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もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416
第十五章c 神学と 歴史ないし社会力学
整理するなら。
まづ 物質としての光がある。(そして 原始の粒子ないし一般に粒子・物質がある)。〔この光や粒子から成る〕人間に理性の光がある。これら物質的光と理性の光との原理としての光がある。(想定です)。物質も理性の光も 原理としての光によって出来たものである。言いかえると 理性の光は 原理としての光を分有することができる。
重力が関係するとき 物質としての光も理性の光も曲がりうる。それは 人間としては 情欲の重さ(重さは 意志であり 意志は精神である)によって 切り立った淵の中へ落ちてゆくことを意味すると考えられる。これらの経験世界に あの原理の光が関与していると 原理的に見られるというのは 同じ重力の関係世界において この原理の光に属(つ)くという人間の重さによって 夜の世界に落ち込んで行かず その曲がるべき光を わたしの傍らで曲げて向き変え これを回避することができることである。
人間はただ 曲がるべき光の重力世界につき従うのではなく 曲がらず 逆にこの経験的光を曲げる(曲げたままよぎらせる)ことができると言われたことになる。これは 同じ慣性的な光の運動のこの世のなかで 生起すると言われたことになる。
まことに 主よ われらの神よ われらの創造主よ。この世に愛着していたとき私たちは悪い生き方をし 死んだようになっていましたが 愛着からはなされ 善く生きることにより 《生ける魂(――創造の第六日)》(創世記1:26−31)が誕生し 使徒を通じて言われた《世にならうな》(ローマ書12:2)というみことばが成就するとき ひきつづき言われた《精神をあらたにして造り変えられよ》(ローマ書12:2)というみことばも実現することでしょう。
しかしそれは もはや《類にしたがって》(創世記1:24)とは言われません。そのことは 自分よりも先に進んでいる隣人を見ならったり すぐれた人間を模範にして生きるというしかたで得られるものではないのです。じっさい あなたは 《われら(三位一体の原理)の似像のごとく われらにかたどりて 人間を造らん》(創世記1:26)とおおせになりました。それは 何が御旨(みむね)であるかを わきまえ知るためです。
(告白13・22)
ここで 擬人法の部分を取り除けば 自然科学の知った原理と 相い容れないものではないというばかりではなく この原理にかんする自然科学の知識を よく用いることができる。なぜなら 自然科学の眼だけでは 理性の光に従っている。つまり この科学的理性は ほかならぬ人間がそれらによって造られている物質〔の光と粒子〕にほとんど違いなく その経験世界に付き従っていることと変わりないからです。
しかも 人間のことばで語るいわば神の知識の構造が おぼろげながら 創世〔記〕の当時――その第一日ないし第六日――が ことごとく この今・この現在にかかわるというような仕方で 明らかになる。《われら(三位一体)の似像のごとく われらにかたどりて 人間(三行為能力の一体性をもつ時間的存在)を造らん》と言われるのであって 《〔人〕類〔に共通の客観的な知識〕に従って》とは言われない。
言いかえると 神を 昔の人びとは 擬人法によって表現したが それはむしろ 表現の仕方の問題であって 事の本質は 人間がいわば《擬神法》による存在であるということ つまり宇宙の原理の所産であり これに過ぎない。現代の科学は このことと同じことを言わないであろうか。
宇宙の原理の所産のあり方には 二種類がある。いや 普遍的相互作用のあり方は 一つ ただ一つであるが これらの分化によって・つまり言いかえると じっさいには分化というよりも 人間の眼がその理性的な光が 弱い視力であることにおいて あやまって意志し愛着することが起こりうる。つまり その光が曲がりうる。ここでも しかしながら 宇宙の原理の所産のあり方は変わっていないのであって この物質的・理性的な光が曲がりうることを 理性的な光によっても 認識しうるというのが 事の本質でありそういう人間の存在であり さらに進んで人間は その理性的な光が 原理の光を分有しうることによって 曲がる光を自分のかたわらで曲げて通過させうるというのが はじめの原理による存在のあり方であるにほかならなかったことになる。
これは 自然科学〔や社会科学・人文科学〕の光を神(原理)としてそれに仕えることによって この科学の光(いわゆる天使)をもよく用いることが出来るということ――天使の能力を欲するのではなく 天使の存在を欲することにおいて―― これが 神のみこころであると信じられ 観想されたのである。この観想の真実が 個々の具体的な行為とどのように結婚して 現実となるかは 人間の自由意志にまかされている。つまり 重力の問題である。
この重力〔および その他の種々の光の相互作用〕の場が 縄文の自給自足生活から 弥生の交換経済社会へ移行したのです。この交換経済社会が やがて 近代市民のキャピタリスム社会となって 言いかえると 光の相互作用(接触・選択・結合)が生み出す余剰=第三角価値のほうに重心が移っていまし いわゆる搾取( Ausbeutung / exploitation )が引き起こされた。人びとは そのように自然界および社会界を 開拓( ausbeuten / exploit )して来た。そうして 逆に それまでは無視しうるほどのきわめて弱い力であった重力(つまり意志)が 無視できないという場の新たな局面が浮かび上がって来ました。
固体としての一人ひとりの人間の重力の問題だけではなく 同じことが 社会(社会的諸関係の総体)としても 問題となるようになった。そうして ふたたびあの宇宙の原理を人びとは 問い求め始めた。
また《生ける魂》のうちには 《善き家畜(創造の第六日。家畜とは 動物 animal であり われわれも 理性的動物としてながら共有するところの魂 animus )》が住まうことでしょう。それは 食べても(開拓しても)食べすぎることがなく 食べなくとも欠乏を感ずることのない家畜です。
またそのうちには 《善き蛇(蛇は 創世記3:1。歴史的知性に関係する)》が住まうことでしょう。
- なぜなら 呪術的自給自足生活――エデンの園――を抜け出て 交換経済社会に入ったのは この歴史知性に関係する。
それ人をそこなう危険なものではなく 賢明にわが身のことに注意をはらい 時間的なものの探究(つまり科学)は 造られたものをとおして永遠なものが悟られあきらかに見られるのに十分な程度にとどめます。
- 開発は行なわれるが 搾取はとどめられるということになる。だろうか。
これらの動物は 死への歩みをとめられて行き
- 情欲の重みへの愛着がとめられ または向きを変えられ
善いものとなるとき 理性に奉仕するのです。
- 曲がるべき光は そのまま わたしの傍らで曲がるにまかせられ この情欲の重ささえ 理性の光に仕えるようになる。その理性の光は はじめに原理の光に仕えている。光がそこで曲がるというブラック・ホールが ホワイト・テンプルに変えられるという段取り。
(告白13・21)
これが 神学と 歴史ないし社会力学の問題です。またはその場であるものだと思います。この場が――つまり ひとりの人間の 前史から変えられた後史 つまり 過程が―― 社会的諸関係の総体にまで 時として 及ぶという愛であります。
このため みことばの分配者であるあの人(=パウロのこと)は 福音(もちろん よき知らせのことである)によって子どもたちを産みましたが いつまでも子どものままで 乳で養ったり乳母のように面倒みたりしなければならないことのないために 《神の御旨 すなわち 善と御意(みこころ)にかなうことと完全なことの何であるかをわきまえ知るために 精神をあらたにして 自分を造り変えよ》というのです(コリント前書3:1 テサロニケ前書2:7)。
ですからあなたは 《人間が成れ》とは言われず 《われら 人間を造らん》と言われます。《類に従って》とおっしゃっらずに 《われらの似像のごとく われらにかたどりて》とおっしゃいます。じっさい 精神においてあらたにされ あなたの真理を悟りあきらかに見る者にとっては 同類のまねをするため 道を指示してくれる人間を必要としません。あなたのご指示にしたがって 《神の御旨 すなわち 善と御意にかなうことと完全なことの何であるか》を 自分でわきまえ知るのです。
そしてあなたは すでに見ることができるようになっている人に 《一体なる三位》と《三位なる一体》とを
- それは 一つなる原理が 科学的知識としてでなく 人間の光・人間の生命と捉えられるため
見ることを教えたまう。それゆえ《われら 人を造らん》と複数で言われながら 《神は人間を造りたまうた》と単数で付け加えられ 《われらの似像のごとく》と複数で言われながら 《神の似像のごとく》と単数で付け加えられるのです。
このようにして人間はあらたにされ 人間を造りたまうた方の似像に従って神の認識へとすすみます。そして霊的な者とされて万事を裁き
- もちろん《万事》といっても 人間の裁くべきことがらに限られます。もしくは 分有において 《万事を》であり。つまりそれは この世で実現するであろうと言わないことによって ほんとうに《万事を裁く》のであろうと思われ
しかも自分自身は何人にも裁かれることがないようになるのです(コリント前書2:15)。
(告白13:22)
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(つづく→2007-06-01 - caguirofie070601)