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哲学いろいろ

#10

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

§3 R.ジラール著《世の初めから隠されていること》e

§3−3(つづき)

ジラールは このこと(《基礎づくりの殺害》)を もう少し内容を充実させて 議論します。

基礎づくりの殺害の ことばによる解明を 行動の解明に(* 言いかえると 人類学的なムスヒ理論とその実践に) 結びつけて考えねばなりません。・・・福音書全体を通じて ことば(* つまり愛 つまりまたキリスト)による解明はただちに 《それを黙らせようとする》集団の意志をかき立てています。

  • エスがこれを解明したら 人びとは 一つの意志の集団となってのように かれを黙らせようとし 迫害しはじめた。

それは集団による殺害という形をとって具体化され 別な言い方をすれば基礎づくりのメカニズムを〔あらためて〕生み出し この事業によって この〔集団の〕意志が圧殺しようとする《ことば》のあることが確認されることになります。解明とは すでに解明されているすべてのものと激しく対立するものです。なぜなら解明されるべきものは まづ そうした偽りの激しさ あらゆる偽りの源泉であった激しさなのですから。
世の初めから隠されていること (叢書・ウニベルシタス)2・1・C・3

すなわちここでジラールも ルウソと同じように ルウソの《万物をつくる者の手 その意味での自然》のことを 《ことば》として あらためて語った。
すなわちジラールが この《第二編》の表紙のエピグラフに ヨハネ福音書の《はじめに ことばがあった》の一句を 引用して掲げているとおりである。この《ことば すなわちキリスト・イエスまた愛・真理》が 終わりあるいは初めであることと 議論する自己の実践との関係が いくらかあいまいであるように思われた。と指摘することによって われわれの議論を進めたいと思います。
ルウソに即していうなら 《万物をつくる者の手を離れるとき(その意味での自然)》と《人間の手にうつるとき(その意味で 社会)》との関係であります。したがって 《画されていること》の解明と その解明をおこなう者との関係であり そこにわれわれの自己がどう位置するかであります。
つまり 単純に何が解明されたかであり その何かが隠されていることになったその《世の初め》とは 何を言うか。あるいはその初めと自分とのやはり関係。
ジラールによれば 上の引用文にしがたうと 第一に《ことば》 そのほかに第二に《基礎づくりの殺害》。たとえばカインによる弟アベルの殺害。また やがては アベルが聖なるものとされ 社会全体が制度的に 供犠のしきたりを持つこと これが 解明された。ルウソは 後者のことを 《人間の手にうつるとすべてが悪くなる》(『エミル』)と 抽象的・基本的に語った。また 前者の《ことば》も 《自然》ならそれとして語った。われわれの問題は どう実践しているかである。しかも議論としては一つに 何が解明されたか それらがどのように解明されているかをめぐって これをおこなうことができる。
引用文の中で 《解明とは すでに解明されているすべてのものと激しく対立する》とは いくらか意味のとりにくいものですが そうすると 解明されるべきものは もともと解明されていたのだということを含めて 言ったとも とれます。《暴力‐〔その犠牲者の神聖視・神聖化〕‐供犠制度》の側の集団意志は 解明してほしくない・傷をつつかないで欲しいと うったえているということだし しかもそういうことならば すでにかれら自身においても 解明は成されているということを 暗黙の内にしろ かれら自身が語ったことを示している。
すなわち さらに今度は 機械的・図式的にだけ解明されたとして 済むものではないと ジラールはすすんで 言っていることである。問題の焦点の実質的な内容は このことをめぐってであります。済むものではないことを それとして 論証しようと実践するか それとも すでに済まないから実践しているかだとも 考えられます。なぜ済まないかは それを論証し 文化知識的に有力となることを 必ずしも目的としない。知識が終わりでないことを ジラール自身 語っている。
だから 何が解明されたのか。世の初めとは 何を言うのか。
この限りで もちろん ジラールも言うとおり 《ことば》たるキリストであります。一般的にいえば 真理 あるいは そうだとしたら愛でありました。というとき 何が解明されたのか。世の初めとな いったい何なのか。言葉や文字たる真理・愛が有力になっても われわれは つまらない。
ジラールは ルウソの自然宗教ないし理神論を ふたたびむしろのように 超えて 《世の初めから隠されていること》とは ことば・すなわち神のことば=キリスト・イエスなのだと語った。《〔集団による供犠のしきたりにのっとった殺害という〕意志が〔そのように〕圧殺しようとする〈ことば〉のあること これが確認される》というふうに。また この《ことば》は われわれの§3−2で見たように 愛であり 殺しと死とそしてその死者の神聖化という悪循環をたちきるための有効なる力であったと。そして この有効性の論証がではなく――そうすると それは まだ 論証されたとしても 一つの文化有力となるまでなのだから―― すでに有効(つまり 勝利している)として実践しているということば 議論の中心であった。そのような自分との関係。主観(その動態)といってもいい。
ジラールも――タカマノハラ構図理論のことを抜きにすれば―― 先の引用文で 事実上そう言っているし §3−2に抜き出した引用文の端々で 《自己》の実践・《一人ひとりの実践》のことを たしかに言っている。そうして われわれの議論の進め方としては その実践は すでにおこなっていると言ってしまって 動態の〔おのおの主観的な〕中味を問題にし かつ ここでは 《隠されていること》=解明されたこととは 何なのか。解明したものは いったいだれであるか それはどのようにであるか これをめぐって 考えてみておきたいのであります。
(つづく→2007-12-28 - caguirofie071228)