caguirofie

哲学いろいろ

#149

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第三部 キリスト史観

第七章 《妻籠みに八重垣作る その八重垣を》

第四節 無感覚は健全さではない

アマアガリの時間は 身体を離れてはありえない。しかも このことは正当にも 第一のスサノヲとクシナダヒメのスガの宮が 第一の死からの復活の後――かれらの中にではなく 今度は われわれの中に――類比的にしかもそれにまさって類比的に 現われるというように 欲情(愛欲)ないし情念一般を離れてはありえない。

  • 《欲情のない生殖》とは 欲情を離れずして 欲情の船が浮かぶのでなければいけない。

基本的な命題として正当にも 次のようにわれわれは言いうる。

聖なる神の国の市民たちは 神に従って生きつつもこの世に寄留する間は恐れと願望 苦痛と喜びを抱いているのである。これらの情念( affectus )は かれらの愛が正しい限り みな正しい。


これらの心の動き 情念は善い愛と聖い愛より出るものであるが 人がもしこれらを悪徳と呼ぶならば 真に悪徳であるものが徳と呼ばれるのだということを わたしたちは認めねばならないであろう。けれども これらの情念は それが現われるべき時に現われるならば 正当な理由に従うのであるから 誰がそれを病的であるとか 悪徳であるとかとあえて言いえようか。
それゆえ 主自身も どんな罪もなかったが しもべの姿をとって人間の生活をおくるのをよしとし それを現わすのだよいと思った時には現わしたのである。主は まことの人間の身体と まことの人間の霊魂とを持っていたので その人間としての情念は見かけのものではなかった。したがって 主の福音書の中に 主がユダヤ人の心のかたくなさを怒り悲しんだこと 《わたしはあなたたちのために喜ぶ。それはあなたたちが信ずるようになるためである》と語ったこと ラザロの復活の前に涙を流したこと 弟子たちといっしょに過ぎ越しの食事をしようと切に望んだこと 受難の時が近づくにつれて心に悲しみを持ったことが記されているが これらは決して見かけのものではなかったのである。たしかに主は すでにきめられた道に従って 自ら欲する時にこれらの心の動きを人間の霊魂の中に受け取ったのである。それはちょうど 自ら欲する時に人間となったのと同じである。
アウグスティヌス神の国について 14・9)

上の文章については 口をはさむところは一点もないでしょう。たしかに ここでは主(主観の《主》とも)キリスト・イエスご自身のアマアガリの時間(しかも それは しもべの貌として人間=過程的)が表現され そのように言うのだふさわしいというほどに 孤独ないし情念が(愛欲・所有欲あるいは 喜怒哀楽が) 決して見かけのものではなく S語(身体)を排除せず しかも あの木の船に運ばれてのように ここに浮かぶのです。
この史観の原理に敵対する者たちに対してはわれわれは あの東方の学者たちが ベツレヘムの馬小屋に誕生した主キリスト・イエスを拝み見たあと ヘロデ王に報告するのを避けて 自分の国へ帰ったように 別の道をとおってこれを避けるか あるいは 主の恩恵を信じ かれの懸けられた十字架の木を意味表示するモーセの指し伸ばした手によって(出エジプト記17:8−16)(古事記では 海幸彦・山幸彦のくだりに出てくる《塩乾(ふ)る珠(たま)・塩盈(み)つ珠》――これによって 敵・アマレークを打ち負かすのである――) これを克服するかすべきです。

ところで その恐れ〔という情念の一つの発現形態〕について使徒ヨハネはこう言っている。

愛には恐れはない。まったき愛は恐れを取り除く。なぜなら 恐れは罰を来たらせるからである。恐れる者は 愛においてまったく(全き者として)あるのではない。
ヨハネ第一書 4:18)

〔しかし〕 ここに言う恐れは 使徒パウロがコリント人について 蛇のそそのかしにだまされることを恐れたのと同じ種類のものではない。そうした(このパウロの)恐れは〔アマアガリ時間の〕愛が抱くものであり 愛のない所にはその恐れはない。〔つまり先の〕ヨハネの言う恐れはむしろ使徒パウロが 

あなたたちは あなたたちを恐れに連れ戻す奴隷の霊を受けたのではない。
(ローマ書 1:31)

と述べた時のものであって これは愛の中にはないのである。
神の国について 14・9)

ここに言う《愛》はすべて アマアガリの時間を指して言っている。そしてアマアガリの時間にも 《恐れ》という情念は発動しうる。しかし この恐れは あの木の船に乗ることを軽蔑することによって生じるもろもろの恐れと そして 〔身体的なものであるなら どちらも見かけのものではなく 同じ実体であるとさえ思われてのように〕アマアガリ者にとってのそれとしては 木の船に乗るころに恐れを抱く者が(つまり 《罪を犯すならば 死ぬであろう》の状態にとどまっている者が たとい復活してもまた第二の死へみちびかれていってしまうかも知れないというとき アマアガリ者がかれらに対して抱く恐れとである。
前者は いわゆる自由からの逃避によってもたらされる恐れである。すべて虚偽から来る。後者は この恐れを恐れるそれである。この後者の弱さは キリスト者のものである。したがって つづいて

パウロの言う純真な恐れは永久に続くものである。

  • アマアガリしたとしても なくなるものではない。それは 身体を離れてではありえなかったというように。

それが未来の世にもあるならば それは自分にふりかかるかも知れない悪を避ける恐れではなく むしろ失われることのない善の中に自分を保つ恐れである。すなわち 〔神から〕受け取った善(順立関係)への不変の愛があるとき そこにはたしかに悪を避ける快活な恐れ――このような表現ができるとすれば――があるのである。というのも 純真な恐れは決して罪を犯そうとしない意志であり それは罪を犯しはしないかという弱さから来る不安によってではなく 愛の静けさによって罪を避ける意志だからである。・・・したがって 純真な恐れが存続すると言われたのは 恐れをつうじて達成される目標が存続するという意味に解されるであろう。
神の国について 14・9)

というようにである。アマアガリの時間が このように把握されるなら この快活な恐れは したがって 次のように 言うだろう。

もしかれらのある者が(つまり もっぱらのアマテラス者が)・・・もはやどんな情念によっても刺激されず動かされることがないならば かれらは本当の平静に達したのではなくて むしろ人間性をすっかり失っているのである。実際 心のかたくなさは正しさではなく 無感覚は健全さではないのである。
神の国について 14・9)

(つづく→2007-10-12 - caguirofie071012)