caguirofie

哲学いろいろ

#6

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

§3 R.ジラール著《世の初めから隠されていること (叢書・ウニベルシタス)》a

§3−1
まづは 技術的な――揚げ足取りになるような――批判から入ります。
それは ジラール自身のことばとして 次の二つの文章をくらべてみることです。

《 a 》 殺さないために自分のいのちを投げ出すこと( donner sa propre vie ) そうすることによって殺しと死との悪循環から抜け出すために自分のいのちを投げ出すことを ためらってはいけません。
(2・2・G)

René Girard: Des choses cachées depuis la fondation du monde (1978)
Things Hidden Since the Foundation of the World

Things Hidden Since the Foundation of the World

《 b 》 あらゆる供犠のやり方( toute démarche sacrificielle )は そのうえ特に(=中でもとりわけ)自分自身にはねかえってくる( retournée contre soi-même )ようなものは 福音書のテクストのほんとうの精神に一致しないと結論せざるをえません。
(2・3・D)

これら《 a 》と《 b 》とは互いに矛盾している。そして この一見しての矛盾が 著者によって解決されるそのやり方が 矛盾したものになっているように思われます。

  • そもそも 一言で批判しようと思えば 《キリスト・イエスが 十字架上の磔刑に遭って死ぬという手段をとったことは 〈あらゆる供犠〉も要らないと言うためなのだし 人がわざわざ〈いのちを投げ出すこと〉も必要ないようになるというためである》となります。少し

 ジラールにお付き合いします。
まだ 文脈も明らかにしませんが 《 a: 自分のいのちを投げ出すこと》と《 b: 自分にはねかえってくる供犠のやり方》とは 同じことのように考えられ 一方では それが 積極的に評価され 他方では 排斥されている。
引用文《 b 》のコンテクストでは 次のように言われます。

《 b-1》 《自分を対象とする》犠牲・・・。キリストがその例で 自分自身を犠牲にささげるということは 最も気高い行為と言えるでしょう。〔したがって《 b 》の中の〕たしかに この供犠ということばであらわされるものをすべて断罪するのは 行き過ぎです。私はそんなことを考えているのではありません。
(2・3・D)

つまり 前半は 先の《 a 》と同じ内容だと思われます。その後半の一文は

《 b‐2》 しかし・・・福音書の精神は 《神の国》のおきてを 《自己犠牲》という否定的な様相で示すことはけっしてありません。
(2・3・D)

とつづきます。そうすると 《 a 》の《自己犠牲》は 《否定的な様相で》捉えられるものではないとすることによって 《 b 》群と一致して これが 肯定的に評価され 主張されれていると考えることができる。すなわち 《 a 》文の中でも 《殺さないために /  殺しと死との悪循環から抜け出すために》という条件が 示されていて これによって その自己犠牲は 否定的な様相を帯びるその意味での《供犠のやり方》ではなのだと捉えなければならないということになっている。
自己犠牲は 一般に そのことじたいとして否定的な様相をともなうと思われますが その引き受け方は たとえば《殺しをおこなわないため》という積極的な行為として 考えられ われわれはこれを 《ためらうべきではない》と捉えられたのであろうか。言いかえると 《 b 》の中の《供犠》ということばで表わされるものは 考えるに しきたりや制度としておこなわれう犠牲のことであり それは つまりこれこそが 明らかに 《殺しと死との悪循環》の中に位置するものなのだから もしそうだとしたら推奨されるべき自己犠牲というのは むしろこの供犠制度に 異議を唱え じっさいの場合 それに抵抗し これらの積極的な場合にこそは ためらうべきではないのだというふうにであろうか。
ここまでは わたしの物言いも 技術的なものだったのであれば ただしまだ ジラールの説明も 技術的・論理的だけのものであると考えられる側面があり この限りで 《 a 》と《 b 》との矛盾は 解決されたと納得できると同時に それらに対する実質的な説明が 待たれると考えられる。
犠牲が 社会的なしきたりとなり供犠となることには 反対であると言い分については 次のように説かれます。

供犠(サクリフィス) 犠牲にする(サクリフィエ)などのことばは 神聖な(サクレ)ものにする 神聖なもの(ル・サクレ)を生み出すという正確な意味を持っています。犠牲者を神聖化するのは 祭司(*〔=引用者註〕つまり制度的な)の与える一撃です。この犠牲者は暴力によって殺され 消され また同時にあらゆるものの上に置かれ いわば不滅な者にされるのです。供犠は 犠牲者が神聖化された暴力の手に引き渡されるときに生み出されます。
(2・3・A)

《自分のいのちを投げ出すこと》が否定的な様相を帯びてではいけないというのは この供犠儀礼に そのまま のっとって(組みこまれて)ではいけないということだと思われます。早く言えば われわれは 抵抗しないのではないし 社会制度的に暴力の手の中に渡ったあと神聖化されるような(つまり あとから祀り上げられるような)自己犠牲のやり方じたいにも 最後まで 抵抗するということであると。
しかるに ジラールによれば あらためて命題の《 a 》すなわち

《 a‐1》 《友人のためにいのちを捨てる以上の愛はない》(ヨハネ福音15:13)のです。
(2・2・G)

このときの 実質的な内容説明を もう少し聞きたい。引用ばかりだし 長くなるけれども

非暴力はどうして致命的なものになるのでしょうか? もちろん非暴力は それ自体が致命的なものではありません。非暴力は全体的に生を志向するもので 死を志向するものではありません! 《神の国》のおきては どうして死のおきてになりうるのでしょうか? それは 他の人々が《神の国》のおきてを拒否するから 死のおきてが可能になり また必然にさえもなるのです。

  • すなwち 通常のことばで言えば 《 a 》の自己犠牲の命題を 《 b 》の供犠制に反対するがゆえにこそ 引き受けることをしないなら 殺しと死との暴力の悪循環は 断てないと言っているようである。もう少し聞いてみよう。
  • (それにしても ジラールという人間は これほど 幼稚な文章を書いていたとは 今回このわたしの昔の議論を引っ張り出して来て 驚いた。ということは わたし自身も 幼稚だったのか。(20071223記)

暴力を破壊し尽くすためには あらゆる人間が断乎としてこの《神の国》のおきてを選べば十分でしょう。もしもあらゆる人間が 他のほほをさしのべるなら ほほを打たれる人はひとりもいなくなるでしょう。しかしそのためには ひとりひとりが別々に そしてまた全員が一つにまとまって 永久に共同の事業に身を捧げることが必要です。
(2・2・G)

  • そういえば思い出した。何と幼稚な文章だろうと 当時も思っていたことを。ということは なぜそのわたしは これとお付き合いしようと思ったのだろうか。よほどわたしが幼稚だったのだろうか。(2007123記)

そして じつは この説明も まだ論理的には納得できても 自己犠牲をためらわないでいられるのは何故かの説明は 十分ではないと思われる。(後半では むしろ幼稚な説明になってしまっている。〔などと やはり書いているようだ。=2007123記〕)。ただしわれわれは ジラールの議論を縮小して理解し誤解してしまってもいけないので さらに奥に分け入っていかねばならない。神秘的な議論になるのをおそれずに かれと付き合わなければいけないようだ。
次の引用文の中に一つのまとまった思想がある。最初のほうは やはり論理的な説明であり つづいて 福音書のイエスが示される。なかで《基礎づくりの殺害》というのは 殺しと死との暴力の――そして供犠制度の――悪循環の起源としてのそれであるようだ。

もしもすべての人間が自分たちの敵を愛するとすれば もう敵はいなくなるはづです。しかし人間たちが決定的な瞬間から身をかわせば 身をかわさぬただひとりの人間には 何が起こるでしょう? その人間にとって 生のことばは 死のことばに変わっていくでしょう。イエスに帰される行為やことばは 一見きわめて厳しいものも含めて また基礎づくりの殺害の解明や いまや致命的となった道から人間を遠ざけることの最後の努力なども含めて 《神の国》のおきてに合致しないようなものは一つもないということを 私は証明することができるように思います。イエス自身の宣教のなかの明確な原則への絶対的な帰依は イエスを死にみちびくことになります。イエスの死の原因は 隣人に対する愛――生きているあいだ最後まで イエスの求めるものを十二分に理解していた隣人に対する愛――のほかにはありません。《友人のためにいのちを捨てる以上の大きな愛はない》のです。
(2・2・G)

  • 中で ダッシュで囲った説明の部分 つまり《生きているあいだ最後まで イエスの求めるものを十二分に理解していた隣人に対する愛》については いま読んで よく分からないという状態です。申し訳ありません。20071223記。

じつは――議論が発展しておらず 決して奥に分け入ったわけのものでもないように見えるでしょうが―― これが ルネ・ジラールの基本的な思想であると考えられます。あるいは わたしは 考えます。

  • こうなると 当時のわたしは まだ 自信があったようです。20071223記。

たしかに《出発点》の議論であり――それは アメノミナカヌシを立てる形式のタカマノハラ理論であり―― その限りで むしろここに 少なくとも はじめの揚げ足取りの問題に対するジラールの基本的な主張内容があるだろうと思われます。すなわちあらためて《 a / b 》両命題の矛盾に答えようとするジラールがいると言わなければならないようです。
ことは きわめてびみょうであります。タカマノハラ理論のうち アメノミナカヌシ思想(ないしは信仰)は 経験合理的に論議しづらいし しがたいところがある。しかしジラールの思想の出発点は――この書物のかぎりで――聖書にあります。そして 考えるに その思想が もしいわゆる神学の議論であるならば われわれは むしろ それとして(古い議論の仕方で) いくらかなりとも 対応するすべを持ちます。その場合は結局 このいわゆるキリスト教神学は いまでは少なくともその表現形式が そうとう古いものであって その神学のみに現代思想を語ることは むつかしいか それとも それとして 特殊な一分野であると見なされると考えられます。いづれにしても この反面で ジラールは その思想が〔新しい〕人類学であることをうたっている。聖書にその思想の出発点を持つという反面で やはり経験的な思想であることを――だから あくまで人間の経験合理のムスヒ理論であるとして―― 語ろうとしています。だとするならば まとめて ここんところを どう捉えるか そういう側面の問題としても きわめて微妙であります。
ジラールが現代人のひとりであるならば――あるのですから―― こういう出で立ちで かれと対話していかねばならない。結論を延ばしましたが 次の節で ひととおりのことを述べます。
(つづく→2007-12-24 - caguirofie071224)