caguirofie

哲学いろいろ

#50

もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416

第十六章c 生活原理の新しい展開

わたしたちは今 表現にきわめて繊細さを要求される議論をしています。《狭き門より入れ》という恰好です。どうかわたしが この門を見失わずに まっすぐに進んで わたしたちに必要なだけ 歴史的な知恵と知識が得られるように祈ってください。わたしは 信じる人がみな 完全な者となって 祖国に到達することができるように最善を尽くします。以前わたしは わたしについて来て欲しいと言いましたが これからは よう言いません。わたしの試みをさらに 批判し 原理の観想をより明らかにしてくれる人がつづくでしょう。ここでは わたしなりに愚考しておきたいとかんがえます。

《種のあるすべての草》の前史から 《実を結ぶすべての木》が食物として与えられこれを受け取り食べる後史へ。そしてこの過程をいまは 男と女の関係を主題にして議論していました。前史に喩えられるところの《種のあるすべての草》も与えられ これも《見られて はなはだ良かった》とされるのは 《すべての食べ物は清い》と宣言されることに等しい。男と女の関係 その相互作用それじたいは清い。または 清い・汚いの裁断の外である。
たしかに 曲がる情欲の光は 汚らわしい淵の底へつれてゆく。それの結ぶ実は 死であります。しかも 後史へ向き変えられた人は 善き家畜(感性・魂)を持つ。かれには善き蛇(歴史知性)が住まうと言われた。
だが エデンの園では――通俗一般的に 縄文の自給自足社会では―― 《人とその妻とは ふたりとも裸であったが 恥ずかしいとは思わなかった》(創世記1:25)。情欲のない生殖もあったと考えられた(《神の国について》14・23)。そして 《霊魂のすべてのわざわいが身体からくると考える人は誤謬を犯している。・・・霊魂の重荷となる身体の腐朽は 最初に罪を犯した原因ではなく むしろそれの罰だからである。朽ちる肉が霊魂を罪あるものとしたのではなく かえって罪ある霊魂が肉を朽ちるものとしたのである》(同上14・3)と考えられるように その後 最初の人間であったアダムとエワとに あの蛇がささやきかけた。これにかれらは同意したのである。
罪の原因は肉ではなく霊魂(歴史知性)の中にある。余剰の活用・開拓・時に搾取の原因は 歴史知性〔への疑い・その悪用〕の中にある。かくて 交換経済社会。
ところが 《生めよ 増えよ 地に満ちよ 地を従わせよ》(創世記1:28)という言葉の受け取り による歴史知性の生起 しかも必要なだけの開発・獲得・活用という生活原理において 結婚は 祝福されている。婚姻は 男女の関係・結合の冠である。この祝福においてすでに 情欲のない性交・生殖が 成り立ったかのようである。じっさい そうである。しかも この世界から――しかるべくしてと言わなければならないかのように―― 歴史知性が蛇のように地を這うことによって その光は曲がった。つまり曲がる光にも人は その自由意志によって ついていった。
ところが エデンからの追放ののちも この結婚の祝福は あの原理によって 有効であると言われたかのごとく 霊は与えられた。これをイエス・キリストは 人びとがこの世ではこの霊による生活に絶望してしまわないようにと 人間となって 死にまた復活するということによって 告知した。十字架上の死は――つまりローマ総督が 何の罪も見ないと言うのに ユダヤ人たちが はりつけの死を望んだというその死は―― この告知のもっともふさわしい手段であったが 復活がなければ すべては みじめである。(また というほどに 死ということがら自体に 復活があったと見るべきであろう)。弟子や使徒や その後の聖職者やキリシタンはあたかも このキリストによって命じられてのごとく――それが はじめの宇宙の原理のその計画の中にさえあったと言うかのように―― 迫害のはりつけの死に就いた。われわれは 一般にわれわれは これを命じられないわけである。《知恵と知識の宝はすべて キリストの内に隠されています》(コロサイ書2:3)と言うように 師パウロが語るには

キリスト・イエスのものとなった人たちは 肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。
(ガラテア書5:24)

とならば――そうとならば―― 善き家畜の住まうのを見出していたとしても すでにわれわれは 情欲の光の曲がる相互作用から解放されているのです。これが だからと言って 肉をみづから殺すであるとか 身体を空気のようなものとなして 身体から離れるとか 要するに 肉が肉じたいが清くない汚れているといった誤謬に満ちた議論へ 誰が愚かにも導かれて行ってしまうというでしょうか。いったいに 肉のはたらきは むしろわれわれの外にあるものです。わたしたちは じっさいに 姦淫の男女・好色の男女に 寛容でいることは 比較的 たやすい。問題は 霊魂 歴史知性を わざと複雑に入り組ませて――それはみづからの恥辱をなんとかして あのいちぢくの葉で〔二枚重ねてのように〕おおい隠そうとするのですが―― 道徳を説き法律を自己の都合のいいようにつくり上げ 自己の知恵と知識とを――だからかれらが頭がよくないというのではありません―― 蛇のように地を這わせて生きる人びと かれらとの相互作用の領域にあります。
《肉の情念に死んだということ(死ぬであろうということ・死ぬであろうと言おうということ)》と 《夜の世界を法律や道徳で取り締まり 昼の世界では――というように二つの世界を使い分け―― 肉を離れている つまり空気のような身体をもって生きている つまりその権威をもっていわば自己がブラック・ホールとなってのように 生きていること》とは 別である。
また 《肉の情念に死ぬであろう言おうということ》と 《無感覚であるということ》とも別であります。《悪事に対しては幼子のようであって 物の考え方においては大人になりなさい》(コリント前書14:20)ということと 《ただ無垢である》こととは 別である。《自己の精神と身体に ホワイト・テンプルが建立されたなら 自動的に機械的に 汚れた光は曲がるままに通過していくであろうと思い込むこと》は 《そのようにも真理はわれわれを自由にしてくださるであろう(だから 光の曲がりに対しては それは曲がっていますよと 何とかして指摘してあげる この努力を怠るわけではない)と 真理に属くこと だからやはり 悪と戦っていること》とは ちがう。

ところが 肉体が一たん情欲の攻撃に屈服すると 快楽の非常な魅力のために 精神を罪に同意するように誘うのであるから――と始めて アウグスティヌスは 核心の議論をしている―― このことを恐れ かつ避けなければならない。・・・

(つづく→2007-06-05 - caguirofie070605)