caguirofie

哲学いろいろ

#51

もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416

第十六章d 生活原理の新しい展開

ところが 肉体が一たん情欲の攻撃に屈服すると 快楽の非常な魅力のために 精神を罪に同意するように誘うのであるから――と始めて アウグスティヌスは 核心の議論をしている―― このことを恐れ かつ避けなければならない。すると人びとは この理由からして次のように言うであろう。
――だれでも 他人の罪のゆえではなくて自分の罪のゆえに そのような罪を犯す前に自殺しなければならない(――または 空気のような身体とならなければ 無関心となり無感覚をよそおなければ ならない――)。
と。けれども 自分の肉体の求めにではなく むしろ神とその知恵に従っている精神が 他人の情欲によってかき立てられて自分の肉の情欲に同意するなどということは 決してないはづである。事実 真理がはっきり告げているように 自分も含めて人を殺すということが忌むべき行為であり 呪うべき罪悪であるとすれば 次のようなことを言うほど狂気な人がいるだろうか。
――あとで罪を犯さないために いま罪を犯そう。あとで姦淫に陥らないために いま殺人をしよう。
たとえ罪の無い状態よりも罪を犯すほうを選びとらざるをえないほど 不正が力をふるっているとしても 現在の確実な殺人よりも 将来の不確実な姦淫のほうが望ましいのではあるまいか。救いに至らせる悔い改めの可能性が残されていないような犯罪よりも 悔い改めることによっていやされるような破廉恥な行為のほうが望ましいのではあるまいか。
わたしが以上のことを言ったのは 他人の罪ではなく自分自身の罪を避けようとして(――ただし 法律に触れないところでは または 触れないように 場合によって罪となるその同じ行為を避けないでおこうとして――) 他人の情欲の支配下で起こった自分の情欲にも同意しないために 自ら手をくだして死ななければ(――空気のような身体となって 何が何でも律法を守らなければ――)ならないと考える男たち もしくは女たちのためである。
さらにまた 神を信じ 神に望みを置き 神の助けによって支えられているキリスト者の心は そのようなことから離れていなければならない。わたしが《そのようなこと》と言ったのは およそそうした肉の快楽に負けて恥ずべきことに同意することから という意味である。もし死ぬべき肢体の中にまだ宿っているあの欲望の不従順(――前史の母斑の相互作用――)が わたしたちの意志の法則とは独立に それ自身の法則(――慣性の法則・曲がる光の情欲の運動・また一般に習慣――)によるかのように動かされるのであれば それに同意しない者の肉体の中には 睡眠中の肉体においてと同じく 責めはないのである。
神の国について 1・25)

《罪によって罪を避けてはならない》である。情欲の光の曲折への同意(心で同意するが 律法を盾にして 否定する場合を含む)によって 曲がり来る光を避けてはならない。これらすべて むしろ 肉の汚れから来る淵であるというよりも 精神の迷いから来る膨張・またむしろ迷いから覚めた精神のその高ぶりである。
そして 《他人の罪ではなく自分自身の罪(曲がる光)を避けようとして 他人の情欲の支配下で起こった自分の情欲にも同意しないために みづから手をくだして死ななければならないと考える男たち もしくは女たちのために》上のことが言われたというのは これらのむしろ歴史知性をそなえた(なおかつ重層的に折り曲げて用いる)男たち もしくは女たちの そのように言わば二元論において動く屈辱的な情欲の光が われわれの内に(つまり われわれの身体の中の外なる領域に)入る つまりわれわれが このかれらの情欲の光を食べなければならない場面がないわけではない。しかし 《救いに至らせる悔い改めの可能性が残されていないような犯罪よりも 悔い改めることによっていやされるような破廉恥な行為のほうが望ましい》とさえ言って このかれらの情欲の光を食べるキリスト者も存在すると言われている。

《わたしには すべてのことが許されている》。しかし すべてのことが益になるわけではありません。《わたしには すべてのことが許されている》。しかし わたしは何事にも支配されはしません。食物は腹のため 腹は食物のためにあります。しかし 神はそのいづれをも滅ぼされます。
(コリント前書6:12−13)

《すべてのことが許されています》。しかし すべてのことが益になるわけではありません。《すべてのことが許されています》。しかし すべてのことが許されています》。しかし すべてのことが人間を向上させるわけではありません。だれも自分の利益を求めず 他人の利益を追い求めなさい。市場で売っているものは 良心の問題として何もせんさくせず なんでも食べなさい。《地とそこに満ちているものは 主のもの》(詩編24:1)だからです。あなたたちが 信仰を持っていない人から招待され それに応じる場合 自分の前に出されるものは なんでも食べなさい。しかし もし誰かがあなたたちに 《これは偶像に供えられた肉です》と言うなら(――つまり その人が まだ前史の世界にあって 呪術の神また物質なる神を信じているなら――) その人のため また 良心のために食べてはいけません。
わたしがこの場合 《良心》と言っているのは 自分の良心ではなく そのように言う他人の良心のことです。どうしてわたしの自由が 他人の良心によって左右されることがあるでしょうか。わたしが感謝して食べているのに そのわたしが感謝しているものについて なぜ悪口を言われるわけがあるでしょうか。ですから あなたたちは食べるにしろ飲むにしろ 何をするにしても すべて神の栄光を現わすためにしなさい。
(コリント前書10:23−31)

《食べる》というのは 女を抱くかどうかに関係しているのです。しかし

信仰の弱い人を受け容れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが 信仰の弱い人は野菜だけを食べているのです。なんでも食べる人は 食べない人を軽蔑してはならないし また食べない人は 食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け容れられたからです。他人の召し使いを裁くとは いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも その主人によるのです。・・・
なんでも食べる人は主のためにそのようにするのです。神に感謝しているからです。また 食べない人も主のために食べないのであり 神に感謝しているのです。わたしたちの中には だれ一人として自分のために生きる人はなく また だれ一人として自分のために死ぬ人もいません。わたしたちが生きているのは ひとえに主のためであり 死ぬのもひとえに主のためです。

  • これが 宇宙の原理 いや その真理とわれわれとの関係です。

要するに わたしたちは生きるにしても 死ぬにしても 主のものなのです。キリストが死んで生き返られたのは 死んだ人(――前史の人びと――)にも生きている人(――後史の人びと――)にも 主となるためにほかなりません。それなのに なぜあなたは 自分の兄弟(――つまり赤の他人――)を裁くのですか。わたしたちは皆 神の裁きの庭に立つのです。
聖書に こう書いてあります。

主は言われる。

わたしは生きている。
すべての人はわたしの前にひざをかがめ
すべての人が神をほめたたえる。

と。
イザヤ書49:18 / 45:23)

それで わたしたちは一人ひとり 自分のことについて神に申しあげることになるのです。
(ローマ書14:1−12)

この作業はすべて 内なる人においておこなわれるのです。特に 《作業》というのは 《食べる》ことに関係してです。

  • 仮りに 制度としての教会が必要であるとしたなら 聖職者は この内なる人のホワイト・テンプルの確立に共に歩む一人ひとりとして 市民に仕えることでしょう。われわれは そのような 聖職に就くという《信仰の弱い人を受け容れ》なければなりませんから。


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(つづく→2007-06-06 - caguirofie070606)