caguirofie

哲学いろいろ

#32

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第一章 史観ということ

第一節b 一般的な考え方

共同観念は このような一定の地平における掟・律法による〔罪の・あるいは滞留から停滞となった退屈さの〕共同自治の様式である。
共同主観夢は ここに寄留し 一定の時代と社会に応じて 一定の共同主観という〔内省=行為の〕形式を持つ。律法は 実際にはこの共同主観形式が 成文・不文を問わず 掟・法律とされたものとも見られるとき それは聖であり霊であり 尊重されるべき・また細部において変遷すべき共同主観形態ではある。


主観は 構造的であった。時間過程的にして 構造をも有する。滞留しつつも 時間の間隔の中に・そして主観の内側において 《自由‐不自由》連関の構造を担って 覚めていた。共同主観とは この覚めた知解と愛が 眠りにすかされずに その《自由〔の観想が主導〕‐不自由》構造を保って それぞれの主観の内側において 或る朝から次の朝へ移り行くがごとく 《一日》の範型を必要とせず またそれに依らずに 生きるときの動態である。
だから 愛という主観は 範型・律法の完成であると言われる。主観の内側なる生きた《自由〔‐不自由》連関〕が 何らの範型を必要としない神の律法のもとにある。
また ちなみに この《自由‐不自由》連関過程を 肉の人となって 肉の人たちにとっての真なる《自由》の源でありつつ 肉の人としての自由の模範を示しつつ 生きたのが 人間キリスト・イエスであった。《原主観と個性》というそれぞれ主観夢の原理(はじめ)であった。
共同主観夢の《一日》は 夜へは渡されずに 夜を送ると言われる。人間の永遠のいのちと言われる模範に従うとき 何らの範型を必要としない自由なる風が吹いて 夕方の薄暮は 模範の光に照らされてのように 夜へは渡されずに 朝へ牽き行かれると言われる。またこれは 共同主観の・史観としての原形であった。共同主観は 史観として 一定の歴史的な段階に固有の形態をもかたちづくり また それじたい 可変的であり――時間過程の中においてしか立証されないものであり―― 不安定にして安定した構造のもとにこそ 保たれる。
これはまた 夢ないし過程ないし構造であることより 信仰と呼ばれる。これは 特に 共同観念夢の宗教形態に沈黙しないがために そう呼びうるものである。もし 共同観念夢の宗教形態が 幻想として批判されるようになり その批判の道具・手段としての思想・科学が 同じく観念共同化されるようになるときには その同じ思想・科学という共同主観形態の原動力であったものが 信仰もしくは共同主観夢といま一度よばれて確認されるべきである。いづれにしろ これがわれわれの史観の原形である。


ここでは 史観を 必ずしも 社会科学的には扱わない。たとえば 一定の歴史的な段階において 共同主観〔者〕は 或る朝を迎えて その〔人間としてははなはだ当然な〕夕方の薄暮が しかし夜へは渡されることなく 次の朝へ牽き行かれるというとき この同じ類型において この一定の歴史的な時代が それに固有の薄暮の中にあっても 一方で必ずしも 昼と夜との二項一組から成る一日の概念構成という範型と律法による(――つまり 共同観念による――)その時代の共同自治の様式に もっぱら保守的に固執しないことを意味し 他方で かと言って この薄暮を弾劾して粉砕するがごとく この共同観念の《一日》の範型それじたいを 悪の元凶であるというようにして 責め これ(《一日》)の変革を主張するほどに 共同観念の統治者そのものの交代を欲し そこへは必ずしも走りゆくということをしないことを意味する。
共同主観者が欲することは たしかに《一日》の概念構成の変革を欲することはあっても それはまづ主観夢において与えられており したがってそこですでに完結している(――《自由‐不自由》連関で この地上にあっては あたかも完結している――)と主張してのごとく なお問い求めることがあるとするならそれは 共同観念の世界の・共同観念の次元つまりアマテラス圏における一方のその保守と 他方のその交替・変革という図式 これらのアマテラス圏闘争に主導されないスサノヲ圏の確立 これである。
社会的な共同主観としては これである。夕方の薄暮の光ながら その共同主観夢の《一日》が 第一次的なやしろ(社会)であるスサノヲ圏において 確かに推移してゆく これである。これが 国家の歴史的な移行の問題として考えられることであり すでにこのような国家論も言われているとするなら すでに このような共同主観夢の形態も問われてゆくべきであると考えられる。
まづ共同主観夢は 薄暮の中でも 不安定な安定 不自由な自由という内なる構造が 生きて歴史を歩み 歴史の薄暮は 次の朝へ牽き行かれるであろうことを 確認しあう。この確認のもとに この薄暮の共同観念のもとになった旧い共同主観を まづ脱ぎ去り 新しい共同主観のもたらされることを期待する。期待しつつ 確認しつつ この新しい共同主観の形成を 互いに執り行なう。新しい朝は 自分たちもこれを欲し また これへみづからも今度は 走りゆかねばならないことを 共同主観しなければならない。
ここで歴史的な時代の移行とは 共同主観の新たな衣替えのもとに 共同観念(その形態)の変革として まづ考えられる。それは 共同観念のあの一定の地平的な枠組みの変革であるかも知れない。それは 共同観念のあの一定の範型の改革 概念構成の再編であるかも知れない。また 経験的に言って 共同観念の統治者(また 国王などその象徴)の交替をたしかに意味して 変移するものであるかも知れない。――まづ考えられることは 共同主観者は それが古くなったものであろうと一般に共同観念に寄留しつつ(――時に この古くなった観念を新しく用いつつ 寄留して――) これらの変革の態様・過程を 見守らなければならない。見守りつつ はたらきかけて行かねばならない。それは 自己の共同主観の変えられる過程 衣替えの過程でもある。この衣替えがまづ かれの実践である。
まづはじめに考えられることは――ということは 特別に 現代という歴史段階の視点に立ってということではなく 一般に考えられることは―― 以上のような一般原則である。
(つづく→2007-06-17 - caguirofie070617)