caguirofie

哲学いろいろ

#36

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第一章 史観ということ

第四節a 共同主観としての現代の史観

――第三原則:《主観は 精神(アマテラス概念)においてではなく 精神をとおして 自己形成される》が 史観である――
前節でのべた いくつかの接近のための視点について その中で 国家形態の歴史的な移行にかんしては その具体的な施策としてみれば むしろ第二次的なものであるだろうと考える。つまり 史観の実践ということになる。実践が 大切でないわけではなく ただし 方向性などを――このいまの課題にかんしては――あらかじめ追究しておかねばならないと考える。
もちろんそれは 主観の内なる視点としては 他の視点と一体であり これからの行論のなかでも その個々の論点に応じて必要なかぎりで触れなければならないであろうが その現実の移行にかんする施策の点では むしろ共同主観の内なる形成という基軸に 付随して 実践されるものであろうということを妨げない。主観形成とこの主観共同化の過程でこそ それは大事な点ではあるが その一つの施策として現われると考えて 史観の形成に支障はないと思われる。
もっとも今 これに対して 基本的な考え方を述べておくとするなら 一言で言って スーパーヤシロ主導の《S圏(その住民=S者は主権者である)‐A圏》連関体制から ヤシロ(インタムライスム=インタイエキャピタリスム)主導の《S圏―〔S圏に基本的にただ乗っかる〕A圏》連関形態へ 移行すると展望することができるであろう。S圏主導の《ヤシロ‐スーパーヤシロ》連関形態と言うなら それはまだ 国家形態ではないのかという問いに対しては いまこの時点で そうであると答える以外にない。ただ ちがうところは S圏主導と言うとき 諸都市の自由連合(インタムライスム)と 諸企業の自由交通(インタイエキャピタリスム)との主導による共同自治方式は 単純に考えられることとして いまの国家の枠組みを超えて(その意味で インタナシオナリスムとして) このような自治態勢および生産態勢の諸連関が 自由に・第一義的に 形成されることを概念するという点にある。
これは A圏におけるアマテラス概念による現実構成としての律法・範型ではなくして またそのA圏の主導方式によるのではなくして S圏〔の主観〕の中で――それは ムラないしイエ・キャピタルという集合的な主観でもあるが その中で―― そのまま概念するという意味であるから 禁止と自在とから成るその律法の内容がちがうと言ってよい。国家(イエ・ナシオナル)は インタムライスムとインタキャピタリスムの・アマテラス概念による統一の主体として 独立圏を構成するというよりも それらのアマテラス概念による相互調整(ときに 計画)の主体 しかもこの主体は 第一義的に 各自治態勢および各生産態勢じたいが すでに担っているということを予定するなら――すべきだが―― それは いまの国家の枠組みをはずして・これを超えて 諸国家(諸民族)のあいだにも この相互調整主体は 想定されなければならないことを予表する。
その意味でまた 共同観念の一つの残存形態でないとは言えないが この具体的な施策の点で ただちに 共同観念形態の全面的な排除は 現実的でないと思うからである。またこの意味で 国家の歴史的な形態移行は 共同主観形成に付随する第二次的な接近の仕方であると考える。共同観念の現実に対しては それ以上の何か特効薬があると思ってはならない。またそのことは 共同主観の《自由‐不自由》連関であることの 現実でもあった。
そして史観は 共同主観の原理として むしろ《自由》そのものを考察しながら しかも《自由‐不自由》連関なる生きた主観を形成すると言っておかねばならない。この妥協は 停止して滞る妥協ではなく 滞りながらも天翔けりゆかずここに留まる。そして前進する妥協である。《自由》の直視は 片や 経験的なもののなかにそのまま これを見出し得ず 片やこの身体をただちに離れ去るような〔・スサノヲ者のであっても天翔けりゆく〕アマテラス概念そのものの中にもないとわれわれは知ったからである。
人は スサノヲ者として どこまでも身体を持った(しかし 肉の人へと走りゆかず むしろ霊の人となってのごとく) スサノヲ者として 自己のなかの心(アマテラス概念)をとおして いま・この今 そして日から日へ変えられつつ《自由》を思うからである。(霊の人となるというのは わたし――肉を持ったわたし――が そうなるというのであって 肉が霊化するなどということではない。別の意味では そういう場合があるかも知れないが)。



しかしわたしたちは 共同主観のこの地への寄留形態そのものを変えるというとき なおかつ それは一般的にであるよりは この《自由》をいま直視する主観〔の動態〕を思うべきであり これを思い 愛し 実践する。第一原則・第二原則が それであった。
それでは 第二原則を経て 第三原則は 何を考えるべきか。
共同主観の自己形成にしろ またこれによる共同観念現実の捉え返しにしろ――これら二つは 同じ一つの主観過程の盾の両面であったが―― それは これを 《精神(アマテラス概念)において》ではなく 《精神をとおして》直視するということの中にあることでなければならない。これであるということになるであろう。
これは 第二原則とともに まだ 前提的な原則であるが この原則をも共有しなければ 主観は共同化されない〔で なお観念的な共同形態に陥る〕という意味で すでに実践的な原則でもある。
共同主観の寄留形態(滞留しつつも停滞しないで寄り留まる形態)そのものの揚棄は たといスサノヲ者の真正なるアマテラス概念(神学的には天使とも言える)であっても このアマテラス概念なる精神においてではなく この精神(主観の内的な構造における一つの何らかの目的となることがらの視観・視像)をとおして ということは 真t内の運動をとおして ということは 身体の運動をともなっての生きて動く主観の全体として 精神をとおして 自己を・あるいは自己の寄り留まる共同観念現実を 直視するということ。そしてこの直視は 知解(視像からの視像)・愛(精神と知解とをつなぐ第三の意志)において それらはなお滞留しつつも・もしくは滞りつつもここに身体とともに留まるがゆえに 当然のごとく 実践をともなうであろう。
なぜなら このような直視は ただ学ぶ( scientia )のではなく ただ経験的なものごとの中でアマテラス概念によってこれを分析し理論づけ学ぶのではなく この経験的なものごと(つまり 共同観念現実のことだが)を・または それをとおして 直視するのであるからには この直視は その時々の過程において むしろ主観=自己の訓練( disciplina =学問)であるにほかならず 訓練は 精神の滞留と共に試行錯誤をたどりながらも 現実に就いて実践しないわけにはいかないからである。もしくは この実践過程じたい その直視にほかならない。
言いかえるなら 共同主観を保ちつつも・まだ共同観念現実に寄留したままであるとし・この寄留形態じたいを変えずして・その限りで アマテラス概念の知解作業をなすとするならば この精神と知解とそして愛(その限りで 実践である)は いまだ この経験的な現実である共同観念の顔覆いを取り除かずして 寄留じたいの滞留ないし 停滞となるからである。
寄留は 滞留しつつも 生きた動態であった。しかもこの動態でもある寄留の形態じたいに 歴史的に(だから なお可変的・有限のかたちでということだが) 或る終止符を打たなければならないと言う。したがって 寄留形態の新しい寄留のかたちへの揚棄は 主観の内的な構造において確かに行なわれるのであるが しかもこのとき 主観の〔内的な構造の〕自己形成の過程は 外なる共同観念現実と 分離されて為されることであってはならない。言いかえると 主観の内的自己形成の過程は 当然のごとく 共同観念現実のそのまっただ中で 訓練・試練として 行なわれる以外になく そのとき 自己の《S‐A》連関に対応してであり A者性はひとりそのものにおいて捉えられるべきではなく だから この連関の中から A者性(アマテラス概念)のみが 分離して独立することであってはならない。
すなわち 自己の《S‐A》連関は 生きた試練のなかで そのものとして保たれつつ A者性をとおして 主観(S者 ないし 《S‐A連関》主体)が再形成されることでなければならない。
このことは 言いかえると 主観の訓練(学問・自己教育)とも言うべき・内的な構造と同時に外的な(つまり少なくとも 自己の周囲の関係性の)自己形成の時間的な過程において アマテラス概念(その視像と その知解と)そしてその愛は 自己が身体とともにあるがごとく からだごと 表わされなければならない。これを 直視は 精神においてではなく 精神をとおして 為されると言う。
言ってみればこれは 自己放棄(神との真の和解)を伴なうものである。自己放棄は必要であり そうすべきであると アマテラス概念において 知ること( scientia )だけでもいけない。知ること・学問に身を捧げて 精神において知ったアマテラス概念なる《自由》のために 牢獄に入れられるまでに自己放棄する学者が 昔は存在したのであるが いまは これは必要なく むしろそれ以上の(あるいは それ以前の)自己放棄が 要請されている。しかしわれわれは 神への自己放棄 真理を むろん理性的に・そして身体の運動とともに 飲み祀ること これが 自由であると知ったからには。
この第三原則は 一見 常識(――共同観念の常識 common sense が そのまま共同主観 common sense であるがごとく捉えられた常識――)であるようにも思われる。また たしかに人は 精神において《自由》を直視することもあれば 精神をとおして直視しようとすることもあるというのが 実際である。そしてこのことは 精神がつねに滞留するものであるからのごとく 共同主観の寄留情況には 両者とも 実際である。だから――だからと言うようにして―― この第三原則の要請するところは このような・いま現実に見られる寄留のあたかも二重構造的な形態 これを それじたい 変換せよという点にあるとなるのである。
(つづく→2007-06-21 - caguirofie070621)