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全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207
§3 R.ジラール著《世の初めから隠されていること》d
§3−3
キリスト教の世界では 一切が常に終わりからの読みなおし 先立つ考え方の誤りを明らかにしてくれる終わりを考え合わせながらの読みなおしです。キリスト教の文化であれ ポスト・キリスト教の文化であれ 西欧の文化はすべて 誤って供犠的なものだと思いこんでいるこのキリストから ますます遠ざかることを考えています。キリストと永遠に縁を切る努力をしています。しかし西欧文化がまったく別なものを目ざして進んでいると思いこんでいるそのときに キリストはずっとまえからそのそばにいて 聖書を説き明かしているのです。
(世の初めから隠されていること (叢書・ウニベルシタス)2・4・E)
この言い方をわたしは 好まない。
《愛》を暴力と相容れないものとして立て(もしくは そういうふうに 聖書の思想を解釈して説明し) たとえば経験的にも人間の論法で 殺さないための・供犠制度の構造から抜け出すための 自己犠牲をためらうなかれと説いていくそのやり方を推し進めるなら――同じくあるいは そのジラールのもともとの出発点においてこそ―― 上のような議論の仕方が 出てくるものを思われる。それは 告発に対する告発 つまりは犠牲者を神聖なものとして立てて告発することに対して別の犠牲者の神聖視による告発で対抗し 供犠構造の中で 文化を展開しあっていく行き方とは 基本的に確かに別だとは思われる。なぜなら キリストを出すことは かれが犠牲者ではあっても そのかれは 供犠文化の社会制度とは相容れないと言っていることによると思われるから。
だがわたしは この論法を好まないと言おうと思う。すでに述べた一つの結論としては この愛も 思想を述べる出発点における構図前提の中に置くとよいと考えた。その限りで それが(つまり構図前提が) 今ある供犠文化の構造と重なってもよいのだと考えた。つまりこのタカマノハラ理論としては アメノミナカヌシを――たとえば真理として――立てているけれども 一般に 人間存在を基礎とするムスヒ思想によって 議論を展開できるであろうと見るものである。
上の引用文の中で 最初の《キリスト教》というのは 《ポスト・キリスト教の文化であれ 西欧の文化がすべて 誤って供犠儀礼上の犠牲であると思いこんでいるキリスト・イエス》のことだと思います。そうとってよいと思います。そうすると 《一切を終わりから読みなおす》ことは その終わり=あるいは初めであるやはり愛の 有効性を 証明しようとすることではなく すでに有効であるように この愛を実践して 議論し行動していることだと考えられます。前提の図式が この限りで 逆に 肉づけされるかも知れない。キリストを出すならばであります。
有効なものが有効であることを《論証》しようとすることは 供犠上の 文化制度的な有力の問題であります。しかし 有効を有効だと論証するといっても いまの場合 文化制度上の有力とは――供犠のタカマノハラ理論にあっては 暴力に派生している そういう意味での力関係とは―― 相容れない愛のことにかんするものであるということなはづであるから 必ずしも有力となりえないというだけではなく 無理がある。言いかえると すでに愛が 有効であるように実践するといっても 供犠を伴なった社会の中の文化人としては 自分ひとりの力では 有力となりえないだけではなく はじめから無理であります。供犠制度の悪循環を抜け出すというのは 少なくとも議論として 仮説・仮定であります。仮説前提を経験現実と見なして そのすでに有力となったものと見なして 説いていくのは 無理であります。(純粋なアメノミナカヌシ思想としてなら それは 信仰告白というものになります)。
無理を承知で やるのか。そうではないでしょう。しかも そこに 神秘があるかも知れない。つまり 真理の問題。つまり信教は自由なのだから――経験科学のムスヒ理論でもそううたうのだから―― 愛を立て これを見 これを信ずるなら 今度はひるがえって 無理でも おこなうべきであるでしょう。すなわちこの場合は 無理を犯すのではなく 無理を派生させていると考えられるところの供犠制度から抜け出そうとして その供犠文化の論法で 無理をも突き抜けて行く道を 考えていくべきです。それは 言うとおり 終わりからの読みなおしではあります。すなわち この終わりからの読みなおしをおこなえという言い方をするのではなく またそれがアメノミナカヌシ(この場合 キリストのことである)によって いづれ 実現されるであろうと説くのでもなく 実際に具体的に すでにこの終わりからの読み直しを 自分がおこなっていることでなくてはならない。
たしかにわたしたちは ムスヒ経験理論の客観真実を おのおの自己の主観ともしていくのだから その主観動態においては アメノミナカヌシ信仰一般をも 排除しないはづ。すなわち よってわたしたちは 愛し祈り望むだけではなく あるいは愛し祈り望みを持てと説くのではなく じっさいに実践する。無理を承知でか。しかし 無理の終わりから あるいはその意味での初めからであります。
ジラールは キリストが愛であると言うのなら 言うのだから これを 実践しているのが よかった。それは ムスヒ理論にもとづいた議論をとおしてである。しかも それなら その説明は 論理文化的な証明・その有力のことに属します。わたしたちが――その有効が―― 世俗的に有力にならないと言おうとするのではなく すでに実践に踏み出しているのがよい。文化知識的な論証は それが 終わり=目的ではないでしょう。終りでも・あるいは初めでもないわれわれの思想 これは あとからついて来るという側面も 大きいのです。つまり 終わりから読み直した結果であります。その出発点は 終わり=初めのことではありますが 必ずしも文化有力のそれではない。それだとしたら 無理がある。告発と告発 有力と有力との 供犠制度的な競い合いになる。だから この意味でも 思想にとって タカマノハラ出発点がどこにあるかは 大きく問題とすることができる。そしてただし この出発点じたいえお議論するときには それが 仮構としてのタカマノハラ理論だと はきりさせて 取りかかるべきである。
こういった点が 第一の結論であった。
書物の題名は 《世の初めから隠されていること》というのですから この《初め=終わり》について 議論することができる。
この題名は そのまま〈第二編の第一章〉の題名でもあり この一つの章を中心として見ることができる。そして なかでも その〈C〉が 《福音書による 基礎づくりの殺害(はじめの〈暴力‐供犠〉)の解明》というのですから ここらへんに 直接には焦点をあてることができます。
この問題の焦点は かんたんに言って――そうすると 少々やすっぽい謎解きになりかねませんが それでも―― 事は 《私は口をひらいてたとえを話し / 世の初めから隠されていることを 声をあげて言おう》という『詩編』の第七十八編第二節の詩句が イエスによって引用された(マタイ13:35)そのわけをめぐってなのですから それとして何が解明されているかにあるはづです。
そしてそれは 明らかに――ジラールにおつきあいするならば かれによると―― この〈C〉節の題名どおり 《基礎づくりの殺害》(あるいは 《はじめの暴力 / 暴力によるいけにえのメカニスム》などなど)がであります。それが解明された。これは うたがう余地がありません。(この点 自然の善に対して 社会の悪を立てるルウソの理論――『エミル』など――を参照できるようである。その意味では 聖書をあるかっているけれども その扱い方を 経験思想のムスヒ理論に だいたい 翻訳して われわれは これを見て行くことができる。その限りで ジラールといま おつきあいする)。
ジラールは このことを もう少し内容を充実させて 議論します。
(つづく→2007-12-27 - caguirofie071227)