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哲学いろいろ

#12

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

§3 R.ジラール著《世の初めから隠されていること》g

§3−4(つづき)

しかし西欧文化がまったく別なものを目ざして進んでいると思いこんでいるそのときに キリストはずっとまえからそのそばにいて 聖書を説き明かしているのです。
(cf. §3−1)

という言い方。わたしはこれには無理があると思う。
この叙述では 解明にあたって キリストの先行のこととこの世の社会文化の後行のこととを 言っている。そしてそれは 人間の認識するタカマノハラ理論として 一つの構図であります。構図でしかないし なくてよいし ないほうがよい。この認識や説明が 終わり=目的なのではないから。いやいや ほんとうの終わりからの読み直しを実践した結果 そういう認識と表現を得たと言うかも知れない。わたしもそれを否定しようとは思わない。ただ それは それだけ(認識と表現だけ)であるし それとしては やはり構図である。この構図(つまりは 読者に伝達されたその構図の認識》が 《ことば》ではない。

エスの死の原因は 隣人に対する愛――生きているあいだ最後までイエスの求めるものを十二分に理解していた隣人に対する愛――のほかにはありません。
(cf. §3−1)

エスが人びとを差別したのか 理解しなかった人たちには何も告げなかったのか――つまりそれは 十字架上の死によって―― といった疑問もさることながら 〔そしてわたしは このような言い方をすることが 好きではないと言ったが〕 あるいはこのような叙述のほうが むしろ 上に見た認識内容としては 現実の実践の中で 過程されたということを・過程されていくということを 主張しているのかも知れない。しかも 一つのタカマノハラ理論として 人間のことばによる説明であります。
《イエスの求めるもの》(たとえば ジラールによれば はじめに掲げた命題=《愛ゆえの自己犠牲》)を理解することと それを実践することとは 別である。それとも 一般的に言って 何かを理解したなら そして意志でそれを欲するなら なんでも人は 実践できるということなのだろうか。理解は 構図としての あるいは行為の前提としての 認識に まづ 過ぎないのではなかろうか。そうでないかも知れないが そうであるかも知れない。そうであるとしたなら 総じてジラールの議論は この構図理解という一段階を いつも 飛び越えているように見受けられるのである。
アダムとエワの原罪とその後の追放 カインの人殺しとその後の追放――そして 罪の共同自治=社会・文化が始まる―― これらが 《隠されていること》として 解明されることの第一では ないのではないか。きわめて図式的に はっきりそう言っておくべきではないか。順序が逆ではないか。また それらの解明が 第一の光と 同時にではあっても 並列的にでも ないのではないか。だから ここでは 縮小構造の人間としての始め(または 社会状態)と 最初の最初(ルウソでは 自然)との二つが つねに問題となる。ジラールは見てきたように このことをないがしろにしているのではないか。そうして それが 図式的な理解に属することを 言わない。(仮説だとは言っている)。
たしかにイエスを登場させるときには 解明されることとしての 第一に光 第二にその光に背いたこと といったこれら先行・後行の両者は 一体となったものとして 叙述することができるのかも知れない。だが それは そう言った上で わかることではないのか。
われわれは したがって 原罪を喚起せよと言っているわけではない。あるいはまるで原罪を覚えて さいなまれよとかいうことなど知らない。そうしたことがらは 事実経過として 人びとそれぞれの主観動態に属する。だが そのときにも 順序は ちがうわけである。第一に《愛》である。ことばである。真理である。ジラールもこのことを言おうとしているのではないのか。《イエスの死の原因を想え》とか《キリストがいつもそばにいて聖書を説き明かしているのですよ》とか たとえそうであっても 順序はちがうのではないか。
今の議論は ある種の見方からは もうまったく 抽象的で 不毛なギロンであるものだが その種の分野としては――そしてこの種の分野をジラールは論じているのだから―― そのこと自体が同じく図式的な理解であるとしてでも いちど はっきりとさせたがよい。
縮小構造をこえて つまり 人間アダムとエワのその以前から その《はじめ》に――聖書にのっとるかぎりで―― キリストは 存在したまうた。だが このことによって 議論しようとは思わない。同じ縮小構造の中で つまりたとえば アダムの始めから第二のアダムといわれるイエスの時までならそれとしての歴史的な一定の期間の中で 《解明するもの》がキリスト・イエスであるだけではなく 《隠されていること》すなわち《解明されるべきもの》も かれ自身であったという一つの解釈。なぜなら アダムとエワにとっても カインにとっても 《隠されていること》は 一方で――縮小構造そのものの中で―― かれらの罪(初めのうそとか暴力とか)であると同時に 他方で――というか このほうが基本的に―― かれらの内に宿る神じしんであった。キリストを話しに持ち出すならばであります。
だから お望みなら これを タカマノハラとか アメノミナカヌシとか あるいはアマテラスオホミカミとか等々 言っても ほとんどさしつかえない。あるいはまた その《ことば》は 人間に宿るのだし それと人間個人との関係(実践)こそがつねにあくまで問題とするところなのであるから 実際には このような出発点のことなど 触れなくてもよい。触れずに その結果というかその出発点からの踏み出しや進行の過程として ムスヒ経験理論としてだけ われわれは言論を展開すればよろしい。よいのだが 一点だけ注意を要すると思われることがある。それは この出発点を われわれ人間が 解明したのかどうか これをめぐってである。
たしかにそうして ここでも 人間は隠そうとしたのだから すでに解明を持っていたと言える。逆説的に すでに解明されていたと言える。
だが――次の点が 神秘的な議論になろうとも 重要だと思われるのだが―― 解明されたことの理解を 実践する力は 人間にあったのか これである。背いて隠す以前にはあったのか。隠したあとも 解明じたいを持てたのだから 実践の力も残っていたのか。
あるいはもっと単純に言って なるほど解明のことはわかるが この供犠制度となった社会の中にあっては その《ことば》を神棚にでも上げ まつっておけばよいのであって われわれは それを・つまり《愛》を 実践することなど出来ないし しなくてもよいと言うべきか。
これは おそらくムスヒ経験理論では解けない問題だと思われる。だから 無理である。無理を承知でおこないうることは 仮説理論をとおしてである。
だから またまた ムスヒ理論を基礎とするという建て前から行くと きわめてあやうい言い方を あえてするとすれば 神が 解明する主体であるだけではなく 解明するその対象も ご自身であった。その知恵・そのことば・その力によって――その力にすがってと言ってもよい―― われわれは 実践するのである。愛は供犠制度の犠牲や愛情や神聖物と相容れないというごとく その愛・つまり実践の力を われわれは 失っていたから。《信ずれば与えられる》と だから 書いてあるのである。――もちろん これに対しては ムスヒ(息‐霊)なる存在・人間存在といった推進力 これじたいに その実践力はあると言う人もいるかも知れない。したがって もう一度だから 上の議論は 単なる構図による説明である。また どちらの見解にしても ムスヒ経験思考では 決着がつかないかも知れないのだから。
わたしは ジラールは ここで結着をつかせようという考えのもとで 議論していると考えるのである。いま考察しているのは この点であり この点だけである。
図式を一応の最後まで説明しておこうと思えば 解明する主体も解明される対象も 神ご自身であったということは アダムらの生活において その人間の存在において そうであったわけである。これが先行し しかるがゆえに うそや暴力のことも 隠されようとしていたけれど 解明され かれらは 少なくとも自覚するようになる。罪が解明されることが先行し しかるがゆえに 解明する神のことが 明らかにになるのでは ないと思われる。時間経過・意識の立ち現われ方としては そうであるかも知れないのだが もしそういった順序であるなら それは 《準備過程》の作業に縮小していく。何も解明されなかったということである。うそや暴力を 罪なら罪という言葉で 捉え(そう名づけ) 認識しあうというに過ぎない。ごめんなさいと言えば すべて済むことであるとなる。悪循環が始まっても そのつど 犠牲者を出し 神聖なるものを心に思い あるいは みそぎや はらいを行なえば すべてはゆるされるわけである。永劫回帰などと言うではないかと。
準備過程というのは 先の議論内容に反していえば 何も準備していないということである。この逆説が成立しうるのは 客観真実として=理解内容としては 準備をおこなっていることになる。けれども 個人個人の自己の存在とその実践としては 何も準備していなかったということである。つまり理解じたいは エデンの園からの追放のあとのアダムの昔から すでにある。
いま言っていることは 余計なことのように感じられるかも知れないが さらにもう一節を ジラールに沿って拾って議論を進めたい。

(つづく→2007-12-30 - caguirofie071230)