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哲学いろいろ

#7

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

§3 R.ジラール著《世の初めから隠されていること》b

§3−2

あらためて ジラールの主張の基本内容を かれが別のことばで語るところを 聞いてみよう。キリストは愛であるというごとく しかしながら・・・

愛は暴力と同じように差異を無くしてしまいます。構造的な読み方をする人は そのどちらにも目を止めません。

  • * 構造的というのは 供犠制度を中核とする社会的な構造 それにのっとって・それに倣ってということであるらしい。

その〔*愛と暴力との〕根本的な両立不可能性などには なおさら目を止めないでしょう。この両立不可能性こそ われわれが明確にしようと努めているものですが 私としては これについてはまづ この問題にけりとつけることになった証明を全面的に参照していただかねばなりませんし そしてまた小さな子どもにでもわかることがなぜ賢明な人 有能な人にわからないのかについて 新約聖書のことばを参照していただかねばなりません。
(2・4・C)

かえって 謎を深くしたか もしくは つまらない議論の繰り返しに過ぎないとさえ 見られ兼ねないのですが わからないわけではない。
すなわち 《愛――いま 人間にあてはめて 〈殺さないための自己犠牲〉――》は 言うとすれば 聖であるが 他方で 暴力も この犠牲を社会的なしきたりの中に取り入れ 聖なるものをつくりあげようとするのではないか。つまり――それによって しかしながら 殺しと死〔そして それの神聖視も 時に 伴われるのだ〕との悪循環を おこないつづけるのだが 循環のおこる前には―― そこで《差異を無くしてしまう》。よって これら《愛と暴力》は 《両立不可能》であるけれども 《構造的な読み方をする人は そのことに目を止めない》と言うのである。
そのために《参照してほしい》と言っている新約聖書のことばや また論証にかんしては 結局 しかしながら――その長い引用は省かねばならないと思われることには――われわれが前節の終わりのほうで見たごとく 経験を超えるところの思想の出発点に 帰着するもののようである。経験を離れてではなく 経験を超えもするアメノミナカヌシ信仰を容れたところのタカマノハラ理論が むしろ証拠であるようである。たとえばあらためて

愛だけが真に問題を解明します。
(2・4・E)

と言って むしろ《子どもにでもわかること》を 証拠としていると考えたほうがよいかと思われる。また ここんところを われわれは 吟味したい。このような形態の思想を どう展開しうるか していけばよいのかをである。その前にはむろん ジラール自身の議論につかなければならない。
ジラールが言いたいところは  《社会の歴史過程を 供犠制度という構造にもとづいて読む人》は その読み方によって 真理が差異の対立を超えるごとく 普遍的な(もしくは 経験合理の客観真実による)タカマノハラ理論で出発し いわゆる現代思想を 自覚して持っているようであって しかも 両立不可能な愛と暴力 自己犠牲と供犠 これらを明確に区別し得ていないのだという点にある。よって 《 a / b 》の命題。つまり 聖書を持ち出すといっても 自己否定的な様相を帯びないところの人間の自己犠牲とその実践を言うのであるから 超経験的なアメノミナカヌシ理論〔だけ〕ではなく ふつうの人間のムスヒ理論として 言っている。
愛が 暴力ないし供犠制度と 両立不可能であると言うのは まだ じっさいのところ 論証されていないけれど その愛が 人間のムスヒ理論(ないし実践)として 暴力の社会構造〔理論〕を超えるとは 言っている。こういう形態の思想である。

近代思想のあらゆる重要な理論 あらゆる思想形態が 人文科学の分野でも 政治の世界でも さまざまな犠牲の過程を対象にし これらの過程を告発しています。これらの告発はいつでも確かに部分的であり 互いに対立し そのいづれもが《おのれの》犠牲者を振りかざして 相手の犠牲者に対抗しています。キリスト教のテクストに目を光らせるこれらの告発は 歴史的なキリスト教同じ供犠的な考え方(* 構造的な読み方)で テクストを読んでいます。そして そうした告発自体が供犠から(* または 暴力という出発点から) 派生したものです。しかし全体的に見れば それらの告発が 犠牲の過程を文化の基礎づくりの過程(* 聖と俗とから成る文化構造の全体)として十分に把握し その解明の準備をしていることは明らかです。したがってそれが 打倒しようと思っているものの解明を目ざして準備を進めている――そうとは知らずに――ことを明らかです。
(2・4・E)

すなわち 《準備》ではいけないというわけである。いわゆる近代科学・現代思想は この準備にとどまっているのだと。ただし――我田引水のごとく捉えようと思えば―― 準備であるなら そのように《愛と暴力とを区別せず混同している》ような思想も 混同ということは 愛のほうをも しっかり見ているということだと考えられている。あるいは その見る準備作業の過程にあると とらえたことになる。これによって《愛》が論証されたかどうか まだまだ分からないわけだが 《愛が問題を真に解明する》ことの 準備をすすめているのが 構造的な読みをおこなう一般経験科学のムスヒ理論だと言ったことになる。
経験思想としてあくまで語ろうとして――また語りつつ―― 神秘を容れているという議論の仕方が ここでのジラールである。
少しわれわれの言葉で捉えようと思えば 神秘――真理を見たものはいないから――をむしろ指し示そうとして 経験的なことばで語ろうとしている。このことは もしわれわれが思想の出発点に 何らかのタカマノハラ理論を持つとして そこでは ただ経験現実のみに基づくムスヒ理論だけで進むのは 客観真実といえども 部分的になったり行き届かなくなったりするとすれば そのような問題の有りかをよくつきとめており このことを提示している。また 反面で アメノミナカヌシ理論が入ってくるなら もうその議論は 上の問題の有りかの提示のみだと言わなければならないかとも考えられる。
いづれにしても 見過ごすことのできない主張内容を持ったものとして もう少しジラールの議論に付き合うこととなる。
(つづく→2007-12-25 - caguirofie071225)