caguirofie

哲学いろいろ

#32

もくじ→2005-12-23 - caguirofie051223

§41(跳躍から人格を植民する信号交換)

上衣がどんなにすまし顔で現われても 亜麻布は 彼の中に血のつながりのある美わしい価値ごころを認めている。だが 上衣は彼女にたいして 同時に価値が彼女のために上衣の形態をとることなくしては 価値を表わすことはできないのである。こうして 個人Aは個人Bにたいして Aにとって 陛下が同時にBの肉体の姿をとり したがってなお容貌や毛髪やその他多くのものが そのつどの国君とともに変わるということなくしては 陛下として相対するわけにはいかない。
マルクス資本論 1 (岩波文庫 白 125-1) Ⅰ・1・1・3〔・A・2・a 〕)

これは 契約(基本会議)の問題ではなくして 法律制度(具体的な協議)のそれである。
労働生産物が 主観的な使用価値としてだけではなく 主観どうしのあいだで同意しうる価値記号をもったすなわち商品として流通するところの・だから分業社会として――この分業形態を再確認しあって―― 生活しあっていこうという資本志向の生活態度は 基本会議の合意事項であるから 契約と法律との差は 微妙であるが 逆にいうと この引用文の事態は まだ 無効に跳躍する二重会議なのではない。商品や労働については その使用価値というのは 主観の信号(信号としての主観)であり 同時に 一定の価値記号を間にはさんで 同意がおこる ここまでは それらの基本構成だという言い方をした。分業社会の再出発として。社会の政治的な形態については ルウソにならって 後行領域としての可変的な仮りの形態であるとした(§37)。
マルクスは 無効の跳躍による二重会議の社会経済的な事態を 前提として それを解剖していく。そして 経済学の主張としては スミスのように 広い意味での重商主義的な政策に代えて 人間学=経済学としての新しい政策を迫る。メスとはさみに代えて ふつうのペンと紙を持つならば わたしたちは マルクスもスミスの道徳感情論や国富論にさかのぼって立って 一個の跳躍する二重会議に対決すたものと考える。
われわれは――じっさい カール・マルクスの研究成果をとりいれながら―― 人格の交換という点に 対決すべき敵を見いだした。陛下と主権者国民との社会関係は そういう一つの仮りの信号ないし信用価値の形態であり 法律条文としては記号理論でもあるということであるはずだが あるいは 商品の価値記号の形態は 使用価値ないし労働と 基本的なつながりを構成しているということであるはずだが どういうわけか――なぜなら ただの猛烈な現状保守だとか ただのガリ勉だとかであれば それらによっては 会議が二重になったわけではない のに どういうわけか―― 陛下の地位に・あるいは商品の地位に 自分が自分で 跳躍することがおこる。つまり どういう理由かと問うていけば やはりそれは こうして陛下を・あるいは商品を 少なくとも観念的に 自分のものにしたならば かれは 自分の社会的な地位が安定し 経済活動も 友だちも仲間も出来て 順調に思うように いくと考えたからであるにちがいない。すなわち 一つの原因――はじめの仕掛けの起動因――は その主観動態が 内的には むしろ理性によって 高きにある一般記号へ跳躍し 外的には この主観の秘密をもって 相手と交通することにあるだろう。
跳躍した人格は 人格の交換をねがう。すなわち かれ自身 観念的な理念への跳躍(あるいは固執)は すでに無効だと知っている。無効の跳躍を 相手の会議人たるふつうの人格と 交換すれば いわば目つぶし・あるいは催眠術が 成功し 自分の思うとおりになると 意図したのである。あるいは その催眠が解けて そんな術策はたしかに無効のものだと分かられたなら 分かられても それでもお互いに 堕落した(堕落しうる)同じ人間じゃないかと言い寄る。あとへ引かない。ここで 同じ穴のむじなの 友だちの環が成立するだろうと 踏んでいる。相互抱擁 かくもうるわしき友情にみちた市民のまじわりがあろうかと。人という漢字を見てみたまえ 互いに支えあっているではないかと。だから かれらは じっさい 会議人であることを 自称するし 他称してもらうことを 画策する。
平田清明は言う。

この微妙な関係にある両者〔――わたしたちとしては 商品のことではなく 人間にあてはめている。記号価値のほうではなく その背後の信号意図のほうを重く見ている――〕を 私は 亜麻布が相関的価値形相にあり上衣は被同等化形相にある とマルクスに従って言う。・・・
最後まで見忘れられてはならないこと それは まだ《プラトニック platonique 》であるが この関係こそ 商品所持者の現実的なる関係行為を促進する客観的な基礎だということである。

経済学と歴史認識

経済学と歴史認識

だから この平田に従っていうと 二重会議は 主観動態どうしの関係の問題として 《 double bind 》も《 invagination 》も 《触れなば落ちなんプラトニックな交通形態》として現われるということ そして そこで 《人格の交換》が見られるとするならば 仕掛けるほうも仕掛けられるほうも 《被同等化形相》をもつということになる。互いに同じようになるというのである。プラトンとか形相とか言うのであるから 明らかにこれは 理性のしわざである。
理性のしわざなのである。ゆえにわれわれとしては この理性は むろん自然本性をふくめて言うのだが またすでに合意されている生活態度の一定の形式を前提にして そのしわざを持つのだと思うのだが それは わづかに この態度から隠れて跳躍を敢行するあだし心の密会であり 無効であり 基本的にこれにわれわれは関知しない すなわち おおむね会議は有効に生きている そして その基本線の上でのみ このありうべからざる人格交換を 認識しそれに対決していくのだと考えていた。

娼婦は身体ごと魂をとりかえる人間=女性である。したがってマルクスは ドイツ語文のなかにわざとフランス語で《自分の肉体を売り渡す気のふれた女》を原義とする俗語《 femmes folles de leur corps (身持ちの悪い女)》(資本論 1 (岩波文庫 白 125-1) Ⅰ・1・2)を あえて用いて 商品を性格づけた。
(平田清明コンメンタール《資本》・1。5.3.2.鄱)

これが 二重会議の跳躍だが 商品に罪はないから 理性による人格の交換であると われわれがすすんで性格づけた。

この私的所有権者として相互に認知しあう関係は 社会形成上の最初の《法的関係》である。この法的関係がそれ自体ですでに統一(=《普遍》)の始原であること ここに確認を要する。

  • われわれは 基本会議ないしそれの具体協議・協約と名づけて想定した。:引用者。

つまりこれが最初の社会契約(ルソー)なのである。それゆえにマルクスは 《この法的関係の形式は法律として発展していようと発展していなかろうと契約である》(資本論 1 (岩波文庫 白 125-1) Ⅰ・1・2)と述べたのである。そしてこの法的関係として実存する意思関係のうちに《経済的関係が反映している》と強調したのである。すなわち社会形成の原契約が 《譲渡をつうじての領有》を内容とする交換過程の所産であり 表現そのものにほかならないことを ここでマルクスは ルソーにかわって指摘しているのである。
(平田:同上箇所)

われわれが――こうして他人の理論をひょうせつするようなかたちででも――言いたいところは 《原契約》であるならば 基本会議の成立を想定したと言っており したがって むろん歴史相対的にだが この会議を肯定すること どこまでもまずは肯定してすすむこと それゆえに人格の交換と対決するということである。
表現の上からは この肯定の線は スミスにいちばん顕著であり ルウソも 迫り来る人格交換(まさかチリ紙交換でもあるまいに)の波に終始 抗しつづけて 語っており マルクスは これを大前提にしている。しばしば暗黙のかたちである。
こまごました面倒くさいことをのべれば 《譲渡(交換)をつうじての所有(消費・使用)》は 会議からの 資本志向としての・生活態度としての合意事項であり 《譲渡をつうじての領有》は 身も心も震わせながら捧げて跳躍する資本志向主義=重商主義である。いや 会議はなるほど有効だが きみも言うように(スミスも言うように) 失敗することができ向こうとなりうる だとすると たとえばマルクスのように この有力となった資本主義志向をこそ 社会科学は認識して 対決していかなければならないのではないか。
わたしたちが言いたいのは それでも 無力とはなりえているが有効である基本会議から出発するということである。そうでなければ 無効の跳躍をする妖怪と おつきあいすることにはならない。また できない。マルクスは 有効におつきあいし対決するのだということを 文章の背後に意図の王国をかいまみさせることによって なした。われわれは そんなゆうちょうなことは あまり好かないし 必要なものでもないと考える。なぜなら 先の批判者がおこなう学問でも 対決すべき資本志向主義とその認識は もし法律違反の事件を別とすれば すべて合法的にその資本主義志向がおこなわれているという一つの前提認識に立ってのことであるはずだ。
われわれが 基本会議を――歴史の一段階として――肯定し これの展開をさらにすすめていくというときには 記号理論上の合法的な経済行為と同時にしかも別様に 密会して跳躍する人格交換・相互抱擁・その商業(むろん製造業をふくめてよい)帝国が 画策されていると認識するのであるから 経済学上の 重商主義に対する政策立案での対決としかたとは〔分野では〕別に 主観動態として 資本主義志向に 対決していくということだ。むろん 両方の実践ということなのだが マルクスはこれを怠ったか これをなせと言い続けたかである。 
そんな観念論をよくも言っていられるものだという批判に対しては こう答えよう。きみたちは マルクス以上のことをなにかできたか。できなかったのであれば マルクスの意図の王国のもとに 学問研究は継承発展させながら まだ停滞しているではないか。少なくとも わたしたちのもし何なら観念論をわらうことができない。なぜなら 会議は 自己のことであるから。人格の交換の帝国に入っていくことはなくとも むしろ傍観者として――あえていえば傍観者として――その敵を認識しつづけることは それにまさる観念論はないではないか。資本志向主義の歴史的な変遷の認識もさることながら 資本主義志向との 待ったなし・その場での対決 これ以外に 基本的に 会議の進展は得られない。もっとも わたしたちも 指摘しおつきあいをつづけて その相手が去っていき そのかたちでだめなら 放っておくのではあるが。
経済学は道徳哲学を代理しうるまでになったと言ったのだから こんな人間学のゆうちょうなことを言っているのはどうか という批判に対してなら 一つには むろんこの人間学的な対決を 経済行為のその場で おこなうのであると付け加えるとともに もう一つには この人間学としての対決を けっきょく客観分析知としての経済学批判が 最後まで代理しうるには到っていない むしろそうはならないであろうと 見るところが 答えの根拠である。
ただしやはり 道徳哲学を経済学が代理しうるまでになったと 同時に見るということは この人間学的な対決をわれわれは 基本的にすでに 終えている すなわち 勝利している だから 無効の欠陥を指摘しても 去っていく場合には これをほうっておくことができる。つまりただ 会議の基本線をさらに進めていくという実践で 間接的に対処していくのが 正解だということである。
あるいは 社会総体の問題として 資本志向主義は ふつうの資本志向と 入り組んでいて互いを分割できないものだから 現状の経済発展を 発展にそって 認識し学問とするというのであれば よくべつ これに対して言うことを持たない。一般的に合法性をみとめたのだし 消極的に会議の基本線に立っている場合である。ただし すすんでは――なぜなら この場合は 人格交換の術策でなぐられても蹴られてもがまんしていることなのであるから―― 待ったなしとその場で はっきりと 自分が認識した真実として あなたはわたしの人格の足を踏んでいますと指摘し 会議人として生きることを わたしたちは勧めるわけである。記号上のモノの交換の合法性と 跳躍し密会しようとする人格交換という信号の無効とを みとめ 後者を指摘し 対処しなければならない。
理性の問題だから 指摘すべきは指摘しておけば あとは譲歩することもありうる。たとえ 譲歩の連続を余儀なくされても それは けっして観念論ではないであろう。もっとも ルウソは 生涯 身体の病気と迫害との強迫観念にやられていたという批評をとるとすれば 話は別であるが。そういう批評をしたりそのための研究を蓄積していくのは わたしには 観念論だとしか思われないが。もっぱら研究にいそしむのは 不本意にであっても その限り傍観者だし 心理の観念で批評することは――たといルウソという人物が そのとおりであったにしても―― 会議以前だからである。ルウソにだまされないようになることはできるが。会議以降なら そして山師ルウソなら もうほうっておけばよいであろう。あだし心で ルウソの中に価値ごころを認めようとすることはない。
だから 生活態度がもんだいである。