caguirofie

哲学いろいろ

#31

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第一章 史観ということ

第一節a 一般的な考え方

すでに論じたように 時間的存在である人間は その〔記憶ないし〕知解において――知解の行為および知解されたものにおいて―― また これを現実の行為に現わす愛においても その精神が 滞留すると言われる。開け ごま! と言って瞬時に 扉が開くものではないから 精神は滞留し 知解は滞留し 愛は時間的な過程において滞留しつつ 自立しなければ――つまり 共同観念の世界に寄留して 自立しなければ――いけない。このことを 第一部では 論じた。


〔知解ないし〕愛が 時間的行為において滞留するとき 人間は 時間的な存在であり もしくは 歴史の子である。つまり 愛が滞留するのは 人間が時間的存在だからであるが このような・一回は循環する反作用が――反射ともよぶべき反省が――見出される。人は これを 卑劣にも避けてはならない。しかし この循環・反復作用を その回数を多く重ねつつ ただ歴史経験的な共同観念夢の模型として 慣習化させてはならない。またはその慣習化の中に 同化してはならない。そのためには つまり 時間的存在でありつつ時間的・経験的な世界をあたかも超えて共同主観夢動態にとどまるためには あの原主観すなわち《生きることが存在すること 存在することが生きること》を 二乗・三乗と無限に掛け合わせてゆき その連乗積となればよい。
この無限は 時間をそして有限を 人間の主観(また主観夢)としても 或る種の仕方で超えうるのである。しかし人は 帰納法あるいは人間的な演繹法が これを生んだと錯覚してはならない。存在するように自分自身を生む者は決して存在しないから。神でさえ その存在はそうではないだろう。だから共同主観夢 またそれをとおして現実すると信じられる神の国は この共同観念夢の地上の国と 明確な一定の国境線によって区分されたようには 存在しない。二つの国は おのおの主観夢において 複雑に入り組んだかたちで 存在しており しかも共同主観夢は 神の国として この地上の中から 時間的に歴史的に――むろん各主観において――生起する。人は 神を 時間的に持つようになる。倫理の極限化をやるにせよやらないにせよ 共同観念の世界で倫理が破壊されるまでに追い詰められ 神を呼ぶようになるとき すなわち《わが神 わが神 なにゆえ我れを見捨てたまいしや》と最後の声を発するとき その内なる人も死に追いやられてのごとく死ぬことによって まさにその死において 神は人を見棄てたまわなかったと認識してのように 原主観が復活するかのように 生起する。
ここで人は 神に知られたと知る。あの異和の補償力が 〔はかない〕夢をとおしてでも 力として働いていることを 理性的に知解するからである。人は 向き変えられる。十字架という代価を払って――自分では只で――祖国に買い戻されていたと知る。ここでかれは ただちに祖国に去りゆくのではなく 共同観念夢の国のなお中にあって 保証金(つまり聖霊である)を受け取ってのように 寄留しつつ生きる。いまだ 目に見えるかたちの祖国は 希望ではないからである。しかし 希望によってわれわれはすくわれている。
この内なる人の秘蹟(つまり 人間に即しては 第一の死→復活の約束としての回転)は 人間が 歴史の子であるというとき その滞留する愛ないし知解としてのかれの主観夢を 歴史観とするであろう。史観とは 当然のことながら 歴史に対する主観である。もしこれが 主観夢におけるいわゆる自己満足であると問い返されたならそれは 共同観念夢の中のにあって共同主観夢に停滞してしまった人びとの・異和をなだめきってしまった人びとの自己満足に比例してのように 発生するその影像であり 同じくそれは かれの共同主観夢形成のための試練の過程であると知るべきである。《わが神 わが神 なにゆえ・・・》と 神の御子でありかつわれらが長子であるキリスト・イエスの死にあやかり 同じく 向き変えられて その復活にもあやかった人びとは 途中で共同観念夢の古き館の饗応へ引き返した停滞する人たちに対して 寛容であることは いともたやすいはづであるから。
また ここでそれでもゆるしがたいのは 共同観念夢の世界にあって この死と復活を あの抽象アマテラス語において 先取りし もし真理が明らかになったときにも その自分たちの誤謬を訂正しまいとして 停滞領域の蜃気楼閣の饗応へ誘い込むことを止めない人びとである。また 共同主観夢において生きる人びとが それは自己満足だと言われて どうしても反駁できないとすれば それは このゆるしがたい言わばアマテラス予備軍たる人たちの結果に ゆえもなく甘んじるときである。
あたかも非武装中立地帯は――神の国と地上の国とのあいだに――ないから 人のゆえに欠陥を愛してはならず 欠陥のゆえに人を憎んではならず 欠陥を憎み人を愛してゆかねばならぬ。しかもかれは 欠陥はこれを徹底的に憎む。異和の補償力がこれをなすのだ。燃えるために熱いのではなく 熱いから燃えるのであり 車輪は回るから丸いのではなく 丸いからよく回るのだ。主観夢が 動態でありまた史観であるというとき ここにそれは生起している。またそれゆえ 保証金たる聖霊は 愛と言われるのである。神の愛の火に燃やし尽くされ なおも 燃え立たしめられた人びとは 必然的に 人を 自己と同じように 愛す。(ちなみに こういう必然もあるのである)。欠陥は 自己の内的に棄て また今後も棄てようとすでに努めているからである。
したがって 《・・・かれは争わず 叫ばず / その声を聞く者は大通りにはいない。 / ・・・かれは傷ついた葦を折らず / くすぶる灯心を消さない》(イザヤ書2:1−4; マタイ12:18−21)という人間キリスト・イエスについて言われた言葉が 生起する。なぜなら われわれの敵であるアマテラス予備軍にも 聖霊なる神が降ることをわれわれは祈るが それをなさしめたまうのは 神であるから。この自己満足は 異和の現実である。あの原主観の冪(連乗積)に等しい。つまり《わたしがわたししている》ことである。


ひるがえって 歴史に対する主観が 人間の主観の数ほど存在すると言うのは 易しく――また 事実もそうであろうが―― 今度は これもまた 歴史の子であるがごとく 歴史の一過程であって(あるいは 或る程度 段階的な各時代に対して まとまって従属的ないし相即的であって) この限りで それぞれ一つの類型(パラダイム)を 共同主観夢として かたち作っていると見ることができる。この想定の上に立てば――このような史観も 滞留するごとく――各時代に一つの固有の共同主観 sensus communis として 現われていると考えられる。
この一回だけの循環・反復作用は見るべきであろう。また もちろんこのような共同主観は 史観として 過去の諸時代のそれらが 蓄積・解消ないし発展させられたものであろうが いま史観は このような変遷の歴史にも及んでいると考えられよう。つまり社会的な共同主観とその一定の形態の変遷の歴史にかかわっている。さらにまた ここでは この共同主観の変遷史を そのまま直接あつかうことはしないが――わたしがその任に耐えないからという以上に 次のことすなわち――まづ この共同主観とそして共同観念夢との兼ね合いにかんして 史観の基本的な領域ないし形態を考察しておくべきであるとは思われる。また 基本的に史観は 《原主観と各自の個性》という主観夢において 共同観念夢との兼ね合いで自己満足を或る種の仕方で許容しつつも すでに完結している。というのは 共同主観の変遷史を仮りに完璧なかたちで理論体系化したとしても それは思想・科学の形態であっても 人間そのものではありえないからである。言いかえると みなが思想家であろうか みなが科学者であろうかとは 正当にも言われるべきであるから。
したがって人は 思想しなければならない。科学しなければならない。なぜなら ただちにあの原主観の領域にのみ逃避すべきではないのだから。――ここでは取りあえず 現代の共同主観形態と共同主観夢の一般類型との関係 したがってそれらと共同観念夢との関係を取り上げる。
次に 共同観念 muraïsme / nationalisme は この共同主観の停滞(諦念)したものと考えたい。たとえば 《自由》という主観・史観は それが滞留して かれが知解するとおりには 自由でないとき 滞留する愛は 《自由‐不自由(ないし非自由)》連関といった或る構造的な〔共同主観夢の〕時間過程をともなって 自立し この《自由》を保存するが これが停滞するとき 人は 共同観念夢の子となる。たとえば フリー・セックスというとき 共同主観は 当然のごとく 愛の《自由‐不自由》連関の過程にそくして それとして 行為される(ないし行為されない)が これが停滞するとき 《自由‐不自由》連関といった構造的な過程の知解は 言わば眠りに陥るごとく なだめられ 寝かしつけられ 停滞性(諦念)のなかでの《フリー・セックス》という観念および行為(非行為)として 行動される。自由な愛は 共同主観としても そして 共同観念としても 思惟されることはありうる。


主観・史観の停滞が その構造が消滅させられ 諦められ思われるとき この停滞性は しかしそこで 言わばそれ独自の思惟・概念構成をおこなわないというわけではない。諦念によって観念として得られた主観は――眠れる主観は―― たとえば《愛の自由》という主観を 或る一定の枠組み(やはり 観念である)の中で その禁止と自在といった・行為形式の範型としてかたどる。《愛(意志)の自由》に対する禁止と自在といった一定の模型を 一定の枠組みの中で 概念構成する。
《一定の模型(パターン)》とは 慣習・掟・律法である。《一定の枠組み》とは 地理的に 一定の地平(ムラ / イエ・ナシオナル〔国家〕)である。観念的な一定の地平とはまた 原則的に 言語(ないし民族)である。一般に ムラないし国家もしくは 企業というイエが この観念の共同性の枠組みとして まづはそれなりに落ち着いた領域であり 停滞領域・領域停滞でもある。一定の地域および地平の中で この観念の共同性は たとえば《愛の自由》という元の主観に対して 言わば平面的に(ということは それがあたかも 或る客観であるかのごとく) いくつかの禁止条項を与えて(だから それとそれ以外の自在事項とのあいだに あの元の構造をかたどって 平面的な構造――平面的な構造である――を作り出し) 《自由》に対して一定の範型を 構成する。
《自由》の滞留に耐えられないかのごとく これを諦念する主観は 停滞の構造をかたどるのである。朝から次の朝へ 自由に吹く風は しかしながらそうではなく 《或る朝を 諦念しこれを停滞させて 昼と夜を見出し それ独自の〈一日〉を構成するところ》を 見守っている。禁止と自在 昼と夜 という平面的な構造を思惟しつつ 一定の《一日》の概念構成が 人びとによって思想・科学的にも 設定されていくのである。
この概念構成は 停滞する主観 つまり 観念として 一定の枠組みを求めつつ その落ち着き先を欲する。これを ムラないし国家が たばねるというように枠組みは求められ 《観念》の行為は 禁止と自在といった範型の律法化とともに 落ち着き先を見出す。これが 共同観念である。そこに 永遠のいのち(国家主権)を見出すというのが 共同観念夢である。共同観念は このような一定の地平における掟・律法による〔罪の・あるいは滞留から停滞となった退屈さの〕共同自治の様式である。
(つづく→caguirofie070616)