caguirofie

哲学いろいろ

#34

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第一章 史観ということ

第二節b 現代の共同主観者にとっての史観

――第一原則:現代の史観は 共同主観じたいが 〔自己〕変革されることである――
個体的と社会的との時間的なあとさきを問題にするのではなく まづ主観夢を 本質的に 問い求めることを問題とするのである。これが たとえ観念的であってもよいのである。なぜなら 国家形態じたいが 観念形態であるとするのであり しかもこの観念夢はどうでもよい倫理形態であり いわば一つのしきいであるのだから まづこの観念のしきいに立つことが必要であると考える。
共同主観夢と共同観念国とは それらのあいだに 非武装中立地帯をもうけているわけではなかった。互いの国びとも 存在としては善であるのだから それらは入り組んでいる。もしこのとき 共同観念国のしきい(つまり 幻想共同だから しきい・踏み絵が出来る)に人が立たないで 原主観をただちに純粋に保持しようとする共同主観夢に拠るとするなら だから じかに敷居を越えて 国家形態を論じるとするなら それはむしろ そのような原主観とその個性が 国家という観念形態とのかかわりにおいて その敷居をつうじて 主観を史観とするとき 国家形態の歴史的な移行が 個々の再編成作業においても 着手されるようになると思われる。このこと また その唯物史観との異同にかんして 追って述べることになる。いまは 《人間が変わる》ということの事例を考えている。


共同観念の国家形態としての成立時に 一面で 個体としての人間は 《スサノヲ者性‐アマテラス者性》連関の構造として 自己認識したということは むしろ あの《愛の自由》という概念にとって それが不自由なる自由という構造的な(そしてそのとき 何らかの範型や律法からは無縁である)過程を示す点において 基本的に 共同主観の基軸的な内容であると思われる。このとき 共同主観者は この《S者性‐A者性》連関という自己の内なる自己認識において 国家形態とそれによる共同自治の様式を 見守り これに遵(したが)い また時にこれを利用するかたちで 生きたと考えられる。実践をなしたのである。
一般に 個体としての人間は変わらず しかも その共同主観としては その構造の内容として 歴史において可変的であり だから 共同主観の形式はそのように時代に応じて変わり(もちろんこれが 先に変わったがゆえに 新しい時代を用意したとも言える) そして共同観念の現実は 国家形態の成立の以前と以後とでは おおきくその罪の共同自治様式を変え(――そのかぎりで 人間が変わり――) しかもあの第一例ののちの堕罪後の歴史においては この国家以前と以後とをつうじて 《共同主観は 共同観念に対して 遵いつつ寄留する》というおおきな形式は 通史的である。
したがって いま現代において 国家形態そのものの歴史的な移行というとき(――これは 言うまでもなく唯物史観の側から提起された問題だが だからその意味で新しいものではなく また広く一つの既成の共同主観の一内容であるが――) 個体としての人間においては この《寄留形態》そのものの〔と言ってよいほどの〕歴史的な変革(揚棄)が 具体的な第一課題であると考えられるのである。この課題は ただちに実践の目標とするという意味ではなく 史観として観想によって得られる方向性といった意味においてである。また そうであってよく 国家という観念形態とのかかわりでは まづそうでなければならない。そしてそれによって具体的な実践に着手しうると考えられたのであった。


さてこの結論の内容をさらに具体的に述べなければいけないのであるが まづ一方で 共同観念が 国家という共同自治の様式を採ったとき 共同主観は 個体的に 《S‐A》連関構造を見出したとするなら 他方で 国家という共同観念形態の歴史的な移行〔による共同自治形式の新たな形成〕というとき それは 共同主観のどんな内的構造を見出すか(見出しているか)ということに 問題の焦点の一つはあることになるであろう。
おそらく ここでも先に結論づけるなら 共同主観の現代‐未来的な内的な構造は 一例としてのあの《愛の自由》の概念構造(つまり 《自由‐不自由》連関)が 必ずしもそれとして可変的なものではなかったように 基本的にやはり《S‐A》連関の構造を保つというように考えられる。なぜなら この主観内の《S‐A》連関構造は 国家成立に際して はじめて明確に自己認識として持たれたとは言え 国家以前の段階においても 意識的にか無意識のうちにかは知らず それとして 存在したと考えられる。
これを大きく言いかえるなら 個体としての《S‐A》連関構造というとき S者性(つまり《わたし》)は その中で 殊に 主観につながり A者性(《おほやけ》=普遍的思惟・思惟的普遍 / 共同観念的=経験的な客観概念)は 主観たるS者が それを尊びそれに遵いそれを利用しつつ〔さらに主導しつつ〕そこに寄留する範型つまり律法形態 つまり共同観念の象徴(アマテラシテ)を意味表示したと考えられるからである。A者性は さらに これらに代わって 思想・科学といった形態がそこに新しく現われたかも知れない。したがって 原主観の構造とも言うべき《S‐A》連関は そのような容器として変わりなく そうして 具体的な共同主観としてどんな内容=形式を見出すかが 一つの焦点ともなるであろう。
ただわれわれは この焦点そのものの問い求めへとは進まないであろう。なぜなら このような焦点が持たれることを捉えつつ 主観夢を 史観ないし共同主観として形成すること このことのほうを 第一とするからである。主観夢の滞留とは このことである。
以上をまとめて言いかえるなら 共同主観は 現代において その内的構造つまり《S‐A》連関的な過程(――これをとおして主観は 共同観念に寄留していた――)を基本的には変えずに しかも これによる現実への寄留形態は――その具体的事実である国家形態を歴史的に新たな形態へ移行させるというようにして―― 新たなかたちへ揚げるようにして棄てる・すでに棄てたようにして新たなかたちへと変更させると考えられることになる。これが 共同主観の現代における衣替えである。これを まづ史観の第一原則としたい。
(つづく→2007-06-19 - caguirofie070619)