caguirofie

哲学いろいろ

#59

もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416

第十八章a むすび

処生術ふうの議論になったところで わたしたちは新しい段階に入ったと言えると思います。そして ちょうどこの本としては 一冊にまとめる意味で むすびを述べて終えることにしたいと思います。
主題においてきわめて粗雑な議論をしてまいりましたが 生活原理の問い求めとして少なくともその問い求めの場を明らかにすることにおいて 一貫した議論をつづけて来られたと考えます。主題をあちこち飛んでも 人間もしくはわたしという一つの焦点を持続してゆくことができる――いま振り返ってみれば そのようにまづ まとめたいというのが ここでの骨子でありました。



この結びでは 宇宙のはじめのビッグ・バンにおける 原始の光たちの原理(原動力)たる《光》つまり神ですが――つまり これは 実体としてではなく そのように表現するのがふさわしいというような形でいいわけですが そうして 信仰において 実体だと想定しての議論もありうるということですが――つまり神の子であるキリスト・イエスを通じて知られる神 これについて取り上げ さらにその中から 子なる神にかんして 説明しうるところを考えてみたいと思います。
神は 父と子と聖霊であり しかも三つの神ではなく 一つの神であり 二つ目のペルソナが この地上に派遣され イエスという人間となったということ かれが キリストとして 《めぐみとまこととに満ちていた》(ヨハネ1:14)と言われることにかんして さらに考察しておくことがここでの目的です。
原理というのであるから 原理ということが認められるなら それは 《まことに満ちている》真理であるということは 或る意味で易しい。原理というものが認められるなら このことは むしろ同一のことを示しており 公理である。
次に 《めぐみ》が宇宙のおのづから成る自然史的な過程であるという意味では この《めぐみに満ちていた》というのも 同じように うなづける。自然のめぐみとか 人間であることのめぐみとか この意味では 上の公理とむしろ同義である。
それではというので 何が問題かと言えば 神学的に言うと かれキリスト・イエスをわれわれが飲みまつるという動態(生活原理) ふつうの言葉でいうと 原理とわれわれとの関係 つまり 宇宙原理の《めぐみ》とわれわれとの関係(やはり動態)ではないだろうか。《めぐみ》という言葉の抽象的な概念・その美・あるいはそういった意味での何らかの観念的な力・さらにあるいは 自然(外界の自然)のめぐみを享けるときそこにわれわれが持つところの或る種の感慨(自然賛美など)が 必ずしも現実的な生活動態ではなく 少なくともその全体ではないであろうからである。
人間の存在(本質)にとって あるいは社会や歴史の総体として そこには 《めぐむ》者と《めぐまれる》者とが 関係動態として在るというのが 原理ないし真理を大前提とするならば その全体でなくてはならないであろうからである。つまり これを耐えず意識せよということではなく 原理の観想としては むしろ基本的に問い求めておくべきことなのである。
これに対しては 聖霊を与える者と与えられる者との一致があり そのように キリストの奴隷となるとき人間は 完全な自由となると考えられた。――また この《めぐむ・与える者と めぐまれる・与えられる者との霊的な一致》を 先取りしてのように この世の共同自治の中で その考え方をもって 《支配する者と支配される者との関係》として なぞらえたり 擁護したりするいわゆる盗人の知性も 出てくることが考えられた。――そういう観想の意味表示するもの(内容動態)が われわれの第一法則であった。この《めぐみ ないし 恩恵》について吟味しなければならない。
《めぐみ》が《神の予知をみとめること》であるとすると 《人間の自由意志による選択をみとめること》は 一般に《おこない もしくは 行為》の問題である。すなわちめぐむ者によってめぐまれるという人間の生の過程は――ただし めぐむというのは 恩恵 gratis というように 無償で gratis あたえられるのである。また同時にイエスが犠牲となったのだから 人間が死ぬというの高価な代償が払われたことでもある――その生の過程は 自由意志によるおこない(行為関係)の過程でもあるから やはりこの意志の自由選択ということと神の予知ということとの関係を――そのときわれわれは これら両方をみとめたのであるから―― かんたんになおざりにしないで 問い求めていなければならないであろう。
パウロが明らかにして伝えたことは 次のことです。

〔そればかりではなく〕 レベカも 一人の人 つまりわたしたちの先祖イザクによって身ごもった場合にも 同じことが言えます。その子供たち(エサウヤコブの兄弟)はまだ生まれもせず 善いことも悪いことも行なっていないのに 自由な選びによる神の計画は続き それが人間のおこないではなく お召しによる神によって進められるということが明らかになるように 《兄は弟に仕えるであろう》とレベカ(=かれらの母親)に告げられたのです。

  • わが古事記では オホクニヌシに対して あのイナバの素兎(しろうさぎ)が 求婚の相手である《ヤガミヒメを 兄たちは得ないで 弟のオホクニヌシが得るであろう》と告げている。そして事実 兄のヤソガミたちは 追放されるようにして 弟に仕えることとなった。その他 このエサウヤコブの兄弟のように双生児ではないのだが いくらかの変形を持ちながら 海幸彦と山幸彦 あるいは 大雀(おほさざき)と大山守と宇遅能和紀郎子(この場合 三人の兄弟) あるいは 秋山の下氷壮夫と春山の霞壮夫 また古事記のほかでも 天智天皇天武天皇の兄弟などなど 兄弟関係の歴史が物語られているのを見る。

聖書に

わたしはヤコブ(弟)を愛し
エサウ(兄)を疎んじた。
(マラキ書1:2−3)

と書いてあるとおりです。
パウロ:ローマ書9:10−13)

つづいてパウロが 《それでは どうでしょうか。神は不正なかたでしょうか》(同上9:14)と論じていくところが ここでの問題です。
アウグスティヌスの言うところによると

またこのことを使徒パウロ)はしばしば 《行ない》の前に信仰の《恩恵》を置くことによって あかしているのであるが それは行いを否定するためではなく 行ないが恩恵に先行する(――《イエスより前に来る》――)のではなくてそれに後続すること すなわち だれも 善い行ないをしたから恩恵をつかむのではなく むしろ信仰によって恩恵をつかまなければ 善い行ないをすることができないことを示すためである。
アウグスティヌス:シンプリキアヌスへ 〈第二問 パウロの恩恵論〉)

これら結論をまづはじめにかかげて われわれの吟味をおこなっていくことにします。
アウグスティヌスにしたがいます。

そしてこのことについて使徒は まだ生まれていなかった者たち(ヤコブエサウ)を引き合いに出したのである。というのは だれも《まだ生まれていなかったヤコブが行ないによって神に対して功績を持っていた》と言うことはできないからである。それは神によって《兄は弟に仕えるであろう》と言われているとおりである。
・・・

しかしわたしたちの父祖イサクとの一回の性交によって受胎したレベカの場合も 同様である。
(ローマ書9:10)

使徒は非常に念を入れて《一回の性交によって》と言っている(実際 双子が受胎したのである)。それは だれかが 《父親が 母胎にかれの種子をつけたときに 特定の情態にあったから あるいは 母親がかれを受胎したとき 同じように特定の情態にあったから このような息子が生まれたのだ》と言うかも知れないので ヤコブの誕生を父親の功績によるものといないためである。
・・・以上のことは 神の恩恵を感謝せず 自分たちの功績をあえて誇っている者たちの傲慢をうち砕き根絶するために 書かれているのである。《まだかれらが生まれもせず 善も悪もしない先に 行ないによらず 召したかたによって 〈兄は弟に仕えるであろう〉とかのじょに言われたのである》(ローマ書9:11−12)。したがって 恩恵は召すかたによって与えられるのであるが 善行はその恩恵を受けた者が後からなすのである。
そして善行が恩恵を生み出すのではなく むしろそれは恩恵によって生み出されるのである。というのは 火は熱くなるために燃えるのではなく 熱いから燃えるのである。車輪は 丸くなるためにまわるのではなく 丸いから よくまわるのである。それと同様に だれも恩恵を受けるために善行をするのではなく 恩恵を受けたから 善行をするのである。
アウグスティヌス:シンプリキアヌスへ)

《それでは 神は不正なかたでしょうか》と問いを発するとき アウグスティヌスがつづいて語るのは 《いったい すでに義(あるいは 自由)とされていない者が どうして正しく生きることができようか。すでに聖化(ホワイト・テンプルの確立)されていない者が どうして聖く生きることができようか。あるいは すでに生かされていない者が どうして真実の意味で生きることができようか。

だが 義とされた者が正しく生きることができるためには 恩恵が義とするのである。それゆえ 恩恵が第一であって 善行は第二である。他の箇所で次のように言われているとおりである。

しかし 働く人には 報酬は恩恵としてではなく 当然の支払いとして認められる。
(ローマ書4:4)

アウグスティヌス:シンプリキアヌスへ)

という答えである。
ここでは すでにわれわれは めぐみを享けていると言われているかのようである。すでに ホワイト・テンプルは確立されていると言われたようなものである。すでに 前史の慣性的必然の世界から 向き変えられ 後史に入っていると告げられているようなものである。一人の母親レベカ〔と父親イサク〕から生まれた双子について まだ生まれていないときに 《兄は弟に仕えるであろう》と言われた(母がその声を聞いた)ことは 神の恩恵がすでに与えられていると言われたようなものである。
(つづく→2007-06-14 - caguirofie070614)