surrey ,uk
『坊ちゃん』に見るあまえ
彼(=坊ちゃん)も赤シャツの中傷にかどわかされると 最初信頼していた
山嵐を簡単に疑ってしまい 以前氷水を奢られた時の代金一銭五厘を無理矢
理山嵐に返さずにはおれなくなる。・・・ここへ来た時第一番に氷水を奢ったのは山嵐だ。そんな裏表のある奴から
氷水でも奢ってもらっちゃ おれの顔にかかわる。おれはたった一杯しか飲まなかったから一銭五厘しか払わしちゃいない。
しかし一銭五厘だろうが五厘だろうが 詐欺師の恩になっては 死ぬまで心
持がよくない。あした学校へ行ったら 一銭五厘返しておこう。おれは清から三円借りている。その三円は五年たった今まで返さない。返せ
ないんじゃない 返さないんだ。清は今に返すだろうなどと かりそめにも
おれの懐中をあてにはしていない。おれも今に返そうなどと他人がましい義
理立てはしないつもりだ。こっちがこんな心配をすればするほど清の心を疑ぐるようなもので 清の美
しい心にけちをつけると同じことになる。返さないのは清を踏みつけるのじ
ゃない 清をおれの片破れと思うからだ。清と山嵐はもとより比べものにならないが たとえ氷水だろうが 甘茶だろ
うが 他人から恵みを受けて だまっているのは向こうをひと角の人間と見
立てて その人間に対する厚意の所作だ。割前を出せばそれだけのことです
むところを 心のうちで有り難いと恩に着るのは銭金で買える返礼じゃない。無位無官でも一人前の独立した人間だ。独立した人間が頭を下げるのは百万
両より尊い返礼と思わなければならない。
(『坊ちゃん』)土井健郎:『甘えの構造』 § 3 1980(愛蔵版)pp.98-99 )