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もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513
第二部 唯物史観への批判
第一章 史観ということ
第六節 共同主観者にとっての現代の史観
――第四原則:史観は 主観の共同化の過程である――
第四原則は 主観の共同化という問題である。これまでの原則が 共同化にかかわりなかったというのではない。主観の自己形成(――そしてそれは より適切に 神の愛という事柄として捉えられる。信仰のもとの自己形成ゆえ――)の観点から述べたということであり 次には 同じことを 主観の共同化の観点(――隣人の愛――)から 一定の原則を考察しておきたいと思う。
まづ 主観の霊的な自己形成が その同じ〔訓練の〕過程で 主観の霊的な共同化をなすとしたなら(――《父よ あなたがわたしの内に居られ わたしがあなたの内にいるように すべての人びとを一つにしてください。かれらもわたしたちの内にいるようにしてください》(ヨハネ17:21)――) その新しい共同主観は いかなる形において 問い求められ実践されるか。
おそらく 霊において 自己と他者を愛するということは(――人間が互いに一つのものとなるためにということは / 一つの精神でも一つの身体でもなく 真正の《異和》関係にあるためには――) 共同観念の現実行為をつうじて この現実領域からの互いの出立(自立)の姿を ともに求めるという行為の中にあるだろう。卑近な例から言っても 人が人を好きになるとか嫌いになるとか あるいは特に好きでも嫌いでもない関係にあるとかということは かれの些細な癖までを含めて かれの実際の行為のやり方(形式)を見て これを自己のもとに捉えたというところから始まるであろう。
だから 主観の自己形成も共同化も この現実行為のかずかずの中にあって この現実行為の観念ないし理念との関係を 自己の内的な構造において どう形成しどう保つか またどのようにその自己を伝え合うかの中にしかない。
《この世はわたしたちにとって死せるものと評価して わたしたちも この世に対して死に・・・》という主観形成(――なんなら 神の国――)は 国域を重ね合わせてのごとくあるもう一方の《地上の国》つまり共同観念の世界において 問い求められる以外にない。《この世は私にとって十字架につけられた。だから 私もこの世に対して十字架につけられた》というのは 同じ共同観念の世界において同じその世界から 出立する(実存=共存する)=その世界に主導的にも寄り留まる=その世界の肉の情念に死ぬ=その世界に自由に生きる=その世界の霊的存在となる=ただいま至高の霊的存在である神の奴隷となる=有限なる存在(身体・精神)において永遠のいのちを与えられてのように生きる=主の栄光を人間の栄光としても自己の姿をとおして現わすことを欲する(神の国の栄光が この地上の国において見得る栄光となるため)という 《道》の倣いである。
また この道のならいが 現代において 共同観念形態の一つの基軸としての国家の様式の再編成にまで及ぶことであると考えた。
要約すると 第四原則は みづからの《道》の倣いによって 《道》そのものの栄光を現わすということ そこに主観の共同化とよぶべき道を問い求めるということ になる。
だから われわれの主観共同化の実践は 自己の主観形成が このただいまの地上の国に――身体的に根ざすことにおいて――そのまま〔それが 他者の愛(各自にその持ち分を発揮させること)となるごとく〕道を伝えることになること その・つねなる生きた理性的な歴史にある。
それに対して 一般に史観は そして殊にいま問題とする唯物史観は 自己の主観善t内の形成においてということではなく 主観の中の普遍的な概念形成(思想)そしてその概念体系(科学)において またこれら理性的な思想および科学〔とその成果〕を互いに共有することにおいて さらにそして この思想および科学の要請するところを たとえば社会階級関係の揚棄 国家形態の新しいかたちへの移行といった場において 実践しこれを実現するなら そのあとで・やがて 自己の主観の全体(人間)が変わり 新しい主観共同化のかたちが 社会的に成り立つという展望を 言わば不動のものとしてのように 所有していると思われる。
わたしは このような主観の〔内的な構造の〕段階的な構成と展望は 主観を成立させていないと思う。主観を放棄しているものだと思う。共同観念形態の歴史的な移行を――これを理性的な精神において捉え保ち―― あたかも この今 主観の内なる内実であるかのように思っているにすぎないと思う。なお共同観念的な客観を(――なぜなら 精神のアマテラス概念において捉えられたものは 普遍的・客観的だから――) そのまま 主観とし それが 史観なのだと 主張している実践の一方式であると思う。わたしたちの史観は わたしが史観なのだと 道を歩みつつ 自己形成する過程そのものにあると考える。わたしたちの史観は 主観の理性的な全体が――あたかも 一冊の書物となってのように そしてそれを読むことによって 共同化される――それであると言う。かれらは その史観は 主観の理性的な知解(思想および科学)が 歴史に対して要請するところの(ないし 歴史によって要請されるところの)実践において成り立ち それがその全体であると言うことだと思う。
わたしたちの史観では 主観の自己形成=共同化が 何らかのかたちで 歴史に対しても要請するところを持つのだと考える。かれらの史観では 主観が 思想および科学となって――タシカな科学的な・歴史に対する認識と実践の要請をもって はじめて それが史観となると考えているのだと思う。ここでは 主観と史観(これは 主観の共同化と言いかえることができる)とが 二段構成になっていると思う。そのかぎりで 主観の放棄(または 切り換え)をともなっていると考える。
だからわたしたちは 主観の共同化は――そして殊にその意味での史観は―― 理性的な精神そのものにおける思想としての・科学としてのヴィジョンの共有にあるのではなく また たといこのヴィジョンが正しいものであたとしても そのヴィジョンの共有からもたらされる歴史的な実践にあるのでもなく ましてや 過去の歴史としての共同観念秩序(たとえば 国家形態による共同自治の様式)のもっぱらの保守的な実践の協働にあるのではなく 主観の全体的な自己形成の(――理性による霊的な自己形成 としてのそのものが史観であるところの――) 視観としての共同・共同なる視観(ヴィジョン)にこそあると考える。
身体全体が主観となって自己形成する人びとの・視観としての共同が それに付随してのように 現実の共同観念形態の時代に応じた変革を要請するものだと思う。――だから これに対して 唯物史観者は そのような変革を 思想をつうじて・つまり思想や科学を知解の道具として用い 実現させるのだと言うとするなら わたしたちは そのような意味での思想・科学は 究極的に 必要不可欠のものではないと言おうと思う。
だから そのことによって 思想・科学も用いられるのだと言おうとする。
これを 第四原則としたい。
身体全体が主観の全体となって 史観を構成し現わすということ これは 第三原則の《精神をとおして 自己を直視する》ということの結果でもある。《精神において あたかも部分的に自己を知るごとく 知り得たもの(アマテラス概念・思想・科学)》は 史観をそのまま構成・形成するのではなく ただそれを 言葉として 史観と呼んでいるのだということになる。人間という史観の理性的な形成と 史観の人間による理性的な概念形成とである。
後者を 精神において保つ人は 自己を精神は部分的に(たとえば この思想・科学による史観において)知り 部分的に(たとえば 医学において)知らないと言うかのごとくである。前者・すなわち 精神をとおして自己を全体として(史観そのものとして)知るということが 史観においても・医学においてそのすべてを知るという意味ではない。共同主観は 精神をとおしてすでに自己を全体として知らなかったわけではない。そして愛さなかったわけではないということを指摘しているのである。
歴史学と言い 医学と言い これらは人間の経験的なものにおける自己認識である。しかし 精神をとおして(もしくは 精神が) 自己を知るというのは――むしろ このときも 経験的なものごとの知解をとおしてだが―― そのことが 精神は自己を問い求めているのだということを内容とするほどに その問い求めている自己じしんを精神はすでに全体として知っていたのだということを意味する。だから 自己ないし精神もしくは 主観の内なる構造は 決して歴史学や医学やその他の経験科学のすべての集大成として はじめて知られうるということにはならない。だから 精神は(もしくは 精神をとおして)自己を問い求め始めるとき 人は すでに自己の史観そのものを形成し始めているのだ。
そして この自己形成そのものとしての史観の共同化は 史観そのものである自己の愛に始まる。精神においてよりも 知解行為とその成果よりも それらの愛に始まるとこそ言うべきである。他者を自分自身と同じように愛する人は 自己の身体の運動そのものが 人間の歴史であることを欲し これを問い求めている。それまでは 自己がまだそこに寄り留まっていた共同観念の現実を 今度は 捉え返し 寄留を揚棄するようにして 同じくそれらを用い主導しつつ歴史に変革する(または 自己が変えられる)ことが この愛(史観の共同化)から生まれ起こるということ。これが 史観の第四原則である。
(つづく→2007-06-24 - caguirofie070624)