caguirofie

哲学いろいろ

#38

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第一章 史観ということ

第五節 第三原則への註解

――精神においてではなく 精神をとおしての直視による自己形成は 身体を保持した《霊の人》となるように方向づけられる――
前節に述べた第三原則への註解として 第一部の付録四の註(§36)に述べた《ガラテア書にかんする註解につづいて やはり 《霊の人》の概念を共同主観しておかなければならないと考える。
身体を放棄しないで この今 人間の知解の薄暮において(薄暮であるから われわれはあの光へ確かに自己放棄するかたちなのだが) おぼろげながらも われわれの目的とする視像に達しうると言うのは 当然のごとく 経験的な共同観念現実に根をおろす《肉の人》からの出立を措いてほかには考えられない。
パウロはすでに言った。《共同主観者は 肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです》 また 《この共同観念世界は〈わたし〉にとって わたしはこの共同観念世界にとって はりつけにされているのです》。
この《肉の情念において――身体の運動を保持しつつ―― 死ぬ》という 主観の生きた内なる構造を アウグスティヌスは 次のような表現で考察する。少し長いが この一点にしぼって ここでは 第三原則の主張を補っておきたい。

〔この後でさらに〕主はモーセに言われる。

  • モーセとは 律法を与えられた共同主観者である。

あなたは私の顔を見て 生きることは出来ないであろう。なぜなら 人間は誰も私の顔を見て 生きることはないからである。

また主は言われる。

見よ 私の傍に一つの場所がある。私の威厳がそこを通り過ぎるやいなや あなたは岩の上に立つであろう。私はあなたを岩(――堅固で安定した《自由‐不自由》連関――)の頂上に置こう。私が通り過ぎるまで 私の手であなたを蔽うであろう。私が手を除けるとき あなたは私の背面を見るであろう。私の顔はあなたに現われないであろう。

出エジプト記33:20−23)

われらの主イエス・キリストのペルソナから 《かれの背面》は 処女マリアから生まれ 死に 復活された かれの肉として受けとられるように予表されている とよく解釈されるが それは不適当ではない。イエス・キリストの可死性(人間性)は神性の背面であるゆえに また かれは世の終わりに すなわち より後になって受肉するように定められたゆえに より背面(うしろ)であると言われたのである。しかしキリストの顔は神の貌(かたち)であり キリストはこの貌において父なる神と等しくあることを強奪物と思わなかったのである(ピリピ書2:6)。
誰もこの顔を見て生きることが出来ないのは確かである。またこのことは 私たちが主から離れて巡礼の旅をしており さらに腐敗せる身体が魂を圧迫している(知恵の書9:15)この生の後に 使徒パウロ)が言うように 《顔と顔を合わせて》(コリント前書13:2)観るであろうことを意味している。(〔この注釈は原文のもの=〕この生については詩編

しかし 生ける人すべて空しい。(詩編38:6)

また

あなたの御前にあっては生けるものすべてが義とされないであろう。(同上142:2)

と言われる。またヨハネによると この生において

私たちが将来どうなるのかはまだ明らかではない。しかし 私たちは知っている。キリストが現われるとき 私たちはかれに似るものになるであろうことを。私たちは かれのまことの御姿を観るであろうから。(ヨハネ第一書3:2)

このことはたしかにこの生の後 私たちが死の負債を支払って 復活の約束を受領するとき 理解されることを示そうとしたのである)。
あるいは この《神の背面》というのは 万物の創造者の根拠である神の知恵を霊的に深く理解(知解)すればするほど 私たちは肉の情念に死ぬであろう かくて この世は私たちにとって死せるものと評価して 私たちも この世に対して死ぬ 使徒と共に 《世は私にとって十字架につけられた。だから私も世に対して十字架につけられた》(ガラテア書6:14)と言おう ということを意味するのである。この死については 使徒はまた

もしきみたちが キリストと共に死んだのであるなら どうして なおこの世から生きている者のように思念(おも)っているのか。(コロサイ書2:20)

と語った。・・・
アウグスティヌス:三位一体論2・16−17〔28〕)

このような主観の生きた内的構造においては――つまりそれは 肉の人としての死が克服されるほどに その内的な構造において―― 《すべての知恵と知識(視像と知解とそして愛)は キリスト・イエスにある》と言われるのは正しいとわれわれは考えるのである。

主が私たちを殺そうと思われたのならば これらすべてのことを私たちにお示しにならなかったであろう。
士師記13:23; 《パンセ》13〔827〕)

かれの身体 神性の背面としての人間イエス・キリストは その霊的な《神性‐背面(人間性)》構造の似像である理性的な《自由‐不自由》連関の主体にとって 停滞して眠れる平面構造的な《禁止と自在》の倫理的な範型であるとか その意味で律法であるとか――はたまた ホモ・エコノミクス ゾーオン・ポリティコン等々といった範型であるとか――という人間のそれぞれ経験的な普遍概念であるアマテラス者像(その視観)には なじまないものであって 神の生きた律法としての《自由》主体・真理の謙虚なる模範(道)なのであると言われるのはただしいとわれわれは考える。
預言者モーセは かれが律法に関連するかたちであろうがあるまいが この模範につづく共同主観者のわれわれの輩(ともがら)であると考えるのは ただしいと思う。共同主観の・試練(われわれは つねにこの試練を与えられる)をともなった自己形成の過程が この《道》につうじると考えることを妨げる道理も謂われもないと思ってよいと思う。《われわれは肉の情念に死ぬであろう》 身体を保持しつつ・この身体のままで 霊的人間となって生きるであろう ということを 《神の背面》たる生きた模範が 聖霊とともに約束なさったということを信じる(愛する)ことは 共同主観の内的構造の自己訓練にとって 歴史的な過程そのものを形成して 有益であると思う。少なくとも 物質の運動過程を信じる(知解してしまったかのように 愛着する)よりは。

だから 誰も御顔 言いかえると 神の知恵の顕示そのものを見て生きることは出来ないであろう ということは道理のないことではない。実に この御顔は 神を心全体から 魂全体から 精神全体から愛そうと切望している人みなが観想(み)ようと喘ぎ求める光輝( species )である。
自分自身のように隣人を愛する人は この光輝を観想するために あたう限り隣人をも啓発するのである。
(三位一体論 承前〔2・17〕)

ここに そしてここ以外のどこでもなくここに 主観の共同化(これを 第一部では論じた吉本隆明のように 共同観念的な世界の倫理の極限化ないし実践ととることを思ってはならないと考える・倫理とはこの世のものである)を しかも新しい時代を切り開くべく 過程させなければいけない。倫理とは この世の範型でもあるのだから 共同主観者は 時にこれを尊び 時にこれを用いてもよいし主導するのである。そしてこれもあれも 第三原則の内容であった《精神においてではなく 精神をとおして 直視する》人にこそ訪れる共同主観の現実過程なのである。
誰も お顔(真理=自由の源 その視観)を見た(知解した)と思ってはならない。それは たとい見たとしても 《精神において この世のアマテラス概念において》見たと思ったのである。しかしわれわれは 《この世のアマテラス概念をとおして・精神をとおして》 かのお方の顔を観想しようと喘ぎ求める。予感しつつ受けとった愛(聖霊)が あえぎ求める不安定の中の《自由》を 主観の内的な構造を《岩》とするごとく 堅固にしたまい われわれは霊的人間(神の子。そしてかれに似るであろう人間)へ変えられる。
このことの過程的な動態をほかにして 第三原則は 成り立たないように思われる。



また 《しかし 生ける人はすべて空しい》と言われるこの生は そこにおいて 神直視がかなわないゆえに 同じそこにおいて・この身体のまま それが約束されるほどに 永遠のいのちを受領するとしかわたしには考えられない。この生の後のことを 主観・史観において あえて持ち出す必要はないと思う。物質の運動が 永遠〔というなら永遠〕であるほどに わたしたちのこの生は 永遠ではなく 神も永遠に主でありたまうのではない(三位一体論5・16〔17〕)からである。
信仰つまり 神が主でありたまうことは 時間的に生起するのである。唯物論を知解し これを主観が史観として受けとったというときも 類型的には同じように それは 時間的に生起している。ただ 精神において たといそれを見た〔と思った〕としても 史観の中に格別あえて持ち出す必要はない。むしろ 精神をとおして この時間的に生起した主観・信仰を このいまの生が受け取りうる範囲において 主観の内的な構図の道ゆき・形成を 史観として述べ これの共同化を欲する。(マルクスの言うコミュニスムも そもそも これであった)。《この生の後には 私たちが死の負債を支払って わたしたち自身の復活の約束を受領するとき 〈私たちは かれのまことのお姿を見るであろう〉ことを 理解する》ということで 十分だと考える。
《あなたの御前にあっては生けるものすべてが義(ただ)しいとされないであろう》と 本質として。原理的に〔のみ〕言われるこの生においては 《神の背面――ただし それは神である――》が われわれの《道》であることで十分ではないだろうか。(だからと言って その根源は 物質に還元されるであろうとは思わない。なんなら この物質〔の探究〕をとおして 真理なるお方を見ようとしていると言おう)。
《しかしその背面であるキリストの顔は神の貌であり キリストはこの貌において父なる神と等しくあることを強奪物と思わなかったのである》という模範は 神の本質の仲保者であられるゆえに。だから この《神の背面》なる道を歩むとき わたしたちは 同じ身体を保持しつつ 肉の情念に死ぬであろうと言われるのであると思う。《キリストは 神の背面であり しかも 神の貌であり この貌において父なる神(《自由の源》と等しくあることを強奪物と思わなかった》という模範に従うとき われわれは この〔《自由》を得させる〕聖霊の宿る神殿としての身体となって 生きた主観とその共同化の過程を――その共同化への霊的な力が与えられてのごとく―― 歩んでゆく以外にないのだと思う。
第三原則において もし将来すべき過程として考えられることが存在し それを述べるべきとすればそれは このようであると考えられるのである。
(つづく→2007-06-23 - caguirofie070623)