caguirofie

哲学いろいろ

#33

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第一章 史観ということ

第二節a 現代の共同主観者にとっての史観

――第一原則:現代の史観は 共同主観じたいが 〔自己〕変革されることである――
歴史の或る段階に固有な共同主観は そのもとにある共同観念の特にこの一定の時代の具体的な様式・形態を 当然のごとく 捉えなければいけない。また その捉えた結果が 日から日へ変えられる共同主観である。
共同主観もしくは史観は 当然のことながら つねに その現代という時代に立った主観である。それ以外にありえない。そして 共同主観の歴史的な系譜のもとに 現代および過去の共同観念の様式を・そしてその形態の変遷を 捉えるであろうと言わなければならない。


一般原則をこれくらいにして 現代にとっての史観としての共同主観は 次のように考えられる。
結論の特徴をまづ一言でいえば 現代においてはもはや 共同観念の歴史的な変遷を見守り 促し 実践する共同主観は 共同観念そのものを自己のもとへ揚げて棄てるべく 自己の歴史的な 過去に前例のない・社会形態的な 定立をはからなければいけないということであろう。(前史から後史への大転換ゆえ)。共同観念のさまざまな変遷のかたちの中で その一つあるいはいくつか あるいは全部を取り上げて 歴史的な移行をはかるというのではなくて――つまり言いかえれば 共同観念への共同主観の一般的な寄留形態の変革を 部分的にあるいはその全部として 同じようにこれまでの歴史の経過の事例に沿って というのではなくて―― この主観の寄留形態じたいを変革するというほどの変革が それは 結果的にしろ 必要である。つまり 意識としては全面的に そのような変革を目的とするのではなくても けっきょく必要であるとなるはづである。そう想定せざるを得ない。
言いかえると 共同観念主導の歴史的な変遷というかたちでの歴史は 歴史的に現代で終わりとされる。むろん経験的な・罪の共同自治であり つまり共同観念になおも寄留するのであり しかも同時に 主観じたいが 言わば暗いかたちから明るいかたちへ変えられる。これが まづ 結論の特徴であるように思われる。またこれを 第一原則としたい。


たとえばこのことは 《人間が変わる》と把握される。
まづ はじめの楽園から追放された人間は 楽園にいるときと追放後とにおいて 人間が変わったのかどうか知らない。個体としての人間は変わっていないであろうが 精神の滞留から来る知解ないしいま時間構造の停滞から来る知解・つまりそのような概念把握の上では そのかぎりで 人間観がつまりは人間の主観(精神)は 変わったであろうと推測される。
たとえば《愛の自由》にかんして すでに第一部で引用したように 次のような変化が 原理的に捉えられ指摘されうる。

〔意のままにならない欲望の〕運動は 堕罪以前の楽園においては欲望が皆無でありえたか あるいはたとい存在していても 時には意志に抵抗することがないように存在していたことを私たちに示す。しかし堕罪後の今は 欲望は精神の法に反しつつ 生むべき原因が全くないときにも 性交すべき刺激を与えるようなものであると私たちは考える。もしそれに人が屈服するなら罪を犯しつつ満たされる。もし屈服しないなら 同意しないで 制御される。
アウグスティヌス:三位一体論 13・18〔23〕)

また このときも 個体としての人間(それぞれの《わたし》)は 共同主観夢につらなる意味では 変わっていないと推測される。
あるいは 聖霊オホモノヌシによって身ごもったイクタマヨリヒメの子 オホタタネコは 神の子であったと言われるのだが 神の子であるとされたオホタタネコと一般の人びととのあいだに 《人間が異なる》事実があったのかどうか 知らない。このときにも 個体としての人間は 変わりないであろう。しかも 滞留する知解ないし停滞する時間過程の中で 人間は たとえば上のような概念把握(神話物語)としてその中で 変わりがあり それ・つまりその変わりあることじたい 歴史的にも変わるものであるのであろう。
以上は 第一例である。
《人間が変わる》という視点の第二例は 共同主観の自己変革的な形成(――突然変異をそこに宿すと言ってもいいような変革的な形成――)の過程で そのもとに 停滞する時間領域(つまり堕罪後である)において構成される共同観念の世界において この共同観念の形態が ムライスム(ないし プレ・インタムライスム)からナシオナリスムへ再編成される段階において(――つまり 国家形態として成立する時期のことだが――) 《人間は変わった》と捉えられると思われる例である。
ムライスムの慣習・掟が 自己じしんを保存しつつも 国家なるナシオナリスムの律法(法律による統治様式)へと変えられるというのが その一つの内容であるが またさらにこれを言いかえると 堕罪後の罪の共同自治様式として (1)一方で社会形態としては やしろ(社会)が 《ヤシロ(S圏)‐スーパーヤシロ(A圏)》の分離連関体制となり (2)他方で個体としての人間は (a)ヤシロの住民であるスサノヲ者(市民)と スーパーヤシロの住人であるアマテラス者(公民)とに分かれた または(b)同じ一個の個体のなかに 《スサノヲ者性‐アマテラス者性》の分離されて構造的に連関する概念(自己認識)が生まれた。というのが ここで《人間が新しく変わった》ということの結果としてその形式の一基軸である。
だから 当然のことながら 《愛の自由》も このような新たに再編された共同観念形態のもとに 禁止と自在との一定の範型(たとえば 身分制や違法に対する法治形式などの)をもって 行為(非行為)されることを 共同観念的な現実とするようになる。これが 第二例である。
その後 第三例は おおきくは いま現代のつきあたっている歴史的な移行の段階ということにまで飛んでよいように思われる。この第三例が ここでの結論であり その特徴にかんしてはすでに初めに明らかにしようとしたものである。すなわち ここに至る過程としては 古代市民による国家形態としての共同観念の成立ののち その《愛の自由》の範型・律法を 身分制の打破としての変遷 あるいは 法による共同自治形式の個々の改革・改善としての変遷をともなって おおきくは 国家形態すなわち《スサノヲ‐アマテラス》連関体制のもとに 再編成しながら形作ってきたと捉えられるゆえに。
もしこれが正しいとするなら 第三例すなわち現代にとっても史観の重要点は それが 共同観念〔形態〕じたいの揚棄であるというとき それは この国家形態の歴史的な再編成作業を その具体的な内容とするであろうことである。そしてわたしたちのここで言うその意味は これがまづ史観として主観において 自立して来なければならないということである。
個体的と社会的との時間的なあとさきを問題にするのではなく まづ主観夢を 本質的に 問い求めることを問題とするのである。これが たとえ観念的であってもよいのである。なぜなら 国家形態じたいが 観念形態であるとするのであり しかもこの観念夢はどうでもよい倫理形態であり いわば一つのしきい(敷居)であるのだから まづこの観念のしきいに立つことが必要であると考える。
共同主観夢と共同観念国とは それらのあいだに 非武装中立地帯をもうけているわけではなかった。互いの国びとも 存在としては善であるのだから それらは入り組んでいる。
(つづく→2007-06-18 - caguirofie070618)