caguirofie

哲学いろいろ

#55

もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416

第十七章c 神の国の歴史的な進展

ついであなたは・・・

アウグスティヌスは 《告白》第十三巻の最終に近い第三十四節で つまり全巻の終わりに近い箇所で 語っています。この一節は すでにわたしは 現在 註解を与えることは出来ませんが 引用のみしておきたいと考えます。

ついであなたは 天空における或る《光体》に火をおつけになりました。《光体》とはつまり 生命(いのち)の御言をいだき もろもろの霊の賜物によって特別にすぐれた権威をおび 光り輝いている聖者たちのことです。さらにあなたは 不信の民を信仰にみちびきいれるため 目に見られる聖なる儀式や奇蹟 さらにまた聖書という《天空》にもとづいて語られる耳に聞こえることばを 物体的質料から産出なさいましたが これらのものによって信者たちも恩恵をこうむることとなりました。
さらにあなたは 信者たちの《生ける魂》を 秩序のある感情によってみづからをつつしむ力をそなえたものに形成し また ただあなたにのみ服していかなる人間的権威をも見ならう必要がないように 精神を《あなたの似像にあなたにかたどって》新生させ またちょうど男性に女性を従わせ また この生において信者たちを完成させるため必要なあなたのすべての奉仕者(聖職者)たちに その信者たちから この世で生きてゆくため必要なものが供給されるように おのぞみになりました。このようにあなたの奉仕者にこの世の生活の資を供給することは 未来に豊かな実を結ぶ善き業(わざ)です。
私たちはこれらすべてのことを見ます。それは 《はなはだ善い》。――なぜならば これらのことを見るとき 私たちにおいて見たまう者は じつはあなたなのですから。すなわち 私たちは霊によってそれらのことを見 それらにおいてあなたを愛しますが 霊を私たちに与えてくださったあなたが 私たちにおいてそれを見るのです。
(告白 13・34)

先に言ったように 解釈をしませんが 最後のところで 神の霊が私たちにおいてすべてを見る はなはだ良いと見る という点について 解釈の前提として 別の箇所の次の一節をただちに かかげておくとよいと思います。

まことに 人間の思いは そのうちにある人間の霊以外にだれも知る者はない。そのように 神の思いも 神の霊以外には 知る者がない。しかし とパウロは言います。私たちが受けたのは この世の霊ではなく 神からの霊である。それは 神からたまわったものを知るためである(コリント前書2:11−12)。
それゆえ 私はこう言わざるをえません。

神の霊を別にしては 何者も神の思いを知ることはできない。これは たしかだ。

ではどのようにして私たちも 《神からたまわったもの》を知るのでしょうか。
これに対しては 次の答えが与えられます。

私たちが神の霊によって知ることがらといえども それをそのように知るものは神の霊以外にはないのだ。

すなわち 神の霊において語るべき人びとに対して《そのとき語るのは じつはあなたがたではない》(マタイ10:20)と正しくも言われたように 神の霊において知る者に対し 《それを知るのは じつはあなたがたではない》と言われるのは正しい。また 神の霊において見る人びとに対しては それにおとらず正当に 《それを見るのは じつはあなたがたではない》と言われます。そのように 人びとが神の霊においていかなるものを《善し》と見る場合であっても 《善し》と見るのはかれらではなく じつは神なのです。

つづいて引用してもいいと思われることに アウグスティヌスは やさしく 上の命題を説き明かします。

それゆえ 《ほんとうは善いものを だれかが悪いと考える》という場合があります。たとえば 先に述べられた人びとの場合(省略)です。これとは異なって 《じっさい善いものを 人間が善しと見る》という場合もあります。すなわち あなたの被造物はじっさいに善いものですから 多くの人びとはそれを好んでいます。しかしながらかれらは その被造物においてあなたを好んでいるのではありません。それゆえ あなたよりはむしろ被造物のほうを享受したがっているのです。
しかし第三の場合があります。すなわち 人が何ものかを《善し》と見るとき 《善し》と見ておられるのは じつはその人のうちにまします神であるという場合です。したがってこの場合には 神が その造りたまうたものにおいて愛されることになります。
しかしこのような仕方で神が愛されるということは 神が与えたまう霊によらなければ不可能でしょう。じっさい 神の愛は私たちの心に 私たちにたまわった聖霊によってそそがれるのですから。この霊によって私たちは いかなるものにせよ何らかのしかたで存在するものはすべて善きものであると見るのです。なぜなら それらのものはすべて 何らかのしかたで存在するのではなく まさに《在る者》として存在したまう方に由来するのですから(出エジプト記3:14)。
(告白13・31)


  ***


次にまづ ある設問をかんがえてみる。
われわれはすでに 神の予知と人間の自由意志の両方をみとめているのであるが 総じて神の予知のなかで――つまり言いかえると 宇宙の原理を だれもまだ見たことはないのだから しかも科学的にもまた或る種 直観的にも この原理が存在すると考えられるとき この原理を根源的な推進力とする世界の動態のなかで―― 人の意志は自由であるが 神によって予知されており なおかつ 人間の意志は 神の意志を超えることができるか。
神の意志と神の予知とが 同一であるとすると 論理的には矛盾した設問であるのだが この問いに対する答えは むしろ 然りであると考えられる。超えることができる。または 論理を押し通そうと思うなら 否 しかも その否のなかで光が曲がりうる(淵の中へ墜落しうる)ことにおいて 然りであるとなる。
神の意志を《超える》という表現がわるければ 《逸脱する・逸れる》ということであるが おそらく人間の意志は 自由であって 同時に 神の予知をとうぜんのごとく超え得ないことにおいて 神の意志を逸脱しうる ないし 別の表現で言うと キリスト・イエスに敵対しうる。人間の自由意志は ついに神の意志(計画・予知・力)に勝てなかったというそのことにおいて あたかも自由にかれに敵対しうる。《然り 然り 否 否》という言葉は ここで聞かれるべきであるとおもう。

わたしが計画するのは 人間的な考えによることで わたしにとって 《然り 然り》は同時に《否 否》ということになっているのでしょうか。
誠実な神に誓って言いますが あなたたちに向けたわたしたちの言葉は 《然り》と同時に《否》ではありません。わたしたち つまり わたしとシルワノとティモテとが あなたたちの間で宣べ伝えた《神の子》イエス・キリストは 《然り》と同時に《否》となったようなかたではなく このかたにおいては 《然り》だけが実現したのです。
パウロ:コリント後書 1:17−19)

さて 神であられ 私たちよりも能力ある御言(《言葉》)は嘘を言い得ない。

子は父が為したまうのを見るのでなければ 自分からは何事も為し得ない。
ヨハネ5:19)

から。子は御自分から語られるのではなく その語られることはすべて父から与えられるのである。父はその御言と別のことを語られるのではないから。この御言の力は嘘を言い得ないほど偉大である。なぜなら 神のばあい 《然り 否》(コリント後書1:19)はあり得ないで ただ 《然り 然り 否 否》があるからである。
アウグスティヌス:三位一体論15・15)

しかるに人間は その自由意志をもって嘘を言いうるから 神の意志に敵対しうるし また同時に そのように神の予知のなかに生きている。わたしたちは その意志の自由選択をみとめることによって よく生きるが 正しく信じて生きるためには 神の予知をみとめる必要がある。自由意志によってあやまつならば われ存在するという動態が それである。ところがこれは キリストの奴隷となることによって 生起するのである。だれも 自由に隷属することによらなければ キリスト・イエスに属くことはできない。その意志の自由選択(あやまちをみとめ 新しい真に属く)は 神の予知のなかにあったとみとめるのである。この神の予知は 嘘を言い得ないほど 偉大な力なのである。そして この中でなお 人は 意志の自由によって 神の意志から逸れることができる。嘘を言うことができる。
神は その人が嘘を言う(自分を欺く)ことができることを 予知したのではなく その人〔の光〕そのものを予知したのである。
これは 神の三位一体の中で 関係的に 子は父の生みたまうたひとり子であるが その真理の霊は 父から発出し また子からも発出するというように父が子を生みたまうたその子からも発出し この父と子との交わりであり 子も聖霊もこの世に派遣されたのであるが 子は神の独り子として神の言葉(力・知恵・計画)であり 聖霊は そのように父と子とから発出される・そして神から来て神である愛(また弁護者などなど)である ことに問い求めなければならない。
(つづく→2007-06-10 - caguirofie070610)