caguirofie

哲学いろいろ

#34

もくじ→2005-12-23 - caguirofie051223

§43(本源的な 人格の包摂)

スミスの《内なる人》について つづけよう。
生活する人びとの井戸端会議が 《下級の法廷》であって これはまだ 素朴に社会生活するというときの 各自の良心の判断があつめられて形成された結果の世論である。これの意味は この下級の法廷をとおして 人びとは それぞれがあらためて生活態度を考え かたちづくろうとしているということであって この《生活態度》は ともかく良心の判断の集積であった世論に対して その中で一個の良心が なんらかの場合に 対立し 自立しようとするところから生まれる。わざと対立する必要はないから もともとの良心による自立がそれであったことでもある。
《かれら自身の胸中に樹立される / 上級の法廷》 これが 《内なる人》である。《胸中の同居人 / 抽象的人間 / 人類の代表者 / 神的存在の代理人 / 自然が人びとの全行為の最高裁判官に任命しておいたもの》。これは 意志の判断力・またその行為の観点から われわれの《会議》をとらえたものである。

単純にこう言ってよいと思うのだが ただしかし 《同感人》の幸福は 個人的に確かに この内なる人において会議をとおして 自己が自己となって 成立していると見いだしたとは言うものの もともと《つねにきわめて幸福なのである》(§38)し――ルウソにしてみれば 《契約とて 変化をまぬかれるものではない》というのであった(§37)し――するのだから この《内なる人》の念から内なる人たらんとするところにあるとは言えない(§42)。内なる人の判断が 同感人=会議人(その幸福)の成立の根拠ではないと スミスは 説くであろう。

たしかに これらの一般的諸規則が形成されてしまったとき それらが人類の一致した諸感情によって普遍的に承認され確立されているときには われわれはしばしば 複雑で疑わしい本性をもった 一定の諸行為に 帰属すべき称賛または非難のていどにかんする討議において 判断の基準にかんしては それらに訴える。それらは こういうばあいにはふつうに 人間の行動においてなにが正当でなにが不正であるかの 窮極的な基礎として引用され そしてこの事情が ひじょうに卓越した何人かの著作家を誤り導いて まるでかれらがつぎのように想定していたかのようなやり方で かれらの諸体系を作成させるにいたったのだと思われる。すなわち 正邪についての人類の本源的判断が 司法上の法廷の諸決定のように まず一般的規則を考察し それから第二に 問題となっている特定の行為が適切にそれの包摂範囲のなかにはいるかどうかを考察することによって 形成されると想定したかのようにである。
道徳感情論〈上〉 (岩波文庫) 3・2)

読みづらい内容であるが わたしは ここから 《本源的〔判断〕》と《〔一般的規則の〕包摂〔範囲〕》ということばを とくに取り出し 理論を援用しようとおもう。すなわち 話しは飛んで 二重会議の起こりにかんしてであって 内なる人(理性)が 自己の一般的規則(理念論)をみちびきだし これへ跳躍し 人との交通にあたって 人格の交換・包摂という本源的な蓄積を 密会として 敢行するのだと。あたかも 公会でもあるかのごとく。

シナという大帝国が その無数の住民のすべてとともに とつぜん地震によってのみこまれたと想定し

  • 一七五五年のリスボ地震の惨事が 話しの前提にされていると言われている。

そして ヨーロッパにいる人間愛のある人で 世界のその部分にどんな種類のつながりももたなかったものが この恐るべき災厄の報道をうけとったとき どんな感受作用をうけるであろうかを 考察しよう。
道徳感情論〈上〉 (岩波文庫) 同上箇所 単行本p.200)

と始めて スミスが論じるところは――むろん 同一箇所での議論だから そうなのだが―― 同じく二つがあって 一つは 《内なる人の先行するものの領域で成立する会議の 普遍性――人びとに普遍的にはたらく関係(愛)のちから・すなわち同感――》であるが もう一つは その惨事と特に直接の《どんな種類のつながりも持たなかった》場合において 先に見たところの ただ自然推移するような 下級の法廷たる井戸端会議だけとしての感受作用をべつとすれば(つまり これはこれでよいのだと考えられるが それだけでは また よくないであろう これを別とすれば) 《内なる人の 理念形態化した一般規則による 極端な同感 人為的なあわれみ》である。後者に対しては むろん 批判的なのであると言わなければならない。

この人為的なあわれみは 道理にあわないだけでなく まったく実現しがたいように思われる。そして この性格を身につけたがる人びとはある偽善的な悲しさのほかには なにももっていないのがふつうであって その偽善的な悲しさは 心に達することなく 顔つきと会話を さしでがましくいんうつ不快にするのに 役立つだけである。〔うんぬん〕。
道徳感情論〈上〉 (岩波文庫) 〔p.204〕)

最近年のこととしては 飢饉にくるしむアフリカや 地震・火山噴火による被害をうけた地域などなどに対する 同感には どんな具体協議と実行があるかという問題であるが もしいまでは 世界のどこにいても 人びとの交通関係は緊密にむすばれるようになってきているとすれば このことに基づいて しかるべき援助をおこないあうこと これだけだという考え方が まずは道理にかなったものではないだろうか。スミスがこのとき 《ヨーロッパにいる人間》にとって その同じ地域の中の 直接にも交通関係のあるリスボアのことを想定しつつ 議論したに他ならないとすれば つまり言いかえると そうなのだが しかしその当時にはまだ十分遠かったシナを例にあげて議論しなければならなかったのだと仮りにすれば 《内なる人》の先の二つの内容論点が よけい ここで 強調されようとしていると思われる。
問題は 先行するものの領域で成立する会議 その同感人の幸福にあるのだ ということ。これが 抽象観念論だと思われるならば 一人ひとりの生活態度が すでに成立し形成されつつ またつねに 問われていくのだということ。援助を 不必要であるとか するなとか言うのではなく 無視すべきどうでもいいことだと言うのでもなく しかも 後行するどうでもよいことと見て 援助をおこないあう。その心は 同感人としての連帯――しかも 先行する会議における連帯なのだから 自由な交通関係のむすびつき――なのだと。スミスは このことを 冷血漢と見られるのをおそれて けっこう長い一つの議論として 書いていると思われる。すなわち この意味で《社会から離れて》でもよいし もちろん社会の中にあってでもよいかたちで 人間が《じぶんじしんとなるというじじつがあることを しめしている》。《社会そのものの本質》・会議の本質の問題として かつ 《じつは歴史的な市民社会の本質として》・だからこれも歴史的な会議の成立ということと関連して そうなのだと。
わざわざ会議と言いなおすのは 一個の主観動態たる人間を 基本にすえたいからである。内面的に《内なる人》 出発点として《生活態度》 そしてこれらの統一体たる主観動態は すでに 会議人=同感人=プラス経済人であるということが 社会一般の生活経験として 実現(普及)しているという前提に立てるということであった。これまでの研究成果に対して どこからか 超越的な観点のもとに なにか難癖をつけているようなのであるが こうおさえておくと たとえば歴史的な変遷をとおってきたときに それに対して 種派pつ点がもとのままなのかどうか その出発点はもう古くなっていて 新しいものに変革していくべきなのかどうか そういった会議の具体協議に際して 問題点がわかりやすい。
すなわち 上の生活態度の基本線のうえで どこからかまた 無効の跳躍の生じてくること したがって それと対決していくことをも おのづから語っているものと思われる。経済人でもあるようになってからの生活態度にかんして なお依然として 内なる人の問題でもあるのだと。内なる人は 主観動態・人間学の 有効性の場であるが この同じ場(主体)から 無効の跳躍も起こる のではないかと。しかも もはや道徳論の問題ではなかった。
誤解をおそれずにいえば 自由・平等・友愛という理念も けっこうやっかいなものだということである。友愛は 兄弟愛( fraternité )という表現なのであって じつの兄弟でもないのに そう言うのは 先行する会議における内なる人の同感としてである。男女両性の平等も 同じくである。
だから 後行する領域では こんどは 両性の差別をこそ認めよとか あるいはさらに 差別せよとか 友情(交通関係の信用)はまやかしなのだとか こういうことには むろん ならない。しかも 法律問題・法的な措置あるいは道徳・慣習としては それらは後行領域なのだから しかも先行と後行とは同時一体のつながりというかたちで いちおう別だとも言えるし やはり つながっているとも言える。われわれは 先行・後行の両領域をあたかも互いに矛盾する二重会議を形成するものだとは 見ないし 認めない。先行領域が 後行領域で 無力にされえて しかもつねに有効だが 譲歩してもいるという言い方・見方をする。
すなわち 理念主義志向ではないからである。言いかえると 一般に二重会議と規定するばあいも 単純にいわゆる裏では差別や不信があるとする認識までのものとしては はじめの同感・基本単一の会議にもとづいていると語るし それは 単一の同感基本にもとづいて語るのである。
ところが 自由ゆえに男女の平等ゆえに友だちどうしじゃないかゆえに 人格を本源的に包摂しあっていくところの二重会議が 起こり得た。そして これも こんどは 好意的にみれば はじめの単一の基本同感をよしとしたゆえに それを実現したいという欲求によって 手っ取り早く理念に訴えるというものである。同時に もしすでにこの手段において 人格の交換――その前には 自分ひとりの 内なる人の領域での 人格の跳躍――がはたらいたとするならば すべては無効である。人格の自己実現のためには 人格を操作している。それと同時におこなうところの経済行為(その記号交換として現われたもの)としては すべて合法的であるという場合である。
これは 天使の能力を欲するということである。人格を操作したいために そういうように てっとりばやく理念そのものへ跳躍するのであるから。アマアガリ(またアマガケリ)ともよべる。
同感の会議には賛成だ しかるに世の中には 異感あるいは偽感・背感が見られる ゆえにこのままでは遺憾であるから わたしは天使の顔をつくろわなければならない かくて この極端な同感は 人格の本源的な包摂へすすむ。(侵略? 進出?)。人為的なあわれみ 偽善的なかなしさ。もちろん これに輪をかけた重商主義の二重会議は この本源的な蓄積(ともかくの信用確立)を基盤として――いまひとつの跳躍台として―― 《たしかに偽善はある 社会行為は人為的なものではるのだ しかしわれわれは アニマルではないが天使でもないから こうやって社会秩序をおもんじて 互いにいがみあっていくのではなく和を大切にして 自分自身のためにも社会のためにも 生活していこうではないか》と演説する。
はじめのひそかな天使理念への跳躍は もはや時効だと言うわけである。人格の包摂などというが それがたとえおこなわれていたとしても わづかに過去のしがらみとして残っているだけであり〔――つまりは 社会の制度・しきたりとして だがじつは生活態度として くみこまれたもの( built-in stabilizer )だと思われるが――〕 故意にわざと人は 人格の交換をやっているのではない もうそれは考え方として通用しなくなっているではないかと説明しようとする。
だが 本源的というときの意図 つまりは意志は 本来 一回きりのもの・ことであって たとえ習慣的な生活態度として生活態度の中に組み込まれたものであったとしても 一回・一件ごとに やはり作用しているものである。強いていえば 天使の顔を見せかけることが もう自覚することもなくなっているぐらいのことである。跳躍として人格の交換から始めるという開拓者としての本源的包摂を やり終え だからもう しなくなっているとしても 跳躍した生活態度の社会的に出来上がったしきたりに のっかっていこうという意図は 一回ごとに依然として本源的におこなわれている。
もし このことが なるほどそのとおりだと考えられ しかも それに対しては ひとりの人間がどうすることも出来ないのだと 考えるのなら まずは はっきりと そう表明するべきである。ここから 世論と良心との対立という生活態度の問題(あるいは すでに対立が解決ずみだという生活態度)が 始まるからである。
問題を始めないで二重会議のまゆの中へ入っていくのは よくないことである。だから 少なくとも 天使理念への跳躍と言う本源的な蓄積は いまだ 時効にかかっていない。しかも アダム・スミスの考えは 跳躍の不必要・その有害を説くことを 同時に含んでいた。資本志向による先行的な蓄積は 人格の包摂による本源的蓄積によらずしては 成り立たなかったと人は 考えるだろうか。マルクスは どうか知らないが マルクス読みは しばしば そう考えている。わたしたちの言いたいことは そう考えるとき 世論と良心との対立は 大きな和(環)の中に包摂され 人は 葛藤をこえて進んでいけるように見えるが じつは その反対だということである。
小さなものでも大きなものでも和の中に人が包摂されないで 良心が世論と対立したとしても その葛藤をこえた内なる人に人は 立つことができるとスミスは 発言したのである。マルクス読みは 対立・葛藤・矛盾をいだきながら それを科学的に認識していると言いながら 包摂する側の人びとの良心=内なる人はこれを たしかに大事にして とうとんでいる。
ところが スミスの意見が――明示的なものとしてはスミスの発言が――採択されたゆえに そのあと――原理的にいって そのあと――天使の友だちの環の手口も発明されたのである。もともとスミスの理論では 良心=内なる人は とうとばれている。ゆえに それの無効の手口に対しては しらるべく関与するばあいには 批判してゆく。マルクス主義者は この順序が逆である。けれども この会議の以前にも その手口(二重会議の資本主義志向)はあったのだが その以後では 言ってみれば会議の基本合意事項にのっとって おこなわれるように発明しなおされたのである。のだから これは 跳躍する無効の妖怪が いけどられたということである。資本主義志向の批判者は この妖怪にまずは踊らされたようにしてふるまい そのあとで なんとかスミスの理論の生活態度を 保持するというかっこである。
しかしながら だから 生け捕られながらも二重会議する妖怪は ほかでもなく内なる人によって 跳躍し それが無効なのなら 時効にかかりえない。と言って 批判してやらなければいけない。会議以前のものは ある意味で もう時効であるかも知れない。封建領主の末裔である人に対して 先祖の罪を問うことはない。
わたしたちは これでも あまりにも道徳的に語っているかに見られる。けれども 人間学としては 人が 自己に自首するのではあっても 自供の必要はないし 道徳上(=人間の交通関係の上で)なにか制裁をくわえようと言いあっているわけではない そして 経済学としては 経済行為・社会制度として政策理論していくのだから やはり道徳は 顔を出さない。そういう生活態度をスミスは 道徳感情論および国富論で あたかも会議にのぞんで 発言したものと考えられる。
内なる人の議会であるとも言える。ここに立つなら 下級の法廷たる井戸端会議をも我々はよく活用していくことができる。自由な発言が その議会の信条だから。ここに立つというとき 他方で その信条・天使理念に跳躍する人びとも出てきた。本源的に人格を包摂してこそ 議会が機能すると考え そういうふうに初めに 密会する。この二重会議は 葛藤に未練があり 葛藤の生活こそ 《内なる人》のことだと思ったし これを欲し こよなく愛そうというものである。
《人間なのだから》という旗じるしのもとに たしかに会議し 友達の環と和をつくると 思っている。発狂するのは自由だが 人に迷惑をかけてはいけない。このように道徳じみた発言をするのは 二重会議の内なる人が 道徳をかかげるからである。葛藤に未練があるようだからである。発狂する人びとは 理念や道徳の知識では一流の人たちである。発狂し葛藤する内なる人 これこそが 現代の聖者だとさえ 思いこんでいるのではないか。ただし この発狂や葛藤は これらも人びとは たえず手ごろな相手をえらんで 交換し植民し 自分は気軽なものなのではある。そういうものである。だから 二重会議という。
こういったことが 経済活動として・経済活動をとおして おこなわれうる。