#49
もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416
第十六章b 生活原理の新しい展開
《だが 他人の情欲によって汚されはしないか という心配がある》と人は言うかも知れない。もしそれが他人の情欲であれば それが自分を汚すことはないであろう。だが もし情欲が自分を汚すとすれば それは他人の情欲ではないであろう。しかし 慎みは精神の徳であり 勇気を友として持っている。そして この勇気によって 慎みは悪に同意するよりも 悪がどんな種類のものであれ それに耐え忍ぼうと決意するのである。だが気品と慎みとを持っている人でも 自分の肉体から起こってくることを自由に処理する力を持たず ただ精神によって是認したり否認したりすることのみを自由に働かす力をもっているにすぎない。
こういうわけで もし自分の肉体がつかまえられて暴行を受け そこで自分のものではない他人の情欲が力をふるい その思いが遂げられたとしても まともな分別のある人ならば だれが慎みを失ったと考えるであろうか。事実 もしこういう仕方で慎みが失われるとすれば 慎みは絶対に精神の徳ではなく また人としてよく生きることを得させる精神の善に属するものでもなく むしろ種々の能力 美 健康 体力 その他この種の肉体の善に数えられるものになるであろう。これらの特性は たとえそれ自身が弱められることがあっても 善にして義である生き方を弱めることは決してないのである。
ところで もし慎みがこういうものであるとすれば そのために苦労する必要があるだろうか。だが もしそれが精神の善だとすれば たとえ肉体に暴行を受けても失われることはないであろう。かつ 聖い節欲という善が肉欲の汚れに屈服しないときは 肉体のものも清められるし またそれゆえに かたい志をもって肉欲に屈服しまいと頑張り通すならば 肉体そのものからも清さが失われることはない。
というのは 肉体を清く用いようとする意志と その意志の中にある能力とが堅持されているからである。
いったい 肉体は その肢体に損傷がないとか あるいは他人の接触によって汚されていないという理由だけで 清いのではないのである。というのは さまざまな事件によって肢体は傷つきながらもなお暴行に屈服しないこともできるし 医者が治療を施そうとして 見るも無残な結果となることも しばしばあるからである。産婆は 本当に処女であるかどうかを手で確かめようとして 悪意によって あるいは技術が未熟なために あるいは偶然によって 調べているうちにそれを駄目にしてしまうことがある。わたしは たとえ肢体の健全さが失われても それによってその肉体そのものの清さが一部失われたと考えるほど愚かな人はいないと思う。この理由から 肉体を清く保つことのできる精神の決意さえ確くあれば 他人の情欲の暴力も 自己抑制によって辛抱強く保たれている節欲を肉体から奪い取ることはないのである。
これに反して もしある女性が精神的に堕落し 神の前で決意して誓ったことを破り 誘惑者のもとに走ってすっかり身を汚した場合 肉体を清く保っていた精神の清さが損なわれ なくなってしまったのに それでもなお そのように身を汚す女を その肉体においても清いなどと言えるであろうか。決してそういうことはない。むしろ わたしたちはこのような誤りに対して次のように考えるべきである。
すなわち たとえ肉体が暴行を受けても 精神の清さがあれば 肉体の清さが失われることはない。同様に 肉体が汚されなくても 精神の清さが傷つけられれば 肉体の清さも失われるのである。こういうわけで 同意なしに暴行を受け 他人の罪を押しつけられた女性は
進んで自殺することによって自分を罰しなければならないような理由を 自分の中に何ひとつ持っていないのである。まして事が起こる前に そのような理由を持っていないのである。たとえ他人によってなされる破廉恥な行為にせよ それが実際におこなわれるか否かはっきりしないときに 明らかに人殺しと考えられる行為は許されるべきではない。
(アウグスティヌス:神の国について 1・18)
わたしがここで言いたいことは このような――ある意味で常識なのだがこのような――観想の視点が 同じくまた法律となってしまってはいけないことである。成文法であろうと慣習法であろうと このおそらく真である観想が 共同主観(常識)であるからと言って 最終的な弁解の手段にはならず(事後的な判断として自己の内に持っていることはありうるが) まして この認識じたいが われわれの属くべき原理なのでもない。あるいは この視点が いわば非慣性系の世界の一つの内容として見られかつ持たれ しかも そうでない夜の慣性の世界は 別なのだという平面的な二元区分 それは 実を結ぶ木を持ったのではなく または 実を結ぶ木を持てると知ったのにすぎず この知識が容易に使い分けられていることが 現代の問題である。
・・・すべて外から人の体に入るものは 人を汚すことができないことがわからないのか。それは 人の心の中に入るのではなく 腹の中に入り そして外に出るだけなのだ。
このようにしてイエスは すべての食べ物は清いと宣言したのである。
- したがって 《全地のおもてにある種をもつすべての草と 種のある実を結ぶすべての木》が与えられた。
さらに 次のように付け加えた。
人から出て来るものこそ 人を汚す。というのは 中から つまり人間の心から 悪い思いが出て来る。みだらな行ない 盗み 殺意 姦淫 貪欲 悪意 詐欺 好色 ねたみ 悪口 傲慢 無分別など これらの悪はみな中から出て来て 人を汚すのである。
(マルコ7:18−23)(神の国について 承前)
これだけを取り出すと 道徳のようにも聞えるので われわれは そんなこと知ったことかと言うことが出来る。要は この観想が 故意に用いられて その知識によって(その知識または 知識の所有者としての自己を 始原として) 情欲の動きにつき進むことが いまの問題である。そのように 光が曲がること もしくは このように曲がって来る光を どのように回避するか。
現代の科学は 次のように考える。
われわれの体はペプシン トリプシンなどタンパク質を消化するいろいろな酵素を持っている。これらの作用で食物中のタンパク質を消化する。しかるに われわれの体もタンパク質を主体としてできている。なぜこれらのタンパク消化酵素は食物中のタンパク質を消化して われわれ自身のタンパク質をとかしてしまわないのだろうか。
〔その一点として〕 口にはじまり 胃 腸などをへて肛門に至る消化管内は 実はからだの外である。タンパク消化酵素であるペプシンやトリプシンは からだの中にある間はタンパク消化能力のない不活性の状態にある。・・・
(江上不二夫:生命を探る 第三章)
したがって 《自分の腹を神としてはならない いや することは出来ないということ》と 《或る時は自分の腹または他人の腹が関与したのであって わたしは それでも精神の清さを保っていると言って 科学知識によっていわば自分の生活を使い分けること》とは 別である。後者は 曲がったのである。前者は 曲がった光がたしかに通過したのであるが 汚されなかったのである。結婚の制度(その考え)の内と外というように区分し これを使い分けること そのように 光の曲がらない領域が保たれると言い張ること これは なお 曲がる光の領域で ホワイト・テンプルを 観念として・幻想として建てたということになる。姦淫したという事実からそうなのではない。じっさいに姦淫したからというのではなく 情欲の光の重さが 屈折しまたは複雑になって 重層的にしかし蛇のように地を這った。
***
(つづく→2007-06-04 - caguirofie070604)