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もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416
第十七章f 神の国の歴史的な進展
・・・だから こう祈りなさい。
わたしたちの父よ
あなたの名を尊いものにしてくださいますように
あなたの支配(神の国)を行き渡らせてくださいますように
あなたの意志のままに行なってくださいますように
天におけるように地上でも。
・・・(マタイ6:5−15)
とイエスが示したことは 宇宙の原理をたしかに 科学知識をとおして知って そのめぐみ(恩恵・自然史的過程の中での後史への回転基軸)に感謝し そのまこと(真理)に属くこと そのように神の予知を人びとがみとめるようになり 同時に人間の意志の自由選択をただしくみとめる人びとが地上で人間的な動機にも関連して あなたの愛の推進力の中に憩うことが出来るようになりますようにと言って生きる生活原理の実践の中に見つめられていくものと考えます。
祈りじたいは 《主よ 来てください》(コリント前書 / ヨハネへの黙示22:20)という一句に表現することができると考えます。
これに関して言わなければならないことは 第一に 《主が来る=宇宙の原理が人間に宿る》ことが 社会ないし歴史一般に起こることと 一個の個体である《わたし》に来ることとは 当然のごとく別である。第二に 主がその神性をむなしくして肉となったということとは 神性が或る別様のもの=有限な人間性にそのままそっくり変わってしまったことではなく 宇宙の原理は不変であって このことが明らかに見られ まおかつ人間が かれを 自分の自由意志によって受け取るようになるということでなければならない。
第三に そうであるならば 《主が来る / 天の雲に乗って来る》というのは すでに論じたように 幻想の阿弥陀如来が精神を支配することではない。言いかえると 科学的・理性的な知識によっても ますます宇宙の原理が明らかになってゆくことでなければならない。これが 社会ないし歴史一般に《行き渡らせてくださいますように》と われわれが欲し 時にそれへと走ることでなければならない。《欲する者にもよらず 走る者にもよらず ただあわれみたまう神による》(ローマ書9:16)というのは 宇宙の原理に属くことに到達するためである。これを実現した人間は まだ一人もいないあ。逆に 聖徒たちは 主キリスト・イエスに 人間として似る(似るというからには そこに不類似を見ている)者になったとわれわれは 信じている。聖徒の《聖 sanctitas 》というのは 《確立 sancire された》という意味である。そのように《主がかれらに来られた》という意味である。
第四は 幻想のカミ――もとわかりやすく言うと 人間の英雄――が われわれの精神および身体を支配するのではないということが 次のことを表わすものでなくてはならない。人間キリスト・イエスとわれわれは 非常に不類似な存在であるが かれにわれわれが似る者になるであろうと言われたというのは これまでにも見てきたように かれにわれわれが属くということ すなわち その真理の霊が与える者と与えられる者との一致があるということである。
神の支配(神の国)は 神から来て神である聖霊をわれわれが与えられることにおいて 幻想(幻想の宗教)の支配を脱して 宇宙の原理との関係においてわれわれが自由となることでなければならない。キリストの奴隷となることが 抽象的観念の(たとえば貨幣 あるいは 自分たちの民族性の)支配から自由になることでなければならない。《キリスト・イエスより前にやって来た盗人たち》は この観念幻想による支配へとわれわれを渡そうとして登場するのである。その手口が イエスの手段とよく似ているのである。
- ブッダは あたかもイエスを言表しないで 自己がこの地上で聖なる者となるという過程を生きようとした。これを 心理学的に形而上学的にまなぶこと(実践を含めよ)は 一般に科学的知識の獲得行為に属する。ブッダあるいはかれの教説を 支配の道具とするのは 盗人たちの仕事である。そこには 抽象的観念の支配と幻想の王国がある。
第五に 《主よ早く来てください》と発することは 誰も謙虚でなければ為し得ない。われわれが謙虚であるということは 身体を離れてこの地上を抜け出してではない。言いかえると 空気のような身体をもって 道徳の抽象的な美意識によって 《主よ早く来てください》という文字に酔うことではない。そうするなら これも盗人たちの仕事である。つまりかれらは 謙虚ではない。
と論じることは 人間として 謙虚ではないのでしょうか。このことを ここでは次に論議してみたいと思います。
だから あなたは祈るときには 自分の部屋に入って戸を閉め 隠れたところにおられる父に祈りなさい。そうすれば 隠れたところで見ておられる父は あなたに報いてくださるのだ。〔また あなたたちは祈るときは 異邦人のようにくどくどと述べる必要はない。・・・〕
(マタイ6:6^7)
これは イエス自身の語ったことばとして マタイが記したものである。
つまり 《一人の人間が人びとに代わって犠牲になる》やリ方で 謙虚を説き 支配の手を伸ばすのは 盗人たちの仕事であり これは 謙虚ではない。また 他方 この盗人たちのいる地上を抜け出し 自己の身体を離れて 主よ来てくださいと抽象精神的に美におぼれて祈るのは 自分を殺すことである。つまり 謙虚ではない。
しかるに イエスは 《自分の部屋に入って戸を閉め 隠れたところにおられる父に祈りなさい》と言った。父は 部屋の外にはおられないのだろうか。部屋の外にいる人びとにも言葉をかけることは したがって 謙虚ではないのだろうか。イエスは 《自分の部屋の戸を閉めよ》と言うとき 謙虚になって 良い羊飼いのまねをする盗人たちの言うことを知らないと言え つまりかれらが何を言っているかをむろん理解するが それに賛成しないと心で語れと――そしてそうしているなら われわれは たしかに外にも出かけていると――いうことでないなら あの達磨のように密室で壁に向かって一生を祈りつづけなければならないでしょう。
また 形態的な家の中の自分の部屋の内と外とを 使い分けることであってもいけないでしょう。ここで 謙虚ということ つまり《主よ来てください / この地上にも神の国が来ますように》という祈りは 生活の動態にほかならず なかなか伝説どころの話ではないことを 把握しなければならない。
言いかえると われわれは むしろ怒りを絶やしてはならない。謙虚になるとき――キリストの奴隷となるとき―― われわれは あのホワイト・テンプルの怒りを正当にも発する。この怒りは 本気で発するのである。本心は 愛である。本源は 信仰(恩恵によって与えられる)である。だれも 謙虚でなければ この怒りを発することは出来ないでしょう。(また 金持ちにはなかなか難しいと言われた)。
怒りが 意志の自由選択なのです。これを 神の予知を認めるのと同時に みとめないならば われわれはむしろ 謙虚になることが出来ない。つまり 主よ早く来てくださいと言う神の予知の中に入れない。しかしながら この怒りを わたしたちは 《自分の部屋に入って戸を閉め 隠れたところにおられる父に祈り》つつ おこなうのです。つまり 怒るべきその相手を どこまでも愛していくのです。《隠れたところで》 その敵が 前史から後史へ回転してくることを待っているのです。ここに 人間の真の歴史がある。ここでは だから われわれの精神あるいは身体には 内なる自分の部屋と 外なるものの他人の部屋とがあると言われているようなものである。ホワイト・テンプルがこのように構成されていると考えられるようなものである。そして 無関心は 死である。
怒りという言葉には それにまつわるマイナスのイメージがあるので 異論のある人は わたしの議論の中の過ちを指摘してほしい。《曲がって来る光を 知らないと言う》というのは このような動態であるとわたしは考える。これによって その光の主体である他者を 愛してゆくのだと考える。わたしの議論で怒りによって 謙虚を表わすといったことが 他人を軽蔑するであるとか無視するであるとかという意味を伝えたとするならば わたしはその誤りをみとめなければならない。そうでないことを わたしの言葉では 怒りを表わすことによって 人を愛してゆくのだと表現するのです。これによって 謙虚の模範にしたがう 詰まりこれによってでなければ 謙虚になれないと いま 経験科学的に 考えられた。これは 処生術のような議論としてであります。
長くなりましたので 章をあらためます。
(つづく→2007-06-13 - caguirofie070613)