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哲学いろいろ

#45

もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416

第十五章b 神学と 歴史ないし社会力学

アウグスティヌス《告白》の第十三巻は 《創世記》巻頭のことばを 現代(アウグスティヌス当時)の視点に立って 解釈している。当時の科学的知識にのっとって解釈している。要するに 聖書は とうぜんのごとく 物理学的ななどの現象にかんする原理を問い求め 観想し 人間のことばで表現したものであるから 経験科学〔の知識の発達〕に応じて それらに基づいて 解釈することができる。
後史の歴史知性が獲得した生活原理にのっとって その限りで いろんな解釈ができる。知られ得べくして知られ 有益であるようにして解釈が与えられる。いまの問題は――聖書も 確かに 歴史を語っているのであるから―― これらの原理の観想と 社会的な歴史(また歴史観)との兼ね合いということである。
ただ ここではもはや(あるいは やはり) 具体的な歴史の流れに細かく立ち入るのではなく 社会力学といった形の基礎理論として わたしたちは省察をおこなっている。国家を主張する根拠 また 国家に反対する根拠を考えてみるときに 国家が一つの共同の幻想場であるとしたなら――このこと自体も検討しつつ―― むしろおとぎ話をもって対処するのがよい。そしてそれは 歴史――わたしたち一人ひとりの・生活の――の出発点を吟味するという内容になっているはづであり そういった議論の一分野が あるはづであり これをもって 人間の科学に貢献しうると考えられた。こういう情況です。
聖書が 現代の科学の知識になおわが国の古事記は 歴史〔科学〕的なまた自然科学的な知識とともに 生活原理の視点を導入して解釈するなら なお生きると考えられる。つまりもしくは 総じて 古事記の視点が転倒しているのではないか などと考えられるかたちでである。というのが おおざっぱな見通しでした。
逆に言うと 古事記等では 慣性系(必然の王国)と非慣性系(天使・思想として自由の王国論)との両視点が ごっちゃになっていて その意味では 生きた社会力学が物語られている。その底にある原理 これの観想(つまり信仰)をよくおこなう人びとは わざわざ原理の基礎理論を聞かされなくても 生きた自由な生活原理をあたえられて すでに生活している。言いかえると 聖書のように むしろ信じない人びとのため 疑いの知性なる人びとのため 自由の後史の道は開けられているといった類いの書物である。
しかしながら 信じる人といえども われわれの眼は弱いから 強大な光に対しては まぶしくて眼を開けていられない。そこで聖書は その原理論をもって われわれを日から日へ 訓練して 宇宙の真理へと眼をは開くように導くというわけである。古事記のような書物も したがってつまり両方の種類が 必要であり有益である。つまり 誰もが これら・またさまざまな書物を学ばなければならないというよりも たしかに社会力学の総体の中で 役割分担があって 学者とか理論家とかといった職務につく人びとも存在して必要であるという寸法です。
ある人は記憶能力が抜群である。またある人は 知解能力に長けている。しかし他の人は その愛の力が優れていて ほかの能力を凌駕するということが 起こるのです。けれども それらの社会力学にはたらく生活原理は 一つである。また ここには 前史と後史がある。つまり《切りたった淵の中に落ち込んでゆく情欲の重さ》の慣性にしたがう世界と 《そこから引き上げてくださる聖霊による愛のはたらき》によって成る世界。そして後史は 前史の慣性系の中の光は 時に曲がっていたということをよく見させる非慣性系を明らかにする一般相対性理論を持つに至った。神の国は この世にあっては この地上の国と(宇宙の経験的な世界と)混同し入り組んでいる。
つまりわれわれ自身 あの《淵》に立っていた。このことを見うる人は なお淵にいる人びとに対して 自分を愛するのと同じように 愛することは容易である。比較的に容易である。ただ この愛を自分にその起源があるといって――あの歴史的な知性とその起こりは わたし自身の発見であり発明であるといって―― 自分の力で むしろその身体を空気のようなものと為して(火をつけられてモノは上昇するから) アマガケリして行く人びと このアマガケリがほんとうの後史だと思っている人びと すなわちもはや自分は 淵にはいないのだと言いつつ 雲を突き抜け ますます人間的となり いよいよ人間的となりつつ 同時に 深い闇に至る径を歩んで 歴史的知性の(ふつうの常識の)弱き人びとの愛を疑いつづける人びと この疑いの知性によって社会力学の総体を主宰しそのように世界を得たと思っている人びと――
つまり 慣性の法則以外に――結局は――この世に何もないのだから その法則にのっとっての社会的な支配関係こそが この世のすべてだと言って ますます支配欲の重さに支配され より深い淵に沈みゆく人びと これらの人びとの疑いの知性を われわれが耐えることは 容易なことではない。かれらも たとい小部分ではあっても 慣性系の世界(無常・世間)から脱け出ようと 真理を問い求め それに触れ得た人びとなのです。かれらがなおも 疑いの根を 断ち切らず むしろそれを張り巡らし 膨張をつづけるとともに 自己の結局は呪術的自給自足主体性の殻の中へと収縮していく そしてこれによって 社会を統治する ことに対しては われわれは 正直なところ 寛容でいることは じつに難しい。俟つことは 容易ではない。驚嘆してあげなければならないし ほほえみを返してあげなければならないし 失望の色を見せてあげなければならないし また しらけて見せてあげなければならない。われわれは たしかに そこで 死なしめられる。あの原理に見捨てられる。だが この見捨てられることじたいにおいて 原理はわれわれのことを見捨てたまわなかったという新しい歴史が生起してくるのであったわけです。

はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく むなしく 闇が淵のおもてにあり 神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は《光あれ》と言われた。すると光があった。神はその光を見て 良しとされた。神はその光と闇とを分けられた。神は光を昼と名づけ 闇を夜と名づけられた。夕となり また朝となった。第一日である。
(創世記 1:1−5)

《原始の光》またそれから分化した言わば種々の光 これらは曲がりうるというのが 自然科学という人間の理性の光で 明らかになった。これがまづ 第一点。

はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。この言葉ははじめに神と共にあった。すべてのものは これによってできた。できたもののうち 一つとしてこれによらないものはなかった。この言葉に生命があった。そしてこの生命は人の光であった。光は闇の中に輝いている。そして 闇はこれに勝たなかった。
・・・
すべての人を照らすまことの光があって 世に来た。・・・そして言葉は肉体となり わたしたちのうちに宿った。・・・
ヨハネ福音1:1−18)

原始の光またこれから分化した種々の光は 物体である。物質の運動である。この光〔という人間のことば〕で同じく表現するところの・物質としての光の運動にかんする原理がある。これを 神また神の言葉と表現する。自然科学という人間の理性の光が明らかにした 物質的光の原理は 《肉体となり わたしたちの内に宿った》と観想された。言いかえると 原理・真理・その言葉はこれを 人間の理性の光が分有することが出来ると考えられた。これが 第二点。
第三点は したがって こうである。物質的光は曲がりうる。光と分けられ夜と名づけられた闇との関係の中に その光は存在し運度している。この物質的光が曲がりうるというのは その重力の経験法則としてのごとく 切りたった淵の中へ落ちこんでゆく情欲の重さであると了解された。光の原理の 人間による分有が問題となった(第二点)のだから。
この理性的光による人間の了解は これをただ知識としてではなく その理性の光が 光の原理を 力としても 分有しうるものであるということは 物質的光が曲がりうる=つまり情欲の重さで淵の中へ落ちて行き得るという経験世界だけではなく その同じ経験世界において 曲がりうる光を認識することができ 物質的光の相互作用の中で逆に 情欲の重さなる光はこれを われわれの身体のかたわらで 曲げて通過させることができる これを意味していなければならない。
すなわち 《光と闇とが分けられ 光は昼 闇は夜とそれぞれ名づけられたが ここで つまりこの同じ経験世界の中で 〔人は〕〔時間的存在として生きるゆえ〕夕となり また夜となるが この夜へは渡されず 次の朝を迎える》と言われたことになる。
整理するなら。――
(つづく→2007-05-31 - caguirofie070531)