caguirofie

哲学いろいろ

#37

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第一章 史観ということ

第四節b 共同主観としての現代の史観

――第三原則:《主観は 精神(アマテラス概念)においてではなく 精神をとおして 自己形成される》が 史観である――
この第三原則は 一見 常識(――共同観念の常識 common sense が そのまま共同主観 common sense であるがごとく捉えられた常識――)であるようにも思われる。また たしかに人は 精神において《自由》を直視することもあれば 精神をとおして直視しようとすることもあるというのが 実際である。そしてこのことは 精神がつねに滞留するものであるからのごとく 共同主観の寄留情況には 両者とも 実際である。だから――だからと言うようにして―― この第三原則の要請するところは このような・いま現実に見られる寄留のあたかも二重構造的な形態 これを それじたい 変換せよという点にあるとなるのである。
二つの情況は 実際であるが 基本原則は 《精神をとおして 主観の自己形成が 寄留し さらには主導しなければならない》ということにある。この《自由》の史観は しかし他方で すでに歴史的に示されたがごとく 個々の自己の内的な構造の中に これまた実際である。しかし 問題は 第三原則の要請するところの実践にあっては この《自由》の史観を 個々の精神において保ち その意味で共有すればいいというのではなく 個々の精神をとおして 個々の試練の中に保ち この意味で 社会的に共同化せよ――そうすれば共同化が成るであろう――という点にある。
その言うところは この主観共同化ないしその意味での新しい共同主観(常識)は 共同観念現実への寄留形態を 個々にと同時に社会的に およぼ全体として 変換せよ・つまり 社会的には 国家という社会形態の歴史的な移行を見守り実践するまでに アマテラス者性をとおして(――それまでのアマテラス概念を用いて――) 自己のスサノヲ者性(身体をともなった主観)を 現わせ という点に尽きる。


さらにまた このことは 唯物史観などからは すでに述べられた方向と実践であると言わねばならないかも知れない。その実践の方式を異にするも この方向は ともに同じ一つのものであると言わねばならないかも知れない。もし ちがうところがあるとすれば(――そしてそれは いまはまだ原理的にではなく 共同観念的な概念構成の中においてということだが――) 唯物史観を保つ主観(主体)は その中に 唯物史観という主観を 精神において・アマテラス概念において 保ち かれらの共同主観形成と 共同観念現実におけるやはり時間的な過程とを 一応 分離して生きるという場合があることである。
そしてただしこれは やはり原理的な問題にもつながると思われることには かれらが 共同主観史観に必ずしも立たず 経験的・歴史的な現実そのものに対して アマテラス概念において(あるいは アマテラス概念をとおして でもよい) 史観を形成した結果 あるいは国家もしくは社会階級という・われわれとしては共同主観の形成に付随する第二次的なと言う歴史的な移行の基軸の問題を 直接の第一義的な問題としたことと関連するであろう点である。
もちろんかれらは 唯物論という主観こそが 第一義であって これの共同化・社会的な自己形成のk体に はじめて これら国家の歴史的な変遷の問題に移るというかも知れない。事実そうであろう。ただ ここで――まだ序論の段階であるが ここで―― 指摘することができるとすれば それは 国家ないし社会階級関係といった共同観念の現実形態が 唯物論という主観の実践過程において 歴史的に新たな形態へ移行し またそれらが揚棄されたとるするなら 《自由(自由人)》は おそらく《自由》そのものとなる・つまり そのような総体的にまったき社会的現実に向かって 歴史が 主観が 変革され移行すると説く(また 説かねばならないとしたら その)点にある。
これは 端的に言って あの《楽園》の再獲得であるかも知れない。が もはやこの今の史観としては おそらく 身体の喪失を意味するであろう。《楽園》もしくは原始共産制の新たな実現(その像)といった言わば原主観へ(つまり 《存在することが生きること》へ) 精神において 自己放棄するからである。この原主観の精神的な(理論的な)固定化は その身体をいまの精神へ放棄することを意味することになるであろう。しかしわたしたちは 原主観の原理なるお方に 自己放棄するのであった。(そういう表現になる。結果として 自己が回復され その自己を放棄することはない)。
しかも この共同主観夢の理論的な昇華形態(ないし神の国)に ただいま上昇して行こうとは思わないのであった。だから 唯物史観なる主観は 《いま》の史観としては むしろ主観の喪失を意味するであろう。《楽園》の再獲得の史観としての想定は――将来すべきことがらを ただいま経験的にも想定することは―― この《いま》の主観過程にとっては 時間的な主観の放棄である。またかれらは 確かにいまこの《祖国》を望み見ようとするのではなく これを《信じる》のであるが しかしそれは 木(十字架――原主観の死と復活――)の船に乗ってこの祖国に運ばれることを信じるのではなく この祖国を 精神=アマテラス概念においてたとえば《自由社会》という形像として信じるのだ。ここには 歴史観を語りつつ このいまの主観の動態を放棄する・歴史的ではない身体と精神がある。
われわれも 自己の主観をもはや放棄するがごとく 自己に逆らってのように 不可変的な《自由(その源)》なるお方の直視としての生を たしかにこの今 呻きつつあえぎ求めている。かの時には このお方を 顔と顔を合わせて 見まつるであろうと考える。しかし これは 身体の運動をともなった・この今の主観の 時間過程(巡礼)を通過(旅)してでなければ たどり着くことのできない相談でもあると考える。しかも わたしたちの史観は このいま その身体に 《自由の源》なるお方の聖霊を享け これを宿してのごとく そのまま からだごと そのお方の似像としてのわたしの・きみの《自由》を 現わせと命じる。かの時には まちがいなく われらが主のお顔を 直視するであろうが ただいまでは これからどうなるのか分からないのである。
そして これが われわれの言う・かのお方によって与えられた《自由》――《自由(安定)‐不自由(不安定)》連関――なのである。もっと言うならば あの《楽園》の自由と愛が ただ今ここにないとは思っていないのである。そのかぎり 主観は(――スサノヲ者性は――) われわれはこれを放棄しない。主観(わたし)を放棄しないということは 身体の喪失はこれを 共同観念に対して 拒絶するということである。身体の喪失は かのお方がそう命令するのでない限り そして現代では いにしえの聖徒たちに課された・身体の放棄にまで至る《おのれのすべてを献げる》ような愛の実践は 命令されないであろう。そしてこの身体のまま永遠のいのちを与えられることを約束されると言われる。だから 身体の喪失は これを 共同観念に対して 拒絶する。
身体を放棄しないということは 《楽園》がいま獲得されるということである。身体を放棄しないも 肉の人としてではなく 霊の人として生きるときにである。(霊とは 現実またその直視ということである。また 寄留であるかぎりでは それへの信仰である)。唯物史観者は たしかに《楽園》を思い そのかぎりで原主観を見つめそこにとどまっている。しかも《祖国》を思い これの地上の国での歴史的な前進過程を問い求める。がそれは 《肉の人》としてでなくとも むしろ《精神において》であり しかしこの精神は まさに唯物論として 《肉》と同じものであり したがって 《精神において・理性にしたがって》ということは 《肉にしたがって》と同じように 《人間にしたがって》祖国への史観を問い求めている。
またこの《人間にしたがって》とは 独立して完結するとも言うべき一個の個体の主観夢においてというよりは 《社会として》である視点が支配しているということであり このとき《社会として・人間にしたがって》は 経験的な共同観念夢の世界のなかでそのまま ということに等しい。
だから 国家ないし社会階級関係に第一義的に関連させて 社会歴史的に 人間の目的(自由。精神の視像によるその直視と社会的生活)が やがて獲得されるであろうとする史観は このただ今の主観の放棄であると思われる。このただ今の《自由‐不自由》連関ではなく 精神的に時間を超えて それを《未来としての自由社会‐現在の階級的不自由》連関とするからである。それは 共同観念形態への寄留が終えられてのごとく この現実形態に対する共同主観の社会的な主導性が 社会歴史的に やがて 獲得されるであろうという意味だとわれわれは考える。
しかし このような経験的な過程――その先取り――は 共同主観の自己形成にとって 第二次的であり また 共同主観の主導性を主張しているという限りでは それは いまも常に主観夢において獲得されているのである。〔《主の霊のあるところに 自由がある》(コリント後書3:17)〕。いまこれが 獲得されているのでなければ――つまり スサノヲ者の生産力として ただ隠されているだけなのでなければ―― 将来においても 実現されることはないであろう。この意味において いわゆる共産制社会の像の精神的な共有は いま どうでもよいとさえ言えると考えなければならない。だから 《真理が きみたちを自由にする》(ヨハネ8:31)と言われた。
第三原則の要請するところとして 以上のように。
(つづく→2007-06-22 - caguirofie070622)