caguirofie

哲学いろいろ

hythe, kent


【Q:おかしい人 変わった人 は悪人ですか?】

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9188485.html

No.1

回答者: bragellone 回答日時:2016/02/24 15:54
心の開くことを あらゆる手段をもちいて 図り 試み なお
そのようにつとめて行きます。


排斥だと受け取られたとしてもです。

No.21 2016/02/25 23:51

和光同塵


排斥も受容もその他その他も 自然でかつ人間的なマジハリ(交通)のため
のツールとするのがよいでしょう。

No.31 2016/02/26 22:45

哲学において 善悪論あるいは悪の問題というテーマにあっては その答えは
善悪の彼岸》であると相場が決まっています。


その彼岸から此岸にもどって来て 現実に対処する。


彼岸ないし本質を問わない実存思想にあっても その時その場としての情況に
合わせて現実的な判断を下すわけですが そのときにも善悪はまさに相対的な
ものだと承知しているので あたかも《善悪の彼岸から此岸にもどって来てコ
トに処する》というかたちになります。


世界を相対的なものごととして捉えると言っても そのつどおのれの言わば人
間性(ないし自由性)の表現として判断をおこなって行くのですから やはり
そこには何らかの志向性が現われます。これが 実存思想です。


ですから 要するに《善悪の彼岸。およびそこから此岸にもどって来て現実に
処する》という態度ないし心構えが おおむね《答え》です。



それは したがって――ただちに実現できるかを別としてでも―― 基本的な
方針は やはり決まります。すなわち 一視同仁ないし和光同塵ということに
なります。


《われはかれであったかも知れずうんぬん》の主題です。


ですから 相手がホームレスであろうと大統領や天皇であろうと――直接の物
理的なチカラによる危険がおよばないかぎり―― 性善説だの性悪説だのとい
う回り道やそのほかああぢゃこうぢゃの議論はまったく要らないのです。


他人は 初めから互いに《異質》なものなのです。
《排斥の感情が起きたりその行動にまで出るといった動きがあったりした》と
しても――待ったなしの危害がおよばないかぎり―― 基本方針は 一視同仁
ないし和光同塵が来ます。


そういうものです。


じっさいに処するとき 人それぞれに力量があり また相手の人となりや状態
によっても違ってくるでしょうが そのような千差万別のかたちを取りながら 
この等距離外交が繰り広げられて行きます。


そのとき 《排斥》の思いやさらにはちょっとしたウゴキを その仁愛におい
てこちらは見せないということはありません。自由な実存としてふるまうので
す。

No.33 :2016/02/27 17:31

○ 内清外濁


☆ ゴールポストは移動させられるわ おまけにルールが違うのだと言われるわ
の対話の相手たるあなた はこぶるさん あなたには この内清外濁の方針で臨
む必要があった。ということです。


一視同仁あるいは和光同塵。こちらのほうが 基本的な方針でしょうけれど。



《われはかれであったかも知れないうんぬん》の思想が まったく生きていない。
のです。あなたは 哲学が無理でしょう。

No.40 :2016/02/28 22:54

○ 利口の壁

No.77 :2016/03/13 09:24

《どうあるべきか》を《どうあるのか》に優先させてはいけない。
――という命題(判断)は そうあるべきだと言っています。


成り行きとその認識を優先させよという《べき》論でしょう。


一人ひとりがそれぞれ別々の《こうあるべきだ》という考えで行動
しているとする場合 その場合にも おおきくは全体として《その
ようにあるのだ》という成り行き史観があてはまります。


そのような中身の――コミュニズムなる《当為》をゆるしてしまう
ような中身の――成り行き史観ではいけないというのは それとし
ての《べき》論です。

No.85 :2016/03/14 11:28

すずめさん見解について お呼びでないコメントを。


それだと 精神科学をすべてなくせと言っていません?


あるいは 精神のハタラキをすべて自然科学の認識成果――これも
精神のハタラキでもあるのですが――に合わせろと。


もしそれが 人間をもふくめたすべての生物にとって心地よい存在
のあり方だとしますと そのあとに次のようなことが分かってくる
という場合はないだろうか。


自然科学の認識が果てにまで達したと思われたとき その成果によ
れば 生物や人間は それぞれその思うがままに生きることが も
っともその存在のあり方にかなっているのだと分かる場合のことで
す。


つまり いま現在 精神科学は そのような見透しのもとにそのい
となみをおこなっている。はずなのです。


《自由――存在ないし意志の自由――》ということですね。


★ おかしい人 変わった人も あるいは 悪人もが
☆ この《自由世界》にそれぞれ生きている。という認識が 自然
科学の発見によっても裏づけられる・・・といった場合です。


ゆえに 一視同仁また和光同塵という視点が われわれのいま現在
の実存にとっては およそひとしく自然におよび必然として行き着
くところとなる。
――という仮説です。


自然科学のあゆみを俟ってらんないという意味もふくみます。

No.87 :2016/03/14 15:30

この場を 勝手にお借りして。


◆ (回答№86) 限界の越えさせ合いは、‘暮らしにくさ‘つまりは
退化への悪循環になってしまいます。
☆ とおっしゃるとき 次の状態は 限界を超えていないのか(つまり
自然科学の認識内容に合致しているのか) これは どうですか?


★ おかしい人 変わった人 あるいはひょっとして 悪人
☆ というそれぞれの状態についてです。


わたしの見解は こうです。:

《限界の超えさせ合い ないし 退化》を世界に容れているそのまま 
すべての心的な現象また状態について やはり一視同仁ないし和光同塵
という視点でのぞむよりほかに 基本の方針はない。と。


◆ 限界の越えさせ合いにつながる凶暴性は改善の対象である、という
スタンスです。
☆ つまり 《凶暴性》は ほとんどつねにあたかも目の前に展開され
ているという見方を前提とした方針に わたしの場合には なります。


すずめさんはその《スタンス》が まだなお《学問的な姿勢》に――失
礼ながら―― とどまっておられる。のではないか です。


そしてその態度は どうも《枝分かれであるとか それとしての機能の
発現》といったように精神科学の守備範囲があるのだと提唱してはおら
れるのですが 〔どうも〕煮詰めたところでは 自然科学によって共有
された認識内容オンリーである。と示唆しておられるのではありますま
いか。


言いかえると 《進化》のみの世界観に人びとはすべからく理論じょう
帰着するはずだと。


◆ 改善
☆ とは何ぞや? に議論は行き着きましょうか。

No.89 :2016/03/14 18:09

№88におこたえして:


《進化・進歩・改善》のご説明に理論じょう異論はありません。


ただしその具体性につきましては わたしの中にあいまいさが残る
とは思います。


ふつうの世界史は 《退化をやむなく起こされてしまうことを許容
してしまうような〈進歩〉》の過程が 基本となっているように考
えます。


《進化》は げんみつには 他の生物および自然環界の・それとし
ての世界のいとなみであり(つまり 人間はそれとして関係がない
ほどであり) 《改善》は 上の《進歩》の中にふくまれるのでは
ないかと。


◆(回答№88) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
一視同仁 和光同塵 という現実を直視したベースには賛成です。
そして、そこに改善という前傾のバイアスがかかっている状態が
人間にとって科学に立脚したひずみのない状態だという意見です。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
☆ 《ベース》について賛同いただきありがとうございます。


あとは 《改善というバイアス》が《自然科学の世界認識》と相い
容れないものではないのだと 明確に述べておられます。


その上で 微妙に違うかと思った点ですが。:


一視同仁なる方針は われわれ一人ひとりがそれぞれ主観を最大限
に発揮するというかたち(および内容)になります。


言いかえると 自然科学からは自由な精神科学の自由度をもってと
いう意味です。


言いかえると わたしの視点での《改善のバイアス》は あたかも
《自然科学の要請》を無視する場合もある。ということになります。
極端に違いを印象づけようとすればです。


だいたい煮詰まったように思っています。あらかじめですが お付
き合いくださってありがとうございます。

No.92  :2016/03/17 10:51

★ 【質問】 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
異質と感じるものに対する自らの排斥感情と、我々はどのように
付き合っていくべきか。
また、
他者から異質なものとして排斥感情を向けられた場合、我々はど
のようにそれを受け止めるべきか。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
☆ 一視同仁もしくは和光同塵の視点と立ち場と態度で接する。


すなわち 他人の場合にも自分の場合にも その《異質感とそれ
による排斥感情》を捉えたときには その感情とあたかも同化し
てのように またはその相手と同化してのように そしてそのこ
とをとおして――初めの視点から見て――あたかもその感情を生
け捕りにしたかのごとくに成る。


そうなったら あとは われにしろ相手にしろ いづれの場合に
もわれがわれに還るという現実が起きることを俟つ。


ひるまず・たゆまず しかも必ずしもみづからのチカラに頼るの
でもなく気長に・とことんまで 俟つ。


俟つというその時点での現在――実存――が 解決法です。


ひとの心的現象としては もともと人は多様でありしかも互いに
異質でさえあると捉えられます。同時に そして互いに人間であ
る。――この視点が 一視同仁の中身です。


この世界にこのように規定した《ひと》から外れるにんげんはい
るかどうか。


一生のうちにこたえが出ないにんげんはいるかも知れない。

No.93   :2016/03/18 10:10

過去の投稿内容のおぎないです。


☆☆ (回答№89) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
言いかえると わたしの視点での《改善のバイアス》は あたかも
《自然科学の要請》を無視する場合もある。ということになります。
極端に違いを印象づけようとすればです。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
☆ 《自然科学の要請》というよりは どうも 人文などの精神科
学からの要請というべきでした。


原子力なる自然科学の認識とその再現について やはり精神科学か
らは やめとけという要請が出る。つまり《改善ないし守善のバイ
アス》です。


それに対して いや その爆弾をつくれというのは 負の改善のバ
イアスと見ればよいのでしょうか?


クローン人間については 自然科学による《モノとそれの人間によ
る加工》としての《進化》が ひとつの基礎としてある。そしてこ
れに対して 精神科学は やめとけという改善(守善)のバイアス
を発する。


要は 精神科学としての要請どうしのせめぎ合いになるのでしょう
か?


そこでなら確かに どうあるのかと どうあるべきかと そしてわ
れわれはどうするのかが あらそわれましょうか。


いづれにしても 《おかしい・変わっている・異質だ・そして排斥
しよう》といった感情論は乗りこえて行かなければならないものの
ようです。


★★ (趣旨説明欄) 〜〜〜〜
思想(国家)対立
宗教対立
いじめ
パワハラ
家族・友人
ご近所づき合い
etc.
様々な局面
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
☆ についての応用実践編が俟たれますね。