caguirofie

哲学いろいろ

#60

もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416

第十八章b むすび

ここ(前日)では すでにわれわれは めぐみを享けていると言われているかのようである。すでに ホワイト・テンプルは確立されていると言われたようなものである。すでに 前史の慣性的必然の世界から 向きを変えられ 後史に入っていると告げられているようなものである。一人の母親レベカ〔と父親イサク〕から生まれた双子について まだ生まれていないときに 《兄は弟に仕えるであろう》と言われた(母がその声を聞いた)ことは 神の恩恵がすでに与えられていると言われたようなものである。
自由意志は ここに生起する。それは ちょうど 木に懸けられ のろわれた者となって死んだイエスがここに復活して来て 自由意志の曲がる光による前史の必然性に労苦し膝を屈しているきみに手を差し伸べ きみを起こそうとしているようなものである。ゆえに 神の予知または恩恵が第一であって 自由意志は・または行ないは 第二である でないなら 宇宙を知り宇宙の原理を究めようとする科学は むなしいものとなり 自由意志の社会的〔その行為の〕諸関係を問い求めようとする社会科学の営為は 知を人間のものとする学問( discipline )ではなく 無知に依って無知をひろげる学問(いまその意味での sciences )となって滅び去る(もしくは人間を滅びさせる)ようになるとことは 請け合いだとさえ言いたくなる。学問にも ヤコブエサウという双子の 二つの行き方がある。
このことは 《兄は弟に仕えるであろう》と恩恵の中で聞かれたことは 神がそのように なにか不正をはたらかれるのではなく めぐむ者とめぐまれる者との一致の道を告知したまうためである。社会科学的な・つまり政治による めぐむ者とめぐまれる者との一致の関係が(そのような幻想と共同観念としての和が) 第一ではないと考えられる。
けれども 経験的なそのような共同自治は また時に支配と被支配の関係でさえ それが 或る種の仕方で 〔平〕和を保持するのである限り 有効だと言われた。《ひとりの人が人びとに代わって犠牲になる》そのやり方が現われるところでは それは 盗人であり無効であると考えられる。
しかし なお心のかたくなな人たちに対して 真理の道の恩恵を明らかに悟らせようと考えたまうた神は――といっても かれは なにか時間的に それではというので 思惟を旋回させて 考えたまうわけではないが――

モーセ

わたしは自分があわれもうと思う者をあわれみ
慈しもうと思う者を慈しむ。
出エジプト記33:19)

と言っておられます。
パウロ:ローマ書9:15)

また パウロは別のところで

わたしたちは 救われる者にとっても 滅びる者にとっても 神に対するキリストの香りである。前者にとっては 生命から生命に至らせる香りであるが 後者にとっては 死から死へ至らせる香りである。
(コリント後書:15−16)

と語って エサウヤコブのそれぞれの道を分け隔てるためにではなく 恩恵によるヤコブの道を 与えるために それもゆたかに与えわれわれが受け取るために 良い羊飼いを示してくださる。《生命から生命へ至らせる》と語られたなら これまで言ってきた《前史かr後史へ》ということも すでに前史で恩恵を享けて 後史へ回転させられていたとして 神の予知をわれわれは 自由意志によって・あるいは自己に逆らってでも みとめなければならないであろう。
こう言うことによって わたしたちは 時に神がかりとも見られるような乳飲み子の信仰から――そのときには まだ 神が何を考えておられるのか わからなかった―― 強い視力を与えられて《現実》を見ることのできる光の子らとなることでしょう。神がかりのような乳飲み子の信仰というのは むろん縄文人の自然一体の信仰のことです。言いかえると 弥生人の・時に曲がって来る光を 避け得ず これに突き従う(または 外なる怒りの子らとして 反対運動をくりひろげていく)〔弥生人の〕縄文人的な交換経済主体の情態のことです。反対によって自己を表現し尽くそうとする資本主義社会人のことです。


ところが 《兄は弟に仕えるであろう》と言われた。それは 神の言葉が母親レベカに臨んだのである。〔と噂され――井戸端会議され―― 伝承された。つまり そのような臆測(共同主観)だけで十分によい〕。しかもこのことは まだ双子の兄弟が生まれる前に 告げられたのである。〔と共同主観されていった。つまり 経験的なあの歴史知性が この噂を生んだのではなく この噂からむしろ歴史知性が生まれたとも言うべきであって 一般に歴史知性も 理性的に・あるいは自己をむなしくしてかつ理性的に この共同主観を 意志の自由選択において みとめたのである〕。
ここで 現代では 母親レベカは 抽象的に 前史の母斑の世界一般であると考えられ 父親イサクは 歴史知性なのであり 具体的には レベカとは《弥生人》の交換経済社会 イサクは同じく弥生人の・または近代市民のキャピタリスム政治経済学(知解行為・科学)である。ここで 《兄は弟に仕えるであろう》と あの原理の観想・つまりそのめぐみの受け取りが 噂されたのである。事実 兄である古代市民の国家統治者たるアマテラスは 弟であるスサノヲ・キャピタリストたちに仕えるようになった。あるいは なおもこの噂の本質を追究する人びとは スサノヲ・キャピタリストたちの中に 兄たる資本家的市民と弟たる労働者市民とを見ようとしたのである。
このことは 次の二点を表わす。兄弟は同じ一人の母親(前史母斑の世界)から生まれ出たのである。同じく 第二点の 当然のこととして むしろかれらが生まれる前から つまり かれらが 何ら勤勉(=産業)の《おこない》を営み善行を積んだかどうかにかかわりない時に むしろ《恵み》の歴史動態として そのような声として聞かれ 噂され また 人間の知恵ある歴史知性も これに何のちゅうちょもなく 同意したのである。


ちなみにマルクスの言うのには 《自己疎外(交換経済社会の矛盾)の止揚は 自己疎外と同一の過程をたどってゆく》 《ソシアりスムは キャピタリスムの発展としてその中から生起する》という意味の一つの観想であったにほかならない。ただしマルクスは 神の予知・恩恵を 少なくとも括弧に入れてしまい これを明らかに思惟して示すことをあまりやらなかった。また かれ〔の時代〕が見ようとしたソシアリスム観がそのまま現代に通用するものであるかどうか これは 歴史知性の相対的な次元の問題であるから われわれはよく吟味してかからなければならない。むしろ 噂・井戸端会議といった民意(インタスサノヲイスム)が これをよく形成し再形成してゆくであろう。民意が《弟ヤコブ》であるというのに不都合はない。


これが 《めぐみ》とわれわれとの関係の素描である。つまり めぐむ者とめぐまれる者とのむしろ霊的な一致という問題がそこにある。歴史知性・おこない・科学は この霊的な噂(共同主観)に従うほうが より科学的であり自由である。(もちろん 科学の真実の知解を曲げよということではない。そちらは 意志の自由選択の問題に 固有に属する。最終的には すべて 先行するめぐみに後続するところの自由意志の問題である――つまり 一般的な議論では 神を持ち出す必要はなくなるであろうような――となると考えられる)。
原則を繰り返して注目しようと思えば 恩恵が第一であって おこないは第二である。《自分の部屋に入って 戸を閉めて》よくこの観想を むしろ主観(固有の時)において形成しなければならない。基本的にはこのホワイト・テンプルは 交換経済社会人としてその戸をすでに開いているのであるから 縄文人のような呪術信仰的自給自足生活に低迷することでないことは言うまでもなく 外なる曲がり来る光を それと交通しつつしかも さえぎり 逸れて通過させるという生活動態が言われていると思われる。
これでもわれわれは 光の曲折にも似た身体の重圧のもとに この世にあっては生きているので 完全なホワイト・テンプルとはされない。しかも すでにそれへと変えられる(キリスト・イエスに似る者となる)恩恵を享けていたのであるから 前史の必然性(身体の罪の慣性)を恐れてはならない。しかも 誇るのならば われわれの弱さを誇ろうと言うのであるから さらに謙虚の模範に属きつつ 主よ早く来てくださいと内に声を発して祈る。この過程において――この新しい歴史において―― すでにつまづきがないなら わたしたちは完全な者である。あとは 経験世界の複雑怪奇がわれわれを待つのみである。
われわれは めぐみの原理の香りであると言われ もし 怒りの子ら 不従順の子らが 曲げた光を真実の天使のように差し出して来るなら それは この光を《死から死へ至らせる香り》でわれわれが在ると聞いたことになる。(そのとき われわれは 光の曲がり・疑いの知性・その思惟形式に対しては 怒り・憎しみ しかも徹底的に憎み 光と知性の主体を愛していく――敵をこのように愛していく――。憎む・怒るというのは めぐみを享けるべき人間の自然本性について 疑いがないゆえ 疑いの知性のそのあり方・おこないについて 自己の見解を表明して 対話において 自分はこれこれをまちがいだと考えると 指摘してあげることである。相手がはっきりノーと表明するのなら 放っておかねばならない。つまり 日常事務的な交通をおこない 俟っているのである。これが 無関心でない証拠には 相手がふたたび対話にもどったなら いつでも その井戸端会議に入る。あるいは 対話にすすんでくるのではなく相手が むしろまだ疑いを絶やさず ある意味でいろんな形で われわれの足を引っぱるのなら 相手の欲求するところの倍のかたちで 相手の足引きに応じてゆく。まづは したいようにさせる。《右の頬を打たれたなら 左の頬も・・・》である。・・・)
われわれは このことの原理を絶対にうたがってはならないのである。また 原理によって恩恵を享けたことを 自分について 確信しきってしまうべきではない。それは 信じているのであり 信じているのだが 原理なるお方を いつの日か顔と顔を合わせて見まつるであろうとき そのときには 信は 消えているからである。かつて そのような信があったという記憶のみが残るのであって――また そのときにも愛はつづくのであって―― したがって いま現在では 神の国への受容を 確信しきってしまうべきではなく むしろ 大胆に謙虚の模範なる方の座に近づく。このうわさが 新しい人びとの常識となるであろう と言おうと思えば これが わたしたちの預言である。
われわれは 何か理性に逆らって 非科学的なことを言ったであろうか。もちろん 人生は 謎である。けれども この謎において鏡をとおして 真理を見まつろうと噂することを放棄しまたちゅうちょし たえず部分的な知識によって科学の再生産をしていくとするなら それはもっと あやまった謎に満ちており不可思議にして神秘でありお化けである。われわれは何か 宗教家のように キリストを信じよと言ったであろうか。われわれは このたしかに恵みに満ちたもっとも平凡な常識(歴史知性の共同主観)を だからむしろ 顕揚し 顕揚しうることをたしかにキリスト・イエスに(かれのほか誰からもおそわったとは思えない)感謝しつつ この本としては一区切りを打ちたいとねがう。
(完)