が重いことを感じる。つまりわたしの議論は 結局 今村説とのちがいが タカマノハラ出発点理論の中でも 類型的に言って アメノミナカヌシ信仰動態という・経験的に議論しがたい部分にあるからだ。つまりそういった手法で――つまりこれをひろげれば その文体というべきものの点で―― わたしもそれでも既説の議論の中に割り込めるのではないかと 考えているものでもあるのだが 結局〔荷が重いことの一つの理由は〕 わたしはまだここで 思想の出発点以外のことについては 論じていないことにある。また《現代の思想》と銘打っていながら その系統立てた研究の書ではないことによる。
かましくも補うべきことがあるとするなら――またあらためて考えてみて その事柄にこそ確かにのちの§14での議論は焦点をあてていると思っているのであるが―― それは 今村が出発点を 《〔人間の〕非同一性》として捉えているところにある。(少なくとも そう表現しているところにある)。供犠や暴力の文化秩序――それは一般に 人びとの差異をなくそうとするし 聖なるものの下に人間の同一性・またそれによる社会関係を促そうとする―― これと相容れないところの出発点を だから 非同一性として立てる。同一性の秩序から逃走し 供犠による同一性の構造をずらし 逃走の過程で・またズラシの行為じたいによって その同一化の暴力と闘争していくという一つの思想である。
だからこうなると 一つには この出発点たる非同一性は 図式的に 愛――それゆえ 逆に 人間の同一性でもある――と言ってよいようになると思う。実質的に言って 愛・またはそう呼びうる人間の出発点の力のことを語ったことに等しいようになると思う。つまりはこの解釈をとおして今村説が わたしのジラール論と同じことを語る一つの先発であったと考える。ただし もう一つには この愛は もともと 供犠の文化構造と相容れないもの・あるいは しかしながら 混同しているものだから じっさいには ズラシは もともと ズレていて 必要がないか それとも〔混同しているならば〕逃走の必要はない こういうふうにわたしは考える。
供犠の文化においても 愛ということばは 日常ひんぱんに用いられる。そのように 相容れないものが 相容れないその場で その場のもの(愛)と混同していると見るのは 基本的にただしいと考えるから 逃走の必要を見ないし ズラシもしない。
言いかえると むしろ逃げてはいけないという捉え方もできるし むしろもともとの混同やズレを 経験具体的にそれとして認識し表現しあっていけばよい。認識と表現を与えた具体的なズレは たしかにわれわれが かつてズラシた・または隠そうとしたそのことを まづ解明する。解明されたズレは そのズレじたいが ズレていくか逃げていくと こんどは考える。同じく基本的にそう考える。解明されるべきズレから逃げていくことも それをふたたびズラスことも 無用だと。この基本線(出発点)の有効性は――いくらか神秘的な者いいになったとしても―― 暴力ではない。または暴力ではないところから出ていると考えるのだから さらにこんどは 有効ではあっても ただちに供犠文化的に有力となるとは言い得ないかもかも知れない。ということは 確かに逃げたりズラシたりするほうが 文化として有力であるかも知れない。それでもわたしたちの言い分は ズレやウソや暴力が無効であり この無効の行為がそれとしての文化をつくり 実効性を持ち有力となっていると言うところにある。またそう見るそれが われわれの出発点から捉えた一般の社会状態であると。
つまり これは確かに 終わりからの読み直しであると思う。したがって 経験論法として弱いかも知れない。ジラールが経験論法として努力するところは この終わりからの読み直しを 公式として・ただし文学的な議論を交えて個人の意志行為にかかわる物語としてふくらませ 展開するやり方のように思われる。最終的にいちおう一つの公式だと思われる。
今村は 経験論法(タカマノハラ出発点における人間ムスヒ理論)の方面に 全体としてかかわって議論する。わたしも これを目指しているが いまはまだ類型的に図式的に出発点を広いかたちのタカマノハラ理論などとして想定し これにもとづくかたちで 論議した。せざるを得なかった。もっとも今村も この出発点のことを 広く幅を持たせて いく人かの思想家を論じていく中で 浮き彫りにしていくところもあるかと思われる。この点は さらにあとで補った部分(§15)を参照されたい。
だから いづれにしても今村の思想は 広範囲にわたり 経験論法として強いものがある。あるいは 強いものもある。そしてわたしは強引に――つまり 上に言った弱いまま―― 終わりからの読み直しのかたちで 出発点を 図式にして直接あつかった。わたしは横着にも 経験論法〔で〕の再生産を 基本的な思想の問題としては 嫌っている。つまり準備作業―― 一たん発表するからにはの――を嫌った。わたしも目指してはいるところの経験論法での語りが 従来の文化的な論法経験に流される嫌いがなきにしもあらず(もしくはつまり 従来のそれの延長として新しく有力となる嫌い)となることを恐れたのでもある。
これは 誰彼れのを問わず すでに具体的な政策などが ともあれ有力となって実施・実現されていくこととは 別である。今村の議論を借りて この点を考察したのが §14である。また補論§15で 今村説の吟味を付け足し いくらかでも責めを埋めた。
(つづく→2008-01-02 - caguirofie080102)