caguirofie

哲学いろいろ

#40

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第一章 史観ということ

第七節 第四原則への註解

――主観共同化は 実際に言って 《S圏(ヤシロ)》にその基盤がある――
主観の内的な構造は 《スサノヲ〔者性〕‐アマテラス〔者性〕》連関が 基本でありました。《スサノヲ》は この生において まったく不安定な 個また《わたし》としての人間の存在であり しかも 次のようにして 《スサノヲ―アマテラス》連関者として 不安定の中の安定 不自由の中の自由なる社会主体となって 自己を共同主観者として知ります。すなわち 自己の内なる普遍概念=アマテラス者(それへの視観 つまり 精神)をとおして これの知解行為(視観からの視観)と これら両者(精神と知解と)を この生の善へ向けて つなぎ合わせて 身体の運動へと運ぶ意志ないし愛の行為(自己経営の一定の形式) これら三者(三つの行為能力)の時間過程的な一体性(齟齬をともなう一体性)において――もう一度いいかえるなら 精神(記憶)と知解とそして愛との総合的な自己形成において―― 平安と自由の源を問い求め 見出してのように。
つまり 《アマテラス概念》による理論形成(いわゆる学問)が 共同主観であるのではなく これを 人間の有(もの)として行為する《わたし》=スサノヲ者が 共同主観〔者〕つまり史観そのものであるというふうに。
いかに精緻な各分野での理論を発見したとしても またこれを自己の知識として自己の有としたとしても 《わたし》全体の主観が 史観を形成していなかったとしたら それは 共同主観とはなり得ません。それは まだなお 観念(思想)共同であるか あるいは 枠組みとしての共同観念形態の中での理論(観念)共同であるのです。
もちろんそのとき その思想家・理論家の《わたし》は 当然のごとく とこかへ忘れ去られているというわけではないでしょう。ないでしょうが おそらく 考えるに この科学者は 自己をすでに 《アマテラス概念》という観念(形相)によって アマアガリ(天上がり= スサノヲのアマテラス化)を為し終えてのように 《もっぱらのアマテラス者》としてかれの《わたし》を想定してしまったことになるのです。かれは 自己の《スサノヲ者》が ほんとうの史観としての《わたし》であるように自己を愛するのではなく 《アマテラス概念》による史観(思想)が 《わたし》でありとして 自己を知っていると思いこむのです。
これは 身体を保持しつつ 肉の情念に死ぬことによって スサノヲが真にアマテラス化する(――つまり どこまでも《スサノヲ‐アマテラス》連関としての霊的な存在へのアマアガリを欲する――)というのではなく 身体をあたかも一たん放棄してのごとく 経験的な肉の情念を(経済行為もここから始まるかのごとくを)理論づけることによって この理論に拠って アマアガリを行なう。それは あたかも自己の精神の同一に留まるために 依然 スサノヲ圏(ヤシロ)に住みかを問い求めつつ見出し ここに生きる人びと(スサノヲ者市民)が 共同観念の社会形態において 《身体》の部分を担うと言うかのごとく その他方で かれら自身は アマテラス概念そのものに寄り縋るかのように このS圏(ヤシロ)の上部に 自己の本来の住みかがあると言うかのようにして その上部圏の住人となる。
つまり かれらは ほんとうは人間の祖国の似像であるヤシロから アマテラス概念という自己の中心性によって 自己が神となる(アマアガリする)と思いこみつつも そこへ放逐されるというようにして この第二次的な領域つまりアマテラス圏(スーパーヤシロ)の住人となってゆくのです。そのような自己拘留者となります。かれらは 自己の魂の弱さによって 自分たちの住みかであるA圏を S圏に対して 公民圏として一般に権力の強力によって 自己を防御するとしつつ S圏を 社会形態的な《身体》と為すとするならば 自己のA圏を同じく《精神》とでもするというように この社会形態を 《S圏(ヤシロ)‐A圏(スーパーヤシロ)》連関体制という共同観念へ渡すのです。
またこれが 国家形態であったにほかなりません。(封建市民の時代には それぞれの領国・藩が ミニ共同観念とでも言うように《S圏‐A圏》連関形態を採らなかったとは言えないというように)。
共同主観は 当然のごとく この地上の国に寄留しているものでした。だから 神の国は この地上の国の全体つまり《ヤシロ》に芽生えることを その史観の基本とします。《やしろ church 》は 全体的な共同観念形態つまり 《ヤシロ ecclesia ‐スーパーヤシロ》連関現実であり 共同主観がこの《やしろ》から 自己を現わすというとき 個体としての人間が 自己の精神をとおして そしてそれは 社会形態としては この《やしろ》という鏡をとおして 自己を知解し愛しつつ 自己形成するという過程の中にあるものでした。
そしてそのとき 個体としての人間が 神の似像であるほどに 《やしろ》が萌芽としてにせよ 神の国(主観共同化の成立形態)の似像であると考えるとすると それは 当然のごとく 《ヤシロ(S圏)》にその基礎を求めなければならないであろうと考えます。
もちろん 個体の主観構造が 《スサノヲ‐アマテラス》連関であり 《やしろ》の構造が 《スサノヲ圏‐アマテラス圏》連関によって成っているとすれば 神の《神性‐人間性(神の背面)》一体の構造は この《やしろ》の全体つまり共同観念形態の全体であると 類型的・仮象的には 言わねばならないようでありもするのですが これは しかし 蜃気楼(共同観念そのものの視観としての幻想共同)であるのです。
《S圏‐A圏》連関なる国家に 意志・愛はないからです。また もしこの国家の意志は A圏・社会科学主体であると言うとするなら そのときには しかしかれらは 自己の同一に留まって自己(つまり 《S者‐A者》連関主体)を愛するという意志を 自己の《A者性》=アマテラス概念なる部分を気遣いつつこれに自己が独占されるごとく愛するかたちで すでに放棄したではないかと 答え返さなければならないでしょう。アマテラス圏の住民に 理論と その意味での史観はあっても 史観を歴史的に(時代ごとの可変的に)自己形成してゆく意志と力はなく ここに 主観共同化の実践の萌芽を見出すことはできません。
アマテラス圏の存在は 共同観念・倫理的な罪の共同自治の主宰者としてある限りのものであり これを なお一つの拠りどころとしては 権力の強力によって存続させて存在する楼閣なのであり もしそこに意志・愛があるとするなら それは S圏の意志を 仮象的に(集計概念=アマテラス語として) 反映させた場合においてにしか過ぎません。しかも 主観共同化を目指すスサノヲ者は 自己の内なるアマテラス概念をとおして為す自己形成および 共同観念形態としての《やしろ》の再形成・再編成については A圏の住民つまり《もっぱらのアマテラス者》である人びとの理論と史観とを 自己の主観の内において 用いなければならないのです。
この地上の国のどこか外に アマテラス概念があったり さらには共同主観でさえもがあったりすることは ないからです。このような主観共同化を行ないうる人びとは 原理的に スサノヲ圏にとどまって 自己形成する人びとである以外になく その社会形態的な基盤は 当然のごとく スーパーヤシロにではなく また必ずしも《ヤシロ‐スーパーヤシロ》連関の全体にでもなく 正当に 《ヤシロ(S圏)》にこそ しかもその全体として あると問い求めざるを得ないと言うことができるでしょう。
第四原則は 主観共同化をあつかって 基本的には あくまで主観の自己形成・しかもその霊的な自己形成過程における他者と自己の愛を 主張したのでしたが これに対してその補整的な過程は 上の主張つまり 共同観念形態の全体である《S圏‐A圏》連関の中で 基本的に 《S圏(ヤシロ)》〔としての《やしろ》総体〕の内に 社会的な主観共同化の基礎を見出すべく問い求めて行く必要があるという主張 ここにあると思われます。
したがって たしかに 国家形態の移行も 同じくその補整的な過程を為すのですが このように言うときにも 第一に 霊的な主観共同化を基本として自己の全体を史観となすということ。第二に これを実行するに 《ヤシロ(S圏)》を本質的な基盤とするということ。この原則の中で 言わば第三の補整的な過程として それ(国家形態の移行)は問い求められてゆくであろう。このように主張したいと思うのです。
しかし これもあれも 第一原則から考察してきたように そして殊にはこの第四原則の第一義として省察したように 或るひとりの人間が 理性的な理論をたずさえてこれに拠って生きるというのではなく 理性的な史観そのものとなって 自己形成(――それは自己と他者との関係形成でもある――)しつつ 生きるということ このやはり原点をほかにしては 議論するにむなしいものとなると考えるからです。また 身体全体の主観形成の全体が 史観そのものとなるという過程は これを われわれの言葉で 上に見てきたような意味から スサノヲイスム susanowoïsme (もしくは 共同化の意味あいを込めて インタスサノヲイスム intersusanowoisme )と呼ぶことにしたいと思います。
そして これには 《ヤシロ(S圏)》が基盤であるという第二義は すでに触れていたように 《ヤシロ》の一定の社会集団である自治態勢(ムラ mura )および生産態勢(イエ・キャピタル ihé-capital ) そしてそれらの連合を基礎とするということであり その意味でこれを インタムライスム=インタキャピタリスムと名づけることにしたいと考えるのです。国家形態を新たなかたちへ移行させるという第三義は したがってこの第二義を 社会的に前面に押し出しつつ共同化する過程で そこに付随するものと考えたいのです。いま つまり具体的には A圏主導の《A‐S》連関体制という共同観念形態から S圏(インタムライスム=インタキャピタリスム)主導の《S‐A》連関形態へと移行するという展望と方式とであります。
また 主観の自己形成は このとき 個体〔関係〕的なインタスサノヲイスムを 《愛》の行為として 次に S圏におけるインタムライスム=インタキャピタリスムを 《経営》行為として そしてさらに このS圏の上に何らかのかたちで新しく衣替えしたA圏をのっけて S圏連合主導による《S‐A》連関形態という共同自治の方式を 《政治》行為として それぞれ 原則の下位にある政策的な分野として概念づけておきたいと思います。
これらの分野の言葉じたいは 固定的なものではないのですが これら個体および社会の全体的な過程で 下位概念として《愛・経営・政治》の三つの領域があるというときも それはあくまで 原則としての上位概念である過程すなわち 主観共同化の《愛》が基本であって むしろすべてはこの主観の自己形成が担うとさえ 原理的には 考えられることが 重要だと註解しておきたいと思うのです。

  • 社会的な問題・矛盾が 個人にその責めが帰せられるということではなく 責めは個人の主観形成には帰せられないであろうからこそ その反面で もしくはその根底で 主観の自己形成は 或る種の仕方で独立的な存在を形式化するであろうと思われるということです。

第四原則は このようであり 現代の共同主観者にとっての史観として 語るべき原則的なことがらは 以上の四つにあると考えられます。
(つづく→2007-06-25 - caguirofie070625)