caguirofie

哲学いろいろ

#13

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

§3 R.ジラール著《世の初めから隠されていること》h

§3−5

あらためて 最初(§3−1)に掲げたジラールの命題を読み直すことができる。
《 a :殺さないために自分のいのちを投げ出すこと》。もしくは《 b :あらゆる社会文化的な制度としての供犠のやり方を超えて》というただし書きを持ったその《 a 》の命題。
したがって これも 実際には タカマノハラ理論としての構図的な理解であり主張であることになっている。すでに実践過程にあるものとしてだが 一つの縮小構造に沿った命題である。提言である。自己犠牲は 供犠制度的なやり方に 抵抗するがゆえに なおも別のほほをも差し出してのように そうとすればこれをためらわないということ これが解明された。とともに それは 解明されるべき第一のものではないということ。
あるいは むしろそうであるからこそ ジラールは 経験現実的に この《 a 》の命題を 実践の中で 語っているとも考えられたりする。ただ これが 社会状態の縮小構造《をとおして》実践していく姿であるのか それとも 縮小構造《に沿って》いくものとなっているのか つまり後者ではないのかということが 争われる。ちなみに 縮小構造《において》 そこから たとえば神聖なる愛を 心に想い抱くという行き方でないことは すでに 確言されるべきである。
わたしは いま 自分の筆の進まないことに 難儀しているのだが いわば実践論のよりすぐれた話し合いが現われることを待ち望んで つたない模索をすすめてみる。なお 《自己犠牲》といった主題については のちにもう少し明解な議論ができるのではないかと考えている。
―この明解な議論というのは 以下において 所々に為しえたとは思う。
その点 ジラールの《 a 》の命題を そのままで認容したのではないことは その理解がそのまま実践につながるとは限らないということにおいてある。もう一つに その理由として――抽象的だが―― 理解の第一は 犠牲とかまたその理解そのものではなく むしろ実践(つまり 真理と自己との関係過程)にあると述べたことで いまは 穴埋めする。実践は 理解に先行して おこなわれていたと考えるものである。(おこなわれていたということは この《先行》を 《先験的》という概念とは別のものとすると想われる。あるいは 見方によっては 同じなのかも知れない)。
真理と自己との関係は 実際問題としては 現実経験的な縮小構造と自己との関係に おそらく代理されて あらわれる。その点 ジラール論としては たとえば 《隣人たちが イエスの求めるものを十二分に理解していた》といった表現形式の問題にかかわるものと思われる。あるいは 《その隣人たちに対する愛のゆえに イエスは死を引き受けた》という言い方。ここでのイエスは 歴史上の人物である。
真理の理解は 先行するものである。そしてむしろ ささやかな〔まだ 自覚されていなかったような〕実践として 先行すると言ってもよい。真理の求めるものの理解は 後行するところのものであり これをおこなうことも じつは そうである。先行していたささやかな実践をとおして見て じつは もういっぺん そのように理解し こんどは 自覚的に――つまりやはり 後行するものとして―― おこなうようになる。そうして これらの後行することがらは どうして 一人ひとり多様でないであろうか。自己犠牲をためらわないことが 一義的に(また一義的に先行するものとして) どうして 真理の求めるものなのか。そうだとしたら これを理解していたイエスの隣人たちは どうして イエスといっしょに ただちに自己のいのちを投げ出すことをしなかったのか。
あるいは イエスは――つまりここでは 歴史的な人物としてであり 社会状態の縮小構造との関連で 言っているのだが―― 《自分の求めるものを十二分に理解していた隣人たちへの愛のために》こそ いのちを投げうったというのであれば そのほかの人びとに対しては 愛を持たなかったのか。社会文化的な 供犠を容れたところの縮小構造において その主張を ジラールは おこなっていないか。あるいは 縮小構造(有限な世界)を前提してのみ語るならばと そのつど しかるべき問題については ことわりつつ 進めなければならない。
ジラールは われわれがタカマノハラ理論として図式的に立てたところの出発点を 言っていたし それをすでに実践(生活)しているということも 語っていた。つまり 供犠構造的な縮小の視点を超えていた。そうして 実践をおもんじるがゆえに これらの理解をすべて この縮小構造《をとおして》主張するというかたちをとったものと思われる。すべて この限りで 同意されうる議論である。その上で しっくり来ないものがある。
なぜ 聖書がこうこう言っているからというので そのとおりに われわれは 事をおこなわなければならないのか。イエスの求めるものだというので われわれは その理解のとおりに 事をおこなわなければならないか。何が ここで 解明されているのか。あるいは何が 解明されていないのか。愛とは何か。

もし仮りにイエスの死が供犠であったとすれば 復活(* ゆえに 愛)は結局 磔刑によって《作り出されたもの》と言うことになってしまうでしょう。ところがそんなことはありませんし・・・
(2・3・C)

というのは どうしてか。むしろ 供犠文化の縮小構造においては 否定的に見るにしろ 《〈作り出されたもの〉ということになってしま》っていて ほんとうではないのか。

神(* つまり 愛)としてふるまうということは 分身どうしのあいだに差異を生じさせないということ 分身どうしの争いのさいにはどちらにも味方をしないということなのです。

はえこひいきをしません。
(ガラテア書2:6ほか)

し 《ユダヤ人とかギリシャ人とか・・・男とか女とか》(ガラテア書3:28)の区別もしません。
(2・3・C)

というのは どうして言えるのか。言えるのは 人間の相体的な論法で 一つの出発点つまりタカマノハラ理論を むしろきわめて図式的に――あるいは 真理を含むとしたなら その代理としての《人間の言葉による人間の真実》として―― 言っているというときである。そしてそれは 必ずしも論証の問題にはとどまらなくなる。むしろそれゆえ 《神》をも 表現の中に用いることができる。しかし 後行する経験領域では 分身(人間)どうしの差異・対立が むしろほとんどつねに 生じているというのが ほんとうである。つまり そうでないことを主張する出発点は まだ 構図そのものである。愛は この構図――タカマノハラ理論――のことではないと思われる。
わたしは人間だから えこひいきしてというかその逆で ジラールの議論に さからっているいるけれど なぜ 争っていけないのか。自己犠牲も そうだとしたら たたかいではないのか。確かに そのとき この世でのふるまいとして 神は そのどちらの側にも味方をしないものと思われる。けれども《イエスの死が供犠であり――つまり わざとその後の神聖化をねらって イエス自身が 既存の供犠制度を見越して それに乗ったものであり―― その復活などということは 作り話しである》という一つの見解は これに対してもしわれわれが 争うというなら しかしながら神は そのどちらにも味方しないということではないのか。そして いまでは 法治社会なのであり 理論闘争――生活上のふつうの対話過程――なのである。
この社会生活上の話し合いは しかしながら 一方で われわれがいうタカマノハラ理論といった概括的な分野の中で 構図として ぎろんすることは出来ても 他方で お互いの信教・良心の自由を侵すことはできない。

神の全能は その超越性のためにわれわれ人間から限りなく離れているかぎり またわれわれ人間の暴力的行為のかげに隠されているかぎり そんなものはわれわれとはまったく無関係だ そして結局はそんなものは存在しないのだ といまでもみなされかねません。しかしこの同じ超越性がひとりの人間に肉体化され 人間たちのなかを歩きまわって 真の神とはどういうものか どうすれば神に近づけるのかを教えるようになると それまで無関係だ不正だとみなされてきたものが たちまち あれは英雄的な愛だったのだ 至上の愛だったのだ とわかるようになります。
(2・3・C)

というのは どうしてか。どうして こちらのほうは 供犠的な読み それによる神格化の作り話しでないのか。きみは 至上の愛を見たのか。英雄的な愛だというなら 文化の所産であり 供犠的な暴力の跡をまだ 引きずっているのではないか。
へらず口をたたくことを もう やめにするなら 最後にもう一文を引用しておこう。ジラールが言うのには・・・
(つづく→2007-12-31 - caguirofie071231)