caguirofie

哲学いろいろ

#35

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第一章 史観ということ

第三節 現代の共同主観者にとっての史観

――第二原則:史観は 生きた主観である。――
さて 共同主観は現代において 共同観念への寄留形態を捉えなおして 共同自治の様式にかんして 個々に・つまり 律法の禁止条項の個々を改革するかたちでではなく 共同自治の様式じたいを全体として見つめなおす。このことによってみづからを衣替えさせるという方向が 史観の第一原則であった。(この目標に到達するためには むしろ人間は 真理なるお方に照らされてのごとく 変えられるとこそ言わねばならないが このような大前提は すでに必要でないかぎり 触れないこととする)。
ここでもう少し 第一原則の意味するところを 捉え直しておくなら 抽象的に言って次のようである。
人間は 四季の変化に応じて 衣替えする。あたかも 個々の季節が 歴史の各段階であるかのごとく 共同主観はこの季節の変化に応じて ――《個体としての人間は 変わらない》を基礎とするようにして――その内的な構造の具体的な認識内容(あるいは 現存の形式)を 衣替えする。《旧き人を脱ぎ捨て 新しき人を着よ》というふうにも(――ただし これは 循環的なものではない――)。しかも 前節に見た第一原則は この衣替えの慣行じたいを見直し ということは あたかも季節の変化じたいを捉えなおし(――食糧の栽培・供給 あるいは 温度の調節などにおいて これをすでに人間は行なっている――) しかし 季節の変化=自然的・時間的な過程は基本的にこれを保ちつつ(――なぜなら 主観・スサノヲ者がこれをおこなうのであるから――) この経験的な歴史の過程から 共同主観そのものにいて出立(実存)するというあたかも要請を その内容とするものであった。
《一日》が 昼と夜との二項一組から成り 《一年》が 季節の移ろいから構成されると 経験的に(その意味で平面構成として)捉えて 概念ないし範型をも構成したものが 共同観念および律法であるとするなら この共同観念の〔或る種 停滞的 無常諦観的な〕平面構造(?) これを捉えなおすというのが その基本であった。それは 共同観念が停滞的であるというのは あたかも共同主観が 非範型的な過程構造であったのを元にして しかもこれとはまるで異質なように 範型=律法の構造をかたどるからであった。
この範型=律法の構造とは 共同主観が 過程的に自己のもとに《S‐A》連関から成り立っていたように しかしそれとは視点を異にして 一方で 《経験的な一日ないし四季の構成という平面構造》を 《S者性・すなわち 〈わたし〉の領域》とし 他方で 《そこから概念構成される範型(禁止と自在) つまり 律法》を 《A者性・すなわち 〈公〉的な領域》とし これら《〈平面構造(擬似S)〉と〈律法(擬似A つまり もっぱらのA)〉》との擬制的な構造過程を 共同観念的な現実とするということである。
言いかえれば 個体の内的な《S‐A》連関を やしろの外的な《ヤシロ(S圏)‐スーパーヤシロ(A圏)》連関すなわち 国家形態と作り成して かたどるからである。さらに 平俗的に言うと 個体の内的なる主観である《S者性》は ヤシロの住人たる市民がこれをもっぱら担い また 個体の内なる普遍概念(イデア・形相)である《A者性(――人はこれをとおして 主観=S者性を 共同のものとする――)》は スーパーヤシロの住人たる公民(社会科学主体・官僚)がやはりこれをもっぱら担うという平面(観念共同)的な構造を言っていることになる。
ここには 階層はあっても 構造はない。もしくは 構造は 明らかに分解してしまっている。あたかも市民S者と公民A者との二人で はじめて 神の似像(あの三行為能力の一体性なる存在)であると言っているようなものである。おれとお前で初めて一人前だと言うようなものである。――これは つまりこの観念共同夢は 停滞して現実であるとは言え たしかに経済行為・社会階級関係より前にあるものではない。経済活動ないし知解行為は この共同観念より先に 存在している。しかしながら同時に 経済学の知解行為は この共同観念の敷居を飛び超えて いわば原主観としての純粋な経済主体の行為理論を問い求めることに尽きるとは とうてい言い得ない。むしろ この観念の敷居そのものの領域にまづおいて 知解した理論を実践する またさらには この実践(愛)にこそ尽きると言っても 現実を無視したことにはならないであろう。そのことによって言わば論理的〔という意味で純粋〕な理論(すなわち 律法)が 生きる。また この共同主観としての愛は つまり 愛としての史観は 個々の社会科学と 別個に存在して互いに並行的に問い求められるというべき性質のものではないことを知るべきである。


このように見てくると 通俗的には 現代における共同観念の問題は 《〈もっぱらのS者性としての市民〉‐〈もっぱらのA者性としての公民〉》連関ということにもなる。そのような社会形態(国家構成)的な一つの身分制の残像ということにもなる。国家成立の以後の 律法の変遷してきた結果である現代の法律体系においても この共同観念の一つの基軸的な身分制は 残されて それを支えているとも言えるし 逆に 近代市民的な現代の法律は あの《自由》の原理のもとに(共同主観の歴史的な形成の系譜の中に) あたかも共同観念がみづからの墓穴を掘るというかのごとく この身分制としての律法は 否定され〔る方向に〕てあるとも言える。そしてさらにまた そもそも 範型=律法の自己表現である法律体系とそれによる共同自治の様式は この身分制(つまり《S‐A》連関のなだめられ寝かしつけられた模造)を温存しようが・またこれを否定する方向に進んでいようが はじめに このような もっぱら共同観念的な現実は 共同主観的な内なる現実の 仮象であり似像であるにすぎないのであって 範型や律法の自己変革的な歴史的表現形態(つまり 法律や判例)には 何も基本的には期待できないとも言うことができるというのでもなければならない。以上が 第一原則の内容であった。(このような史観(観想)の領域が存在しなければならないというのである。法律学・司法を無視しようというのではない。)
しからばどうかが 第二原則以下を構成するであろう。




第二原則は まづいくつかの視点に分けて考えることができる。一つは 共同主観そのものの内的構造の・現代における確認と再認識である。二つは これとともに 共同観念現実の・現代における捉え返しの現実・その動態である。三つは この第二の視点が 共同観念の個々の具体的な現実・現象の見直しであったとすれば 次には その骨格をなすというべき国家という共同観念的な社会形態の認識と再編成の問題である。またさらに これら視点に対するそれぞれ個々の主観(またそのいくつかの代表的な方式)のあいだの相互検討・調整という問題である。(この第四は きわめて具体実践的なそれである)。――そして要は これらいくつかの視点は しかも互いに同じ一つの視点に還元されてあり そこからまづは接近すべきという点である。
これら諸視点に通底する同じ一個の視点とは 自己の主観にほかならない。すなわち言いかえると 自己の主観が これらすべての視点を綜合して 自己じしんの史観を持って――むろんその中で 能力と社会的な役割分担のもとに これを個々に表現して伝え その共同化をはかる 異和を保存しつつ はかって―― からだごと生きた主観となるということ これが 第一原則以前の原点であるであった。
だからわれわれは いくつかの視点・接近の別にこだわりなく この第二原則を問い求めていかなければならない。そしてむしろ このことじたいを まづここで 第二原則としたいと思う。
(つづく→2007-06-20 - caguirofie070620)