caguirofie

哲学いろいろ

#48

もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416

第十六章a 生活原理の新しい展開

わたしたちは いま きわめて繊細な気遣いを要請されるような議論をしています。もしくは それに入りつつあります。



宇宙創成の《第六日》:――

・・・
神はまた言われた。

われらの似像のごとく われらにかたどりて人を造り これに海の魚と 空の鳥と 家畜と 地のすべての獣と 地のすべての這うものとを治めさせよう。

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち 神のかたちに創造し 男と女とに創造された。神はかれらを祝福して言われた。

生めよ ふえよ 地に満ちよ 地を従わせよ。また海の魚と 空の鳥と 地に動くすべての生き物とを治めよ。

神はまた言われた。

わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と 種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。また地のすべての獣 空のすべての鳥 地に這うすべてのもの すなわち生命あるものには 食物としてすべての青草を与える。

そのようになった。神が造ったすべての物を見られたところ それは はなはだ良かった。夕となり また朝となった。第六日である。
(創世記1:26−31)

第一点。《われらの似像のごとく われらにかたどりて人を造らん》については すでに考察を見ました。すなわち 《人間が成れ》と言われず 《われら人を造らん》と言われるということ。原子の運動のごとく その限りでの自然生成にのっとって そのまま生きよ(呪術的自然崇拝)というのでもなく あるいは この自然生成(自給自足)から脱け出してのごとく《人間が成れ》というのでもなく はたまた 科学の眼によって原理を知り この原理を 自然生成の人工的応用つまり物質の加工に 無条件に 用いるようにして生きよというのでもなく まづ原理に属(つ)けと言われているごとくである。
このことは 第二点として この原理に属いた生ける魂の内には 《善き家畜》が住んで それは 食べても食べ過ぎることなく 食べなくても欠乏を感じることのないというまづ生活原理を 得させ実現させていくことであると考えられた。つまり このように自給自足生活から脱して 交換経済社会へ移り 開拓をすすめていくとしても 同じくこの生ける魂の内には 《善き蛇》が住んでのごとく 開拓が人間の理性に奉仕する このような新しい生活原理にもとづいて 地を治めよと言われたもののようである。
この生ける魂も 地を這う蛇の知恵を持ち 動物とその魂を共有してのごとく情欲の重さを持たないではない。これが 切り立った淵から落ちないで 眼に見えないもの・すなわちこれらの原理にわれわれが属くことによって 死(つまり原子の膨張運動 あるいは 蛇の知恵の理性的高ぶり)への歩みを止められる。時間的なものの探究は 造られたものをとおして永遠なものが語られ明らかに見られるのに十分な程度にとどめられる。
曲がりうる光の運動そのものにつき従うのではなく この光の曲折を明らかに見 また認識するだけではなく もはや自己の前にやって来た物質的光は曲がるにまかせる すなわち 虚偽を内的に棄て 霊の力を分有して自己じしんがホワイト・テンプルになる。こうして 交換経済社会を治めてゆく。これが 第三点。つまり 《夕となり また朝となっ》てゆくのであって あるいは言いかえると ホワイト・テンプルの確立へ向けて 日から日へ あの《日の老いたる者(つまり 原理)》の力によってのごとく 変えられてゆくのであって 《夜》とはならない。また それらの新しい生活は 夜から始められる。との命題を立てた。
第四点は これらの新しい展開が それら両性に創造されたという男と女との関係において 見られるということである。。なぜなら それは 情欲の問題にほかならないから。物質的光が曲がるというのは ここに発している。(とさえ言えるかのように)。蛇が最初の女エワにささやきかけたごとく 理性の光も ここに関係している。(情欲の《重さ》と言うなら 理性・精神・意志の問題である)。
男と女との関係において 情欲の光がいかに曲がるか これをいかに曲げさせる(回避する)かが 問題である。真理はわれわれを自由にするというとき ここに真の自由を問い求めないでは それは見せかけの自由であり 原理は原理ではなく ただのまやかしであったことになる。《神が造ったすべての物を見られたところ それは はなはだ良かった》という関係動態 すなわち歴史を 問い求めこれを造り出さなければいけない。
ホワイト・テンプルは いかにして 情欲の光の運動にかんして その前史から後史へと向き変えられるか。その重力場の構造過程は いかなるものであるのか。この歴史は 実現するものであるのかどうか。



ところで 《全地のおもてにある種をもつすべての草と 種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える》と言われた。
《種をもつすべての草》 これが わたしには 前史の情欲を示唆するかに見える。後史の《木》は これが《実を結ぶ》のです。《善き家畜 善き蛇》の問題です。

ある人たちは 今までの偶像(タブー・掟・律法)になじんできた習慣(慣性の法則)にとらわれて 肉を食べる際に それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず 良心が弱いために汚されるのです。わたしたちを神のもとに導くのは 食物ではありません。食べないからと言って 何かを失うわけではなく 食べたからと言って 何かを得るわけではありません。
ただ あなたたちのこの自由な態度が 弱い人びとを罪に誘うことにならないように 気をつけなさい。知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを だれかが見ると 良心が弱いために 偶像に供えられたものを食べてもかまわないのだと 誤った確信を持ってしまわないでしょうか。そうなると あなたの知識によって この弱い人が滅びてしまうわけです。この弱い人も キリストが死んでくださった兄弟なのです。
このようにあなたたちが 兄弟に対して罪を犯し かれらの弱い良心を傷つけるのは キリストに対して罪を犯すことなのです。そういうことであれば 食物のことがわたしの兄弟を堕落させるくらいなら 兄弟を堕落させないために わたしは今後けっして肉を口にしないつもりです。
(コリント後書8:7−13)

パウロは書きました。わたしには この《偶像に供えられた食物》が 男と女の関係に即してみると むしろ交換経済社会の法律によって良しとされたかのような結婚という関係にあてはめられ 見られているかのように思われるのです。つまり 《われらにかたどりて人を造らん》 またそれの霊的な受容ではなく 《人間が成れ》と言われたかのようなまたそう受け取ったかのように 男女間の関係が造り出されていく。
《種を持つすべての草》と《種のある実を結ぶすべての木》との共同自治 これが 前史から後史への回転としてではなく 平面的に 家畜と人間 夜と昼 法律の外と内といったように 人間がそのようにあたかも構造的に成り立って 使い分けられている。光は依然として 曲がっているのに 法律の観念の共同化によって 曲がらない場所が作り出されたかに見える。いわば幻想の後史が生きられている。そこではまだ 慣性の法則が明らかに作用しているのに もはやわれわれの原理にかんする知識は偉大であるから 相対性理論が確立され ホワイト・テンプルが実現したと思うということが 確立されてしまった。
交換経済社会の――このキャピタリスム社会となって 一夫一婦の結婚制が取り決められたその――慣性の法則にのっとってのように 《実を結ぶ》つまり利潤や利子を生むごとく すべての草とすべての木を治めるなら 曲がる光の世界とはおさらば出来たと信じ込んでしまった。あたかも人間がみづから成ってしまった。
非慣性系の世界を十全に摂り込んだ生活原理は

どんなものでも 外から人の体に入るものは人を汚すことができない。かえって 人の中から出て来るものが 人を汚すのである。
(マルコによる福音 7:15)

と〔イエスが〕言うようにであって 慣性系なる外の光に対して 蓋をすることによってではない。法律が――いまの問題は 結婚の制度であるが その法律が―― 蓋である。だから われわれには 善き家畜 善き蛇が住むのであって 家畜や蛇を法律や道徳によってシャット・アウトすることによってではない。また シャット・アウトするしないに関係なく 自然本性はそのままで善だと言う 歴史知性でありつつの自給自足主体化によってでもない。
(つづく→2007-06-03 - caguirofie070603)