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哲学いろいろ

#5

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§2 現代の思想にかんする思想としてb

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2007-12-21 - caguirofie071221よりのつづきです)
いま挙げた例は 一つに 単なる類型思考であるし もう一つに 経験現実の通俗的な部分を捉えて あげつらっているところがあるが したがってまとめて言えば そのような例示が言えるとしても なお 古代人と現代人とでは そのタカマノハラやムスヒノカミの内容は もう違って来ている。また 現代人では特に 個人個人によっても 違っていることを むねとしているようである。だが――だが―― これで おおむね 現代の思想をぎろんするというとき その出発点(その成り立ち)は 共通のものとすることができたのではないか。
ここでの議論の手法として その概念装置として わざとでも古いことばを 必要な限りで 用いることとする。人間として行為能力をもった自己のことを――あるいはその推進力じたいのことを―― 《ムスヒ》と言おう。自己が自己を 人間〔の行為能力なるムスヒ〕と捉えるだけではなく そこに いわゆる宗教的な――言いかえると 経験的な推進力を超えたものとしての――中心的なカミを 生活態度において・したがって思想としても 持っている場合 この神のことを 《アメノミナカヌシ》と言うこととする。こちらのほうは 観念あるいはその念観であると見ておいたほうがよいかも知れない。そして いちおう これら二つの場合をまとめて それらの思想の 出発点における成り立ちとして 《タカマノハラ理論》という形態を採っているのではないか こういう一つの虚構装置があるようではないか こう見ようと思う。
これらに関する限りでの内容としてまとめておこう。
第一点。ひとりの人の一生あるいはその人の同時代人たちの生涯を合わせた時間的な幅 これが 現代ということである。
第二点。この現代は 歴史における各現代の積み重ねである。
第三点。思想は 社会生活の実際であり そのつどの現代思想として表現されたものである。
第四点。したがって現代思想は 過去の現代思想と切り結びしている。
第五点。人間存在とか社会生活とかの基礎においては 歴史はつながっている。
第六点。表現の問題で争わないとすれば また理論内容を別とすれば 思想(=生活)は 天地の(あるいは モノの)初発之時つまりは時間の初めを 表象し想像することによって 出発している。
第七点。内容を吟味しないで類型的に考えるなら この時間の初めとは アメノミナカヌシの場合は 宗教ないし信仰としての思想を言うだろうし ムスヒのカミの場合は――カミという表現などにこだわらないなら―― 人間とか精神・理性・知性など自己の経験合理的な思考力を 推進力としている経験的な思想を言うと考えられる。あるいは 主体を そのまま 推進力と見なす思想の形態である。
これら二つの場合が 近代人の以降の現代人にも 当てはまると考えられ もし二つをまとめるなら――抵抗はあると思われるだろうけれど―― タカマノハラ理論だということであろう。超経験のアメノミナカヌシ神学と 経験思想のムスヒ哲学 これら二つをまとめて タカマノハラ理論と言うということ。タカマノハラは 原と言うからには 一つの根源を言おうとしているとも取ることができる。
けれども これは ふつうに言って 人間の歴史観である。つまりその出発点として捉えることができる。
〔第八点〕。すなわち 唯物論が 人間史観でないとは言えないであろうし 精神分析学が こういった表現で捉えられるすでに人間に内在するというようなタカマノハラのことを言っていないものでもないから。後者は 無意識とか元型とかいうようなアメノミナカヌシを立てたのだと考えられるし 前者は これから自由になって ムスヒなる自己を――モノの歴史過程との関係で――立てているのだと思われる。物質は 無意識とか超意識の力で たといあったとしても 超経験的なアメノミナカヌシのことではないだろうし さりとて いわゆる唯だの物のことでもないはづだから。
また 精神分析が たといそれとしてもアメノミナカヌシを立てる場合でも――信教・良心の自由なのだから―― 議論としては(現代思想のそれとしては) 経験現実が問題である。ただ出発点において 概観するというときには タカマノハラなる原理論というまとめ方ができるかも知れない。
〔同じく第八点として〕。また 文化人類学〔という一つの現代思想〕は このタカマノハラを きわめて曖昧に立てている場合である。唯物弁証法精神分析人間学であるに違いないように 文化人類学も――その名からして―― そうである。だがこれは ムスヒなる物質の弁証法としてのタカマノハラ理論でもなければ アメノミナカヌシなる精神現象としてのそれでもなく しかも これら二つを贅沢にも包みこんでしまおうとするかのようでもあり きわめて《宇宙論》的でその内実が あいまいなタカマノハラ理論を その出発点に持っている。あいまいというのは 経験合理性の思想を排除したのでは 決して ないのであろうが。
そのほかの現代思想としては 教養志向であるとか成り行き任せのタカマノハラ出発点に 立っていると思われる。いや そのほかには 理論として表現されていない生活思想がある。文化人類学民族学)は この最後の社会生活のあり方を そのまま・そのあるがまま 理論整理するという行き方をも持っているかも知れない。もちろん経験科学一般がそうなのであり その場合には タカマノハラ理論の古いあり方から自由になろうとしているのであろう。つまり これを推し進めるといわゆる客観科学のみの場合には 出発点を持たない・持とうとしない思想のあり方も 現われているのかも分からない。だが それはそれで やはり一つの出発点だとは――出発点の無という出発点であるとは―― 茶化さないほうがよいと思うが やはり人間・自己というムスヒを立て 表現上やはりタカマノハラから出発しているのだと言ってよいはづだ。
人間は時間的な存在だから なんらかの形で 始めを持つと考えられる。そうして ただし 近代人の思想の出発点は これを立てると言っても それはもう 自己が自己であるこのとほかではないのだから その限りで 何ものかわけの分からないものに拘束されるというものではないようである。
われわれは これらにかんして またはこれらの観点から現代思想のいくらかを かんたんながら 交通整理することができればと思う。

タカマノハラ〔理論〕:思想の出発点〔にかんする理論〕
アメノミナカヌシ:人間〔の経験合理的な思考〕を超えるものとしての出発点
ムスヒ:人間存在という出発点
・・・ただし このムスヒ理論の中で アメノミナカヌシと連絡することがある
・・・・・・タカミムスヒ:人間がアメノミナカヌシ=統一神になる形態(シャマニスム)
・・・・・・カミムスヒ:万物の内にアメノミナカヌシのはたらきを見る人間(アニミスム)

(つづく→2007-12-23 - caguirofie071223)