caguirofie

哲学いろいろ

#8

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

§3 R.ジラール著《世の初めから隠されていること》c

§3−2(つづき)

いづれにしても 見過ごすことのできない主張内容を持ったものとして もう少しジラールの議論に付き合うこととなる。
いづれにしても われわれはまづ ジラールが 具体思想としてのムスヒ理論(つまりいわゆる人間学)がどうであるか・それが成功しているか じつは これを別として 出発点としてのタカマノハラ理論を 問おうとしていること これを見ておくことになります。もっとも このタカマノハラ原理論という捉え方じたいが そこで含まれてしまう神秘というものによって――神秘はあくまで神秘であって 議論不可能ですから―― すべては幻想のたわごとであると見る人も いるかも知れません。わたしのように タカマノハラ理論というふうに 概括してしまうことじたいが いけないのかも知れませんが。つまりは 暴力ないし社会的な経験現実としての人間の力関係と 両立不可能な愛というものを立ててくるのが まさに論外のことにならざるを得ないのではないかとです。
そこで じっさいジラールは しきたりの供犠と 殺さないための積極的な自己犠牲とを 区別しなければならなかったいし 後者を有効に説明するためには 《すべての人がほほを余分に差し出せばよい》とか 《すべての人が敵を愛するなら 敵はいなくなる》とか あまり論証にもならないことを 語らなければならなかったのかも知れない。というふうに言うと ジラールの思想内容に立ち入ることにもなるのだが そのときにも それは もともと論外だと言う人もいるかも知れない。われわれはここで ジラールに味方して たとえ次のように言って 上のように論外視する人びととたもとを分かちながらでも 進まなければならないだろうか。すなわち 上のような 子どもにでもわかる 真理の論理的な部分 これは 経験現実的にまだ有力ではないところがある。だから さらに しかし ひるがえれば 愛は たとえ世俗的に――暴力の前に――有力ではなくとも その暴力と両立不可能なのでもあるから 真理として――その限りで 神秘的に――有効であればよい。というような議論の仕方である。
つまり タカマノハラ理論を論外視する人びとを われわれが 論外視するということにならざるを得ないのか。しかし それは われわれの側のいま一つ別の暴力ではないのか。暴力なのか。少なくとも論証の問題として捉え ここに われわれの吟味の焦点がある。また ジラールの《 a / b 》の命題つまり 自己犠牲の実践の問題が ひろがるものと思われる。したがって 時には タカマノハラ原理論というものを立ててみること これじたいを放棄しなければならないのかも。
ジラールも言うように 告発と告発との対立の問題ではないとするなら そのような構造的な読み合い方を きりぬけていかなければならない。《告発は供犠のしきたりから派生している》とすれば その暴力構造と相い容れないところの愛を かれが主張するのであるからには そのような一つの現代思想を 捉えてみなければならない。ここらへんの成り立ちが われわれの探究の焦点であった。
逆に ここでジラールの議論に批判をくわえるならば 次のようになるまいか。かれの主張は 論理的な知的な証明や説明の部分に限られないのだから あるいは同じことだがむしろ その経験認識による説明の部分を大いに持っているからこそ やっかいなのであるが わわれから見て 問題の有りかをよく捉えていると考えられる反面で この問題のありかを提示するのにあたって それが一種のタカマノハラ理論構成なのだとはっきりとは言わなかったこと この点に 不満があるのだと。暴力とはあいいれない愛を立てること これも タカマノハラ出発点理論として 単なる説明の上での図式構成に過ぎないと言って 議論を展開すればよかった。われわれは 決して単なるえそらごとだとは思わないが 絵空事だと見る人もいるかも知れない。そのような領域を 議論の対象にしているのだから 説明のための前提に 愛を持ち出しているのだと はっきりさせるべきであった。

文化人類学の大規模な作業は またこのことを思い起こしていただかなければなりませんが ユダヤキリスト教の主張に反対して 全面的に組織化されています。文化人類学者たちの狙いは いつもそうしたテクストの供犠的な解釈――部分的にはごまかしがあっても――だったのですから それはある点では正しいわけです。しかし もしも彼らの努力が完遂されるそのときに 同じユダヤキリスト教の主張をはっきりと また思いがけなく 一挙に確認することになるとすれば それは類例のないたいへんな皮肉だということになるでしょう。
(2・4・E)

このように言うのは 暴力の悪循環を――少なくとも有効に―― 断ち切るところの愛を やはりたしかに これら近代思想・現代科学は 指し示すよう その準備をすすめていると ジラールにしたがって いうことではあるのですが わたしには また 《ユダヤキリスト教》の主張が 社会制度として 構造的な・供犠的な読み方を どこかで 持っていたのではないかという同じジラールの主張ではあるまいかとも 考えられます。したがって こういうことをもはや考え〔に入れ〕ないところのムスヒ理論(現代の経験科学的な思想)は その知や客観真実の認識の蓄積という基礎的で有益な貢献部分を別にするならば それが 思想であろうとするときには ただ告発をおこなうようになるしかないと 言いたげだとも考えられます。
つまり 思想実践の問題にかぎって 告発と告発との循環過程であるとすれば そのことじたいを これら現代思想は いづれ一挙に自己のもとに確認することになるではないか。そのように正しくすすんでいると同時に たいへんな皮肉が待っていることになるかも知れないのだと。ジラールによれば このことを真に解明するのは 愛なのだというころになるわけですが そのときの愛を 議論の前提として・つまりむしろ単なる構図としての説明前提として すすめているほうが よかった。なぜなら 殺しと死との悪循環を抜け出すために 自己犠牲の引き受けを ためらってはいけないとしても わざわざ こちらから求めて 引き受けるようになることも 否定的な様相をおびる。
愛の問題でわたしは ジラールに賛成するものですが われわれが議論しうるのは 一つに タカマノハラ理論という思想出発点 これが問題のありかだということ そしてそのあとは もう一つに このタカマノハラ出発点という理論構造――それは 概観するものだから 図式的となる――あり方についてではないかと 考えられる。(ジラールは 仮説の想定とそれによる論証・実証と言ってもいるけれど あくまで 愛を図式化させないわけである)。もしくは――放談してよければ―― さもなくば第一に 《われわれは真理のもとにある》という子どもにも分かる表明としてのやはりタカマノハラ原理を言い その上で第二に 個人として何のなにがしたるわたしは キリスト・イエスを信じるという言い方 これしか できないのではないか。あとは その思想を――あるいは おのおの自己の思想を―― 社会制度の中で・それに対して むしろ身体で表わして行く以外にないと。もう一度さもなければ もとに戻って タカマノハラ出発点のことを 経験理論(また 政策提案)として 議論しあうということ。
ジラールも これを言っているか もしくは すでに実践しているとは思われる。その上で分析的に整理するならば まづ全体的に見て 上のようなことが言えるのではないだろうか。
(つづく→2007-12-26 - caguirofie071226)