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哲学いろいろ

#17

もくじ→2005-12-23 - caguirofie051223

§26

〈第一巻 第一編 第一章 商品と貨幣〉のつづきである。
その最終の〈第四節 商品の物神的性格とその秘密〉である。
われわれの愛すべきかにみえる《跳躍の密会》は 一つの信仰形態に原因し この信仰形態は 会議にもとづく生活態度が 信仰動態であると言われるばあいと同じく 会議以前の宗教形態ではなくなっているが 密会・密約(つまり なにものかとのそういう契約)である点では やはり一つの宗教を形成してもいる。わたしたちの信仰動態の約束は はなはだ安易なかたちで われわれが会議を持ちうる・持ったという歴史的な出発点 もう少し抽象的にいうと 意志の自由な先行する領域において抱く存在(自己確認)がわれわれ自身だという同感の原点 これである。
さしあたって――当面する人類の歴史において―― ほかには何も要らない。このすこやかな地点にわたしたちは すでに立っている。前節で 読み替えたあと 強引に――なぜなら われわれは 弱いから―― こう言っていこう。
会議の以前と以後との歴史的な変遷をとらえてマルクスは次のようにのべる。

現実世界の宗教的反映は 一般に 実際的は日常勤労生活の諸関係が 人間にたいして 相互間のおよび自然との間の合理的な関係を毎日明瞭に示すようになってはじめて 消滅しうるものである。社会的生活過程 すなわち 物質的生産過程の態容は それが自由に社会をなしている人間の生産物として 彼らの意識的な計画的な規制のもとに立つようになってはじめて その神秘的なおおいをぬぐいすてるのである。だが このためには 社会の物質的基礎が いいかえると一連の物質的存立条件が 必要とされる。これらの諸条件自体は また永い苦悩にみちた発展史の自然発生的な産物である。
資本論 1 (岩波文庫 白 125-1) Ⅰ・1・1・4)

わたしたちは この間の歴史に 基本主体が 無一物となる自由への解放に直面して その主観を社会的に共同化しうるという会議の成立を 想定していた。いな むしろ 基本主体の主観は 自由であり平等であるそのことにおいて 社会関係として共同主観(常識)であるというのが 会議にも先行する人間存在なのだと 会議は宣言していた。先行するものの自由の有効は そうして つねに有効な自由だが 跳躍の密会をゆるし それの有力化とともに これに譲歩するという意味で 無力にもなりうるというのは 会議の宣言内容の付随的な事項である。
そうすると 会議の歴史的な成立を境にして 以前と以後とでは 現実世界の宗教的反映は その宗教形態が異なると考えた。会議以後の跳躍の密教は それの有力となった(公然の秘密と成った)社会的な現実世界が 商品価値の運動によって 人びとをやはり規制しつづける(§23)としても そして同じく 物神礼拝ないし抽象的人間の礼拝としてのプロテスタンティズムなどのもっとも適応したやはり宗教形態をとっている(§24)としても 以前の宗教とは いちど 切れているのだと。
これは 《永い苦悩にみちた発展史》ではあり 必ずしも ただ《その自然発生的な産物》として 商品世界という《社会の物質的基礎》がもたらされたのではなく 会議をとおしての自由な意志にもとづく資本志向あるいは資本主義志向という意図と設計図とのもとに 展開されてきたものなのだと。マルクスの叙述を わざと こう補うことができる。
個人個人の意図として そしてその能力の及ぶ限りでの《かれらの意識的な計画的な規制のもとに いちどは基本出発点として 立つように》すでに なったのだと。基本出発点からのそのような展開の社会総体的な結果として 商品価値の運動は これを個人がじゅうぶん規制するようになったとしても である。だから 《社会的生活過程 すなわち 物質的生産過程の態容は それが自由に社会を成している人間の生産物として 彼らの意識的な計画的な規制のもとに立つようになって いちど基本的に 神秘的なおおいをぬぎすてた》と。
労働および商品の 使用価値とその記号との基本構成にもとづく資本志向という生活態度 これは 目に見える経験現実として そのものを保持するかたちで かつ その内部に――むしろけっきょく 内部に――密会の跳躍をひそませて 資本志向主義なる二重会議の宗教をも ともなったかにみえる。これが 現実世界の宗教的反映にかんする問題の歴史的な経過であると。認識として つまり 現存するものの肯定の理解と同時に その中に否定的な理解をも含む弁証法的な認識として まずは こうだと。マルクスはといえばマルクスは 淡々とのべている。終始そうであると言いたい一面もある。

さて経済学は不完全ではあるが価値と価値の大いさを分析したし またこれらの形態にかくされている内容を発見したのではあるが それはまだ一度も なぜにこの内容が かの形態をとり したがって なぜに労働が価値において また労働の継続時間による労働の秤量が 労働生産物の価値の大いさの中に 示されるのか? という疑問をすら提起しなかった。生産過程が人々を支配し 人間はまだ生産過程を支配していない社会形成体に属するということが その額(ひたい)に書き記されている諸法式は 人間のブルジョア的意識にとっては 生産的労働そのものと同じように 自明の自然必然性と考えられている。したがって 社会的生産有機体の先ブルジョア的形態は あたかも先キリスト教的宗教が 教父たちによってなされたと同じ取扱いを 経済学によって受けている。
(同上:Ⅰ・1・1・4)

だから これでよい面もある しかもその一面は 会議の基本出発点であったろうと わざとわれわれは 付け加える。先キリスト教的宗教のあたかも妖怪が キリスト教によって 無効だと宣言されたのと同じように 会議以前の労働ないし商品(あるいは前商品)の形態が 会議以後のいちおうの理論において 無効だと考えられることは 歴史相対的にだろうけれど 妥当なものである。マルクスは この会議以後の歴史社会的な展開においても――あるいは それゆえにこそ 新しい宗教形態をとった信仰動態(しばしば執念)によって密会する跳躍の妖怪のもとに―― 《人間はまだ生産過程を支配していない社会形成体に属するということ》を のべていく。
《なぜに労働が価値(基本構成の価値)において また労働の継続時間による労働の秤量(たとえば報酬)が 労働生産物の価値の大いさ(価値記号)の中に 示されるのか? という疑問を 経済学は 提起しなかった》としても 会議はすでに成り立っていた。この会議を 自覚して明言しなかったとしても すでに《自由な》労働者たちは 経験的にこの会議をとおってきていたと むしろわざと 言おうとおもう。無言の宣言であっても そのようなものが すでに成立していたと考えざるをえない。
《自明の自然必然性と考えられている》ことは あたかもここで規定する会議の以前と以後とを 基本的に区別する観点をもちえたことをあかすのであるから この会議の想定は けっして絵空事ではない。
かくなる上で 《生産過程が人々を支配し 人間はまだ生産過程を支配していない社会形成体に属するということが》 認識され考慮されていかなければいけない。基本的にいえばわれわれは これを認識しはするが 資本志向の会議の基本線から言って 歴史的にまだ この事態を根底からくつがえす必要もその正当性もみとめないというものであった。
ここで《まだ》と言ったのは マルクスの叙述とのかみ合いで 言ったまでである。会議の基本線の資本志向を まだ さらに 展開していってよいと考える。《その額に書き記されている諸法式(生活態度としては 方式)は 自明の自然必然性と考えられてい》てよいと考える。そのひたいの奥に 跳躍の暗躍があるだろうことを わすれたものではない。いまでは それを 中学生や小学生までが 知っている。
資本主義志向の生活態度は みづからを《法式》と考えているのかも知れない。資本志向の生活態度は たんなる方式――手つづき――の問題である。そして しかるがゆえに 生産過程を 基本出発点としては すでに規制するという側面の方式をも ふくんでいる。資本志向のただ自由で合理的な経済生活では なかなか効果的に 立ちゆかないものだという問題は 会議に立った人びとの具体的な協議の問題である。われわれは このとき 経済学その他の経験科学を活用する。
資本主義志向の経済学は 合理的な資本志向を 法式――おきて――とする。この法式――あるいはその限りでの経済運動の法則――を 会議に先行させる。《現実はきびしい。現実がこれこれこうなんだから》というのが その口ぐせである。ゆえに あたかも 明らかに二重会議。基本の会議の合意事項はこれを守っているのだが 見えないところで 別の密会が 跳躍している。ひたいの奥に ひそかな楽しみが かくされている。この楽しみがなくて なんの人生ぞと。
われわれは 会議こそが たのしみである。会議の 単純な安易な歴史的の進展こそ 大地のすこやかさをあらわすものだと。われわれに欲望は存在しない。妖怪に関知しない。良心のために すなわち妖怪たちの密会にあそぶ人たちの良心のために この現実世界の宗教的反映を認識するし 会議のもとに協議し 経済学を活用しむろん自然科学の成果をふくめ活用し 一つひとつの事に 関与していく。
《ここがロードスだ》(Ⅰ・2・4・2)であり しかも必ずしもわれわれ自身が《跳べ》という必要はないであろう。マルクスも このことばを出したのは 妖怪たちが《さあ跳べ》と あの人格の交換において 語ってやまないとしてであるだろう。
わたしたちも 《蛹の蝶への発展》(Ⅰ・2・4・2)を前提するかも知れない。だが これは 蛹の前史が終えられた近代市民の会議において すでに 果たされている。ふたたび準備の会議 会議の永遠の準備から来る跳躍へのいざないのことば これは 二重会議のダブル・バインドをふくんでいるかにみえる。妖怪であるかにみえる。そしてわれわれは これらが解決し消滅したところから 出発してきている。われわれは 妖怪を生け捕った。そうでないと言うことのほうが 神秘的である。妖怪の生け捕りの歴史としてたとえば ブレーズ・パスカル アダム・スミス

  • 付録――近代市民の会議ということ――および付録の補論(§28以降)を参照。

《商品と貨幣》の一章の論議をここで しめくくりたい。つまり つねに単純なことの繰り返しである。

これまでまだ 一人の化学者として 真珠またはダイアモンドの中に 交換価値を発見したものはない。

  • 価値記号という価格の元素が それらのものの中に あるのではない。もちろん あたりまえのことである。

しかし 特別の深い批判力をもっているこの化学的実体の経済学的発見者たちは 物財の使用価値が その物的属性から独立しているのに反して 

  • 価値は 物財を所有・使用する経済主体の生活行為の問題であるから 使用価値とて 物的属性がそのまま一人歩きするものではない。これに反して

その価値(交換価値=記号)は 物としての属性に属しているということを発見している。・・・すなわち 社会的過程においてのみ実現されるという特別の事態である。
(Ⅰ・1・1・4)

価値記号は 交換という社会的な交通の過程においてのみ実現されるものであり そのとき 商品たる物財は そのひたいに この記号が 物としての属性のごとく 書き込まれている ということが発見された。だから 価値記号は 使用価値と組んでの基本構成から 別個の独立した地位を得てのように 記号価値へと転化している というものであるが マルクスにして この事態の認識で この冒頭の一つの章を終えるということは やはり・やはり きわめてあいまいなものである。
もちろん 一章全体の叙述と考え合わせて(――あるいは つづく〈第二章 交換過程〉の全部が この〈第一章〉を要約し整理しているから それとも考え合わせて――) けっきょく そこで 跳躍する妖怪(人間がそういう意欲をもち信号を発して その実現をたのしむのである)の成り立ちを知り これをまた すでに生け捕りにしたと語ったと言ってもよいのであるが その叙述の仕方は これまた結局 読者よさとりなさい と語りっぱなしにしたことにひとしい。
たしかに 禅問答である。われわれは すでに悟ったところから――会議において悟ったと想定したところから―― 出発する。なぜなら 妖怪とたわむれる跳躍者は 商品が 記号価値へと転化しそれとして独立の流通を勝ち取っていると言う信号を ひそかにみちびき出し送り合い この密約を承認しない人は われわれの信用を得ることをできないだろうと 二重会議で取り決めあい 狂気の心理の強固な団結をもって 地を這っているからである。

  • ものごとには 表があれば裏もあると語り続けている。

これが 二重会議あるいは二重帳簿であるということは そこに はじめの基本の会議が前提されている。マルクスも 明らかに すでに悟ったところから出発し この認識を整理し叙述したし 人びとは このマルクスの認識を読んで 自分たちの悟りが よりいっそう明らかになることはあっても マルクスによって免許皆伝をうけたというのでは 必ずしも ない。
なぜなら 《誰も自分が想起しないもの また全く知らないものは愛さない》からである(§18)。パスカルはここに立ったし――つまり 経済学の以前の思想家・人間として かれを 例にあげた――)し スミスもすでに そうして 出発しているのである。時代の制約もむろんあるであろうが 基本的にいえることは 会議の展開として かれらは 有力となってきた二重会議派に譲歩しながら(むろん 批判もしながら) すでに進んでいる。生きた。マルクスは この譲歩では こらえきれないところがある。
譲歩は 妥協ではないことを人は 知るべきである。人は 二重会議派(意図の二重帳簿派)が それでも その跳躍を始めた出発点では 基本の会議に たとい小部分でも 触れ得たのであるから その点で 交通し譲歩をおこなうのである。こうなのであるが かくれた信号の密約の場では その場じたいが無効なのであるから 交渉しようにもできない。われわれは こういうとき 本気で怒る。しかも その怒るべき対象が 存在していないことを知るであろう。

  • 妖怪と言う。無効が実効性(既成事実)をもって むしろ社会的に有力になった状態である。

このとき 妥協とか取り引き・かけ引きなどということは ありえない。ただ 妖怪に それにも基本先行する会議の存在たる大前提を信用しあうがゆえに われわれは 譲歩する。かつての《国ゆづり》。しばしば 仕えなければならないことも あるわけである。
こうしてわれわれは すでに 歩みすすんでいる。われわれは 生きている。これが たとい無力にされていても 基本有効であることを マルクスは しめしたかったのである。
そのかれの意図は明らかであり われわれはそれに同意するし すでに会議で成立した合意事項に同じだと同意する。マルクスにおいてはじめて人間が現われたわけではない、われわれはこうして この地球上ではこれ以外にわれわれの歴史はないのであるから すでにこの世に勝利していると あからさまに 放談(井戸端会議)する。
つづく→2006-01-10 - caguirofie060110