caguirofie

哲学いろいろ

#41

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第二章 史観が共同主観であるということ

第一節a 四原則のまとめとして

(1)主観は 時間的にして可変的すなわち 歴史的である。
(2)ただし これまでの歴史において 人間の主観は その内的な構造としては 人間の精神の同一の知恵に留まろうとして 必ずしも可変的・無常のようなものではなかった。
(2−1)われわれの立ち場は 人間が 三行為能力の一体性を持つことにおいて 三位一体なる神の似像であるという点において この主観の内的な構造(つまり 《精神(記憶)‐生産(知解)‐愛(意志)》の三行為能力)は必ずしも歴史可変的ではなかったと考える。これが 人間という一生物種である。
ただし 次項の《自己認識の内容》という点にかんしては 可変的であるだろう。それは 《種が変わる》と表現するほどの変化をも許容すると考える。
(3)可変的な主観は 必ずしも無常・停滞的なものではない主観の内的な構造において その具体的な――そしてそれは 社会歴史的な――自己認識の内容である。
(4)これは 歴史のそれぞれの段階(時代)における・それに固有な一定の共同主観(常識)である。
(4−1)むろんこの社会歴史的な主観の可変性は 基本的には 一個の個体の一生涯という主観の歴史が 栄光(共同観念の支配的)から栄光(共同主観の主導的)へ変えられるという基軸の回転をもとにして考えられたものである。
(5)この意味の共同主観は それとともに人間の自己認識の内容が変わるというほどに 少なくともこれまでの歴史においては 四季の移り変わりのごとく〔しかも必ずしも循環しないかたちで〕 新しい主観が時に突然変異してのように現われ 変化するということがありうる。
(6)つまり共同主観は 自己の衣替えを為す。
(7)共同主観の歴史的な系譜は そのつねに現在の過程において捉えられて 史観を為す。
(8)ただし この共同主観にかんして 史観の原理が変化してゆくとも考えられない。
(9)自己の同一に留まる人間の知恵の愛が その史観の原理(はじめ)である。


(10)以上のような点から言って まづ共同主観は 共同の( communis )主観というほどに これを成り立たせるはじめの力(知恵)は ひとつであると考えられる。
(10−1)ひとつなる原理は 真理とよばれる。
(10−2)真理は 不可視的である。また 不可変的であろう。
(10−3)ひとつなる主観の原理にもとづく共同主観は――真理の 人間的な力による知解が しかしまだ 部分的であると言われるほどに この真理を人間が むしろ見えないかたちで分有してのごとく―― 主観行為の自由つまり愛(つまり 経営・政治=共同自治)の自由というその過程に即して 問い求められ観想され理解されると言うべきであろう。基本的には。
(11)史観は ここで問い求められる。言いかえると ひとつの史観の原理によって成り立ってであり この原理すなわち真理の 知解によりは それに属(つ)くこと・すなわち真理の愛によって 史観は生きる。
(12)真理の愛が 史観として生きるとき この史観ないし共同主観を 人間は理性的に 知解しないわけでは無論ない。
(12−1)或る者は これを 一日の変化・四季の移り変わりそのものを捉えてのように 人間の可変性・可死性(そしてその視観)にもとづき 無常という原理であると考えた。つまり 無常(質料そのものの可変性・壊敗性)という一種の不可変性であると考えた。しかしこれはただ この世のものでしかない。なぞっただけである。
ところが 無常(それの まさに 常住)を想定する人びとこそが この此岸から彼岸を希求してのように 死者たる人間の世界をも 同時にもう一方で 想定した。またかれらは この彼岸性の領域の此岸的な形態として 社会的にアマテラス圏を 分離させ独立させ絶対不可侵の領域として 形成しこれを保守しようとする。スサノヲは アマテラスの弟なのであるというのに。
かれらは 史観の原理を正しく直視しないことによって スサノヲ圏の住民としての無常や死の恐れに耐えられないのである。記紀神話において スサノヲをタカマノハラ(A圏)から追い払ったというとき かれらが 共同主観の基盤領域であるS圏から みづからを放逐したのである。かれらは 魂の弱きによって 日常性に耐えられないのである。非日常性・彼岸性の宗教的な設定 すなわち もっぱらアマテラス語による共同観念によらなければ 生きていけない。
かれらは 権力の強力によって この共同観念形態ないしみづからの圏を 保持する。スサノヲの後裔であるオホクニヌシが アマテラス者(ホノニニギのミコト)に 譲歩し 《国譲り》をしたというのは S圏(S者)のA圏(A者)に対する或るあわれみのかたちである。それによって S者は この共同観念現実に寄留し 地上的に罪の共同自治を行なうというやり方である。これも一つの人間の栄光である。
(12−2)また或る者は 昼と夜 季節の変化とともに移り変わるものであることを承知しながら 人間の心を 原理(はじめ)とするかのごとくである。心は移り行くが しかしその移ろい行く心を見つめる心は 人間の不変であると考えた。そこに 史観の原理を見出したと思ったのである。かれらは この心を想定することによって さらに 人間の生と死をつらぬく原理的な領域であるかのごとく 魂といったものを 設定する。しかし この魂( anima )とは 広く動物( animal )一般も 共有する生の一領域・一要因である。
ところが 史観の原理とは 動物一般はこれを共有せず(――動物は歴史を持たない――) またそれを言葉によって表現する能力を欠き 人間の――ほかならぬ人間の――自己の同一に留まる知恵の愛をとおしてでしか見られ得ない。〔これを《心》ないし《魂》という場合もあるが 一般には〕 魂と心とは これに至る人間の生〔と死と〕の場である。人間の主観は かれがひとり神の似像であるというように この魂にも優って生きるものであり また この心の場における・身体の運動をともなったその動態でしかない。
一般にこのような人びとは (12−1)項の共同観念形態・つまりそこに アマテラス者によって想定された《彼岸性領域ないしA圏》 これらの非彼岸性すなわち やはり 無常性 ということに対して 心は 魂は 常住であると考えたのである。しかし スサノヲのミコトが タカマノハラを追われ オホクニヌシが国譲りをしたのは(S圏主権を 一つの歴史事件として仮象的に A圏に譲ることをしたのは) この心に拠って そうしたのではない。史観の原理を観想し その愛によってこれを為したのである。かれらは この歴史的な否定(S圏の否定)の否定を 後世に託すと言って 共同主観夢に生きた。しかし 魂の弱きによってこの共同主観夢を解し得ないアマテラス者に道を譲るというそのことによって この愛が共同主観夢の現実であって 否定の否定は そのことにおいて すでに成就されているのでないならば 愛という永遠のいのちを信じる道はすべて空しい。
(12−3)さらに第三のやり方が考えられる。このやり方の人びとは 第一の場合(12−1)の物体(その変転する姿)であるとか 第二の場合(12−2)の心(その変転しつつも同一の場を 提供するかに見える動き)であるとかには拠らず 人間の主観の原理を問い求めようと考えた。ここに 第一部で論じた《第三の種類の誤謬》がひそむと考えられる。
(つづく→2007-06-26 - caguirofie070626)