caguirofie

哲学いろいろ

#11

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

§3 R.ジラール著《世の初めから隠されていること》f

§3−4

わたしは タカマノハラ原理論として そして原理論とは言っても いまここに表明するのは――人間のことばによる理論が つねにそうであるように――図式的・構造的なものなのだが 《世の初めから隠されていること》について 次のように 考えている。
それは やはり神のことば(その知恵・力でもよい)=キリスト・イエスなのだと。そして これゆえにこそ これに照らしてこそ――あるいは これに照らされてこそ―― 人びとの はじめの暴力の 社会関係的にメカニスムとなったもの しかもその経験現実的な 時に有力な はたらきかけ こういったものも 付随的に 解明されたのだと。
これは けっして ジラールの見解と異なるものではない。また 昔からの神学的な議論〔を思想に取り入れようとするときの考え方〕にも いわゆる《隠れています神 Deus Absconditus 》ということは およそ至る所に見出される。(それは 言うまでもなく聖書じたいの中にも 言われているからでもあるが)。強いてここでわたしが言いたかったことは 原理的に――つまり 時間のあとさきとしてではなく 原理的に考え方の上で―― 先行する光と後行するもろもろの解明との関係である。そして――《光》などという言い方もしたけれど―― これとしては むりそ 図解的な理論であり説明であるし あってよいと考えるのである。
つまり タカマノハラ出発点の想定じたいも 図式的であり そしてそれは むしろ すでにその出発点を実地に実践しているがゆえにであると言ったのだが じつは この実践――つまりは 真理と自己との関係―― これも 議論としては 図式的に説明する以外にないのではないか このおゆに考えるものである。ジラールのほうが たとえばいまの一つの主題である《世の初めから隠されていること》にかんする議論も 現実的というか レアリスムの筆致で 述べている。そしてだから この違いを問うて 考察をすすめたい。
上に述べた一つの解釈に固定しようとも思わないのだし いまは 行きがかり上 信仰内容に入った事項まで 口をすべらせて 思想の叙述に取りこんでしまっているしするのだが ジラールの所説の解明にあたって その一部の表現形式には わたしとしては われわれの好まない点があるという一つの見方から 批判的な見解をしめそうとするものである。
《世の初め》とは いつか。いつ 何が 隠されたのか。
エデンの園は 一つの初めであるだろう。しかし その始まるの時には 《うそ・暴力・人殺し・供犠》は なかった。あるいは それとして 神が天と地とをつくった〔という表現で述べられる〕とき それも 一つの初めであり しかしそこではまだ 人間は存在していなかった。よて もちろん 《暴力機構》はなかった。
だから とにかく 初めの初め――そしてそれが終わりでもあるもの――から ジラールとしては すべてを読み直すというのであるから しかも 具体的に解明されるべきものは たしかに 人間の世の中が始まってからのことであり それは 犠牲の問題として考えられている。それは カインによる弟アベルの殺害のとき。あるいは エデンの園からのアダムとエワの追放のとき。いや もう少し正確に言うと エワが蛇に誘惑され 善悪を知る知恵の木の実を食べ 夫アダムもエワに誘われ それに同意してやはり食べたそのとき。などが 具体的な事態である。

福音書全体を通じて 《ことば》による解明はただちに 《それを黙らせようとする》集団の意志をかき立てています。
(cf.§3−1)

というのであれば このときの具体的な《世の初め》は 明らかに 直接には アベル殺しのときなどだと考えられる。その《世の初め》から隠されるようになったと。つまり カインは《アベルを黙らせようと》したのだと 解されるからには。あるいは エワは かんじょが木の実を食べたことの罪を指摘する人を黙らせようとして そこでの人つまり夫アダムを 同じ行為に誘った。もう一つあるいは アダムもエワも そこで 自分たちの罪(禁じられていたことをしたから)が解明されることを拒もうとして 神に対して言い訳をした。《蛇がわたしを誘ったのです》とか 《あなたが与えてくださったあの女がわたしを誘ったのです》とか。
そうして カインは 《しるし》をつけられ 《自分の罪(主観の問題でもある)をおさめなければならない》ようになるし アダムもエワも すでに裸のままではいられなくなり いちぢくの葉でその身をおおわなければならなかった。おさめるべき罪 おおわなければならない〔罪の〕裸が――その後 それらが 暴力をおこなったとの結果によるものであると 何らかのかたちで 自覚され(あるいは おこなう以前に 自覚されており) 他方で そのことを解明するもの(《ことば》)を ゆえなく神聖化しまた神話化することになる。ここで 《はじめの暴力(自己の主観による自己の主観の侵害)》は 社会的なメカニスムとして 《暴力および聖なるもの》といった供犠の制度となる。その後――そのように いちぢくの葉で《隠されてい》て かつ《解明され》たのだから ジラールの議論で 《世の初め》の直接具体的な事項は こうしたアダムやカインの初めのときのことである。
このことに 不都合はないはづである。いまも このような人間の状態を われわれは受け継いで来ていると思われる。つまり 状態をである。
そして こういった直接具体的な 《この世の初め→隠されていること→解明》の構造は 一つの縮小構造であり――言いかえると 人間にとって 自然から移行したところの社会状態のことであり―― 供犠的な社会の文化構造を 消極的・否定的にしろ そのままなぞらえて 理解したものである。言いかえると 後行して解明された知識内容である。したがって 図式的に言うなら そこでは 先行する《ことば》〔と自己との関係 また 実践〕が 同時に はたらいているということである。そうすると 図解の限りでだが 上の縮小構造が 閉じられないでいられる。《人間のこの世の初め》の以前に――もしくは時間的なあとさきとしてではなく 原理的に以前に―― 初めの初めがあると 〔図式的には〕言うことができる。
しかも ここでは なおも図示的に見ようとしなければならないことには 《世の初め》も《隠されていること》も すべて――時間的なあとさきの問題でないとすれば―― 同じ一つのものである《ことば》すなわちキリスト・イエス自身ではないかと 考えられることである。世の初めは 人間にとって 時間的なことだから 時間的な存在ではないと考えられるキリストとしては その時間存在に いわゆる宿ると考えられるところのことである。ジラールも そう言っているのであり ただしわたしは この点では――この点でも―― むしろ構図のように いや一つの構図そのものとして 先行・後行の関係の問題で はっきりさせるべきだと思うことである。ジラールのように レアリスムの口調で言うことを好まない。つまりは さもなければ 構図だとはっきる断わった上で レアリスムの叙述をもおこなえばよいのではないか。
構図としては 第一に《ことば》 これが先行して 第二に――しかも時間の先後ではないから 同時に―― 人間的なこの世の《はじめの暴力》のことが 付随的に明らかにされる。レアリスムの議論のごほうが 反面では このことをむしろ 実地に描写しているとは思われる。だが そのような成功のやはり反面では その成功した叙述の明らかにしたことがらが こんどは それじたいとしての構図ないし構造を持ち始め これは一つの縮小構造となるのではないか。この縮図を 想像力で開くことは 残されているわけだけれども 議論のさいしょに 一つの図解だとこわらなかった構図世界を開くことは その想像ないし思考で開いていく分だけ 縮図を抜け出すのであって だとするならば 少しづつ世界を拡大しつつ そのつど世界(ないし主観)は 閉じている。
つまりは 終わりからの読み直しと 矛盾することになる。

しかし西欧文化がまったく別なものを目ざして進んでいると思いこんでいるそのときに キリストはずっとまえからそのそばにいて 聖書を説き明かしているのです。
(cf. §3−1)

という言い方。わたしはこれには無理があると思う。
(つづく→2007-12-29 - caguirofie071229)