caguirofie

哲学いろいろ

#53

もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416

第十七章a 神の国の歴史的な進展

だから わたしたちは・・・

アウグスティヌスは 《人間の意志は自由であるが 神によって予知されている》といった主題で議論をすすめている。

ちなみに このような主題は 一般に旧いものだと見られているのだが わたしは 次の観点から ふたたびこの昔からの主題に触れてみたいと思う。
すなわち 使徒パウロは言った。

すべてのことがゆるされている。しかし すべてのことが益になるわけではない。すべてのことがゆるされている。しかし すべてのことが人間を向上させるわけではない。
(コリント前書10:23)

ところがイエスは次のように語った。

はっきり言っておきたい。子は 父のなさることを見なければ 自分からは何ごとも出来ない。父がなさることはなんでも 子もそのとおりにするのである。
ヨハネ5:19)

もしパウロの表現は 人間的な論法で語られているとすると イエスも人間の言葉で語っているのだが 宇宙の原理を分有してというよりも 普遍的相互作用の一つなる原理そのものとして――ただし 経験実体的にそう在るというのではなく そう表現して語ることがより一層ふさわしいという仕方で――言われていると思う。
この表現じょうの意味から行けば イエスの言葉においても 《すべてのことが許されており すべてのことが可能である――つまりたとえば 悪魔の征服を 十字架上の死という手段によらなくとも その権能によって他の手段で 成就され得たと考えられる――》ということが 含まれている。また 反対に パウロの語った言葉の表現じょうの意味は 《すべてのことが可能であるが 光の子らは その能力によって成し得ない事は成し得ない》という内容を含むことができる。
これを一言で言って 《人間の意志は自由であるが 神によって予知されている》と表現するのである。この観点から アウグスティヌスの議論を聞こう。例によって長くひとまとまりの文章を引用する。

だから わたしたちは あの必然性をストア派のように恐れるべきではない。かれらはそれを恐れるあまり 苦心して事物の諸原因を区分し ある原因を必然性から引きはなし 他の原因をそれに従属させたのである。かつかれらは必然性の下に残そうとしなかった諸原因の中にわたしたちの意志を置いたのである。それは もし必然性(慣性の法則)に従属させられると わたしたちの意志が確かに自由でなくなるというようなことにならないためである。
なぜなら もしわたしたちの言う必然性というものが わたしたちの力の支配下になく 死の必然性のように たとえわたしたちが欲しなくても それが実現しうることを 実現するものを言うべきであるとしたら それによってわたしたちが正しく あるいは不正に生きている わたしたちの意志が そのような必然性の下にないことは明らかであるから。
なぜなら もしわたしたちが欲しなければ わたしたちは確かにそれをしないような多くのことをわたしたちはしているから。そのようなものにまづ最初 属しているのは意欲自身である。
なぜなら もしわたしたちが欲するならば 意欲は存在しているし もし欲しなければ 意欲は存在しないからであり また もしわたしたちが欲しなければ わたしたちが欲するということはなかろうからである。だが もしあの必然性が次のように定義されるならば すなわち それにしたがって或るものが現に存在するように あるいは現に生成するようにならねばならないとわたしたちが主張するものである というふうに定義されるならば それが意志の自由をわたしたちから奪いはしないかと なぜわたしたちはそれを恐れなければならないのか わたしにはわらかない。
というのは もしわたしたちが《神は常に生きたまい またすべてを予知したまうのは必然である》と言うとしても わたしたちは神の生命や神の予知を必然性の下に置くのではないからである。同様に 《神は死ぬことも 欺かれることもできない》と言われるとしても 神の権能が減少するのではない。実際 このように神が死んだり欺かれたりすることはありえないのであって もしそれがありうるとしたら その権能はたしかに減少するであろうが。
たしかに 神が全能であると言われるのは正しい。しかし それでも神は死ぬことも 欺かれることもできない。というのは 神が全能だと言われるのは 神が自ら欲することをなしたまうことによるのであって 欲しないことを甘受したまうことによるのではないからである。もしこのようなこと(つまり 欲しないことを甘受すること)が神に起こるとすれば 神は決して全能ではないであろう。

  • つまり 宇宙の原理だとか言うことはできなくなる。また 科学の知識としてのいわゆる真理などということも むしろ実際にはありえないようになる。それは 大きくは 偶然性の一部だということになる。

したがって まさに神は全能であるゆえに 神のなしえない或る種の事柄も存在する。


同様にまた わたしたちが《われわれは欲するとき 自由意志によって欲するのは必然である》と言うときも わたしたちは正真正銘 真実なことを言っているのであって そのゆえに自由選択そのものを 自由を否認する必然性に従属させない。したがってわたしたちの意志は現に存在するし また わたしたちが欲することによってすることを すべてしているのである。わたしたちが欲することによってすることは もしそれをわたしたちが欲しなければ 起こらないのである。
また各自が意志していないのに他人の意志によってこうむるものはすべて たとえ当人の意志ではないにせよ それでもなお人間の意志がそこにあるから 意志が力を発揮しているのである。だが意志の力は神に由来する〔もしくは 種々の相互作用ないし重力の場は たしかに 宇宙の原理の力に由来する〕(というのはもし意志が存在するだけで 欲することをなしとげることができなければ それは他人のより強い意志によって妨げられるであろう。それでも意志は意志として存在しているのであり 他人の意志ではなく たとえ欲することをなしとげることが出来ないとしても とにかく欲する者の意志が存在しているのであるから)。
したがって人が自分の意志に反してこうむることは何であれ 人間あるいは天使 あるいはなんらかの造られた霊の意志に帰すべきではなく むしろ意志しているものに能力を与えるかたの意志に帰すべきである。

  • ただし 《定め・運命》というふうに 固定的に見ることは ありえないし できない。宇宙の原理の 意志・現象的には作用 に帰すべきであっても その原理そのものを 見ることはできないのだから 固定的・停滞的に《定め》られることはない。《信じる》動態にあって いま先送って言うとすれば 《人間の自由意志》と《かれが欲しないことをくむるその事柄の原因を それに帰すべきところの神の予知》との両方を 認めるべきである。《信じる動態――だから 自由な人びとの自由な井戸端会議――の中にあって》というのであって このことによってむしろ 《人間の自由意志》が 拡げられ深められ 強くされて 確立されていくのである。つづく議論を見守ろう。


したがって 神がわたしたちの意志の中で将来おこることを予知しておられたゆえに〔――つまりこのような《必然性》をも想定できなくはないゆえに――〕 まさしくわたしたちの意志の中には 何もない(ニヒル)のではない。

  • かのスサノヲが 非行をおかしたとき 非行をおこなう意志は存在したと言わなければならず しかも追放されるためなどという意志は そのとき 存在していなかった。しかるのち 欲しなかったこと・つまり追放をこうむった。このばあい そのあとでも 追放・あるいは相手側のアマテラスらを愛さないことへの意志は 存在していないと主張することはできると考えられるが この追放をとおして起こった出来事に対しては それを《自分を超えたところではたらく意志としての必然性》に帰することができる。その意味で 《わたしたちの意志の中には たとえ意識していなかったとしても 何もないのではない。

というのは そのことを予知しておられたかたは 無(ニヒル)を予知しておられたのではないからである。さらに たとえわたしたちの意志の中に将来おこることを予知しておられたかたが 確かに無を予知しておられたのではなくて 或ることを予知しておられたとしても 神がそれを予知したまうておられてもなおわたしたちの意志の中に或ることが確実に存在するのである。

  • また この事は無意識とか潜在意識というよりも 潜在意志というべきだが なおかつこの潜在意志が 神なる原理なのではない。神は この潜在意志のおこることを予知していたまう。その意味では逆に この潜在意志の現象を むしろ潜在意識とか無意識とか言ったほうがよいかも知れない。注意すべきことは われわれは無意識のうちに或ることを行なったとしても 潜在意識や潜在意志にさえ そのことを帰すべきでもないことである。あったのは 特定の具体的な意志もしくは意思であり 事後的に全体の経過として 神の意志に帰すべき原因があったことになる。しかし神の意志は 目に見えないから 固定されるべき運命ではない。まさに 《何もない》のではなく むしろ運命を切り開くべき・その力を与えられたと言うべきわたしたちの潜在意志もあった。

ゆえに わたしたちは神の予知を保持して意志の自由選択を排除したり あるいは意志の自由選択を保持して神の将来について予知したまうことを否定するように(これは許されないことである)強制されているわけではない。むしろわたしたちはこれらを両方とも心から受け入れ 両方とも信仰と真実をもって認めるのである。前者(神の予知)を認めるのは 正しく(ベネ)信じるためであり 後者(意志の自由選択)を認めるのは よく(ベネ)生きるためである。だが もし人が神について正しく信じないならば その人は悪く生きるのである。

  • 自然科学者が 宇宙膨張説にのっとって そのような知識としてのそこにも知られうる原理を むしろ知ったゆえに その必然性を恐れ 正しくその原理を信じないならば その人は悪しく生きるのである。核エネルギーの原理(原理の原理 つまり 神の予知)を正しく信じないならば その恐怖の必然性を人間の意志の自由選択にのみ帰して 逆に人間の意志の自由選択の幅を狭めていくことになろう。

したがってわたしたちは 自由に(または自由を)欲するために 神の予知を否定するようなことを決してしてはならない。
アウグスティヌス神の国について5・10)

このまま次につづく。
(つづく)