caguirofie

哲学いろいろ

#23

もくじ→2005-12-23 - caguirofie051223

§32(同感)

会議をわたしたちは 井戸端会議でもよいとしてきたから 赤ちょうちんで一緒に( sym- )酒をのむ( -posium )ときの協議であるシンポジウムとよんでもよい。判断力がにぶらなければ よいであろう。同感は 利己心をみとめる しかるにわれらは 利己心の世の中に住む ゆえにわれらは 《ぶつぶつこぼし》 傷をなめ合い 同情の会議をひらく などという《このつぶやきは どこから来たのか》。
けれどもマルクスも 《自由の領域は かの必然の領域を基礎としてのみ開花しうる》というではないか。とここまで あの二重会議派にやられた同情の会議派は つぶやく。
だから確かにスミスも 基本の会議の実践を 《シンパシー》とか《仲間の思い fellow-feeling 》と言って 後行するものたる過程に注目し 感性にかかわることばで 表現した。ルウソも 《第一 人間の基本の関係を 〈感じる〉こと》と説いた。
かれらより前の十七世紀の人をひとりと思ったので パスカルをあげていたのだが このブレーズ・パスカル(1623−1662)も 古い表現形式だが 《心情に感じられる神 Dieu sensible au coeur 》と言っている。つまり 会議は 人間的な論法で理性的には 主観動態であるが 同じことが なぞにおいては 信仰動態である。パスカルによれば

神を感じるのは 心情であって 理性ではない。信仰とはこのようなものである。理性にではなく 心情に感じられる神。
パンセ (中公文庫) 断章278)

そして こういう一つの認識はこれを 理性がもつのである。

信仰はなるほど感覚の言わないことを語るが しかし感覚の見るところと反対のことをではない。それは感覚より上にある( audessus; 先行する)のであって 反対( contre; 優越支配的)ではない。
(同上 断章265)

これは 先行するものの会議における《仲間のおもい》である。これに心において同意する人びとは 基本存在として 同感主体である。感情や心理その他社会の経験行為事実など 後行するものに対して われわれは 信じるのではないから 同感の動態は 信仰のそれではなく 主観のそれとして とらえられるのが 一般である。けれども この主観動態は それが 信仰動態にとって代わったわけではないのに 仲間の思いとして さらには自尊心や利己心をみとめ合わせて 言われるようになると 後行する経験心理が すすんで主観動態そのものだと《信じられる》ようになることが出来た。《心に感じられる記号理念》というわけである。抽象的人間の あるいは 物神の 礼拝というわけである。
これは 同感人の会議から 跳躍したのである。資本志向(勤勉)を 資本主義志向(ガリ勉)としたのである。しかも そういう跳躍の密会を伴なった二重会議であるというのは 基本の会議には同感したところから かれらも出発している。この《感覚の見るところと反対のことを語るのではない一種の信仰(じっさいには情念の信念)は なるほど感覚そのものではなく 感覚より上にあるのであって しかも 感覚に優越しそれを支配しようという だからその支配欲の熱心さに 逆に支配されて 商品物神にではなくとも 抽象的人間のいくつかの理念( amour-propre )に ぬかづくようになっている》。これは 会議から出たのである。
《かの必然の領域を基礎としてのみ開花しうるのだし 事実 開花しえた自由の領域なのだ これこそが 自由の領域なのだ》と うそぶくことが出来る。二重同感である。
歴史経験的に 特殊に具体的に 生活態度を 経済基礎の面で資本志向に置いて すすんできたわれわれは その中に 資本主義志向の跳躍をゆるし――それは 存在としての人は 会議人であったからだが―― やがて もっぱら激しく熱心に志向するこの主義資本のどれいになった人びとに対して かれらは われらに その人格を交換しようとするゆえに この無効の跳躍を成功とみなし社会的な有力とみなして どれいとなっていく このどれいのつぶやきこそが 会議の真正な協議だと あきらめる。明らかに見たと 思っている。はじめの同感行為は 生きているわけである。はじめの同感人として生きようとしているわけである。建て前というものは とうとい。
たしかに 同感の歴史的な動態 または 道徳感情の理論( theory of moral sentiments )は これでよいわけである。《超人》を志向することもなかろう。この体制( construct )を脱構築しようというのも 同じ次元の一つの・また新しい道徳感情の理論である。《どこまでも逃げよ》というのも 同感のふるさとを問い求めてのことであるだろう。
《万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが 人間の手にうつるとすべてが悪くなる》(エミール〈上〉 (岩波文庫) 書き出しの部分)というときの 《すべてはよいものであることと そのすべてが悪くなっていること》とが とうぜん いま 同居している。《だが これは依然としてつねに必然の領域である》(cf. §12)というのも そこで《依然としてつねに 先行する自由の領域が この必然の領域と混同し入り組んで 同感され動態している》と言っているのであるにほかならない。そうでなければ 同感者スミスが 利己心をみとめなかったであろう。会議の同感人は 利己心を 自己の行為のきっかけとしてよい。資本志向という生活態度の一形態 これをさらに歴史的に改めていくことは おおいに自由であって しかも ただいまとして その変革の方向においても 利己心を一つの手続き上の要素としていて 不適当ではない。われわれは夜から歴史を始める。しかしこれは 会議の宣言の真骨頂である。――第三の例証。
つづく→2006-01-16 - caguirofie060116