caguirofie

哲学いろいろ

#54

もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416

第十七章b 神の国の歴史的な進展

したがってわたしたちは 自由に(または自由を)欲するために 神の予知を否定するようなことを決してしてはならない。

  • そうすると つまり神の予知の否定こそが人間の自由な意志選択を実現させると考えると つまりもっと正確に言うならば 原理としての神は科学的にも知っているが これを予知としては(人間世界では動態としては)見ない すなわち この必然性の世界から引き離して何らかの抽象的な知とか道徳とかとして立ててしまうなら そうすると これが 科学の規則違反となって 人間は自由に欲して生きることが出来なくなるのである。つまり《まさに神は全能であるゆえに 神のなしえない或る種の事柄も存在する――たとえば 〈善が生じるために悪をなそう〉という事柄を為し得ない――》ことが 無視されて 人間は自由に生きられないようになる。

わたしたちは神に助けられて現在自由に生きているし あるいは将来も自由に生きるであろう。したがって 法律 非難 勧告 賞讃 叱責(一般に 前史の世界 またその規範やその実行)は無意味ではない。というのは 神はそれらのものが〔光の曲がりうるという経験現実の結果に対処する一つの手段として〕 将来必要なのを予知しておられたし またそれらのものは 神が将来有効であると予知しておられた限り たいへん有効に働くからである。また祈りも 神が祈る者たちに将来かなえてやることを予知しておられたことを祈願するのに有効である。善行には報いが 罪には罰が定められているのは当然のことである。なぜなら 人が罪を犯すのは 神がその人が将来 罪を犯すことを予知しておられたという理由によるのではないからである。否 その予知が誤り得ないかたが 運命でも運でも 他の何ものでもなくて その人自身が将来罪を犯すことを予知したまうたゆえに まさにそれゆえに罪を犯すとく その人自身が罪を犯すことに疑いの余地はない。その人が意志しないなら かれはたしかに罪を犯していない。しかし かれが罪を犯すことを意志しなかったならば このこともまた神は予知しておられたのである。

  • つまり 《信じる動態》の過程的な道筋としてであって 《運命でも運でも 他の何ものでもなくて》というところが ミソである。このとき 《人間の自由意志と神の予知》の両方を心から認めつつ 経験的に――もしくは経験観想的に――言って 人間の意志の自由選択の問題となる。

アウグスティヌス神の国ついて 5・10)

これは 神の国が地上の国とこの世では混同するということ。言いかえると 《栄光(臆測。科学知識・歴史知性による世界観)から栄光へ〔変えられる〕》というように 後史の栄光は 前史の必然性から成る栄光の中から 生起してくるのである。ここに 自由を――生きた自由を――見なければならない。いな すでに人は たとえ前史のしがらみに突き動かされて生きていても 自由に生きている。これを 《神の予知》という表現で語って一向にさしつかえないし それは 現実として科学的にも より一層ふさわしいことである。《神の予知》を認めなくなったとき この神の予知を 運命と言いかえる。そうすると あの切り立った崖っ淵からいまにも落ちようとするとき ――その魔女の作用によって―ー不安がまぎれるというのである。それでも人間は ほんとうには魔女のものではないから 別の意味で正当にも 不安にされる。したがって 人は 情欲の重さにつき従ってすすんだ前史の経験が 悲惨にされることは その人にとって有益である。あたかもそこで〔旧い自分が〕死なしめられるとき 新しく回転して来るなら 人間の意志の自由が 或る意味で翼をひろげて さらに生起してくるであろう。スサノヲの歴史にかんがみて。これは 愛 という社会的な関係であると――それは 動態である つまり歴史である――考えられるのである。ここには 自分の自由意志とそして神の予知とをみとめる人の心(動態として)がある。
これは 一つの決定的な議論であるように思われる。わたしが 決定的と言うのは 新たな世界が 或る決定論に支配されて現われるというのではなく そうではなく これまでの疑いの歴史知性による世界史の経過 その支配原理 に対して ケリをつけるべく決定的なという。神なしたまうならば われわれもこれを成し遂げうるであろう。
わかりやすいように言いかえると われわれは キリストの奴隷となるとき 人間として完全な自由となると考えられる。わたしが キリスト・イエスと言うとき それは 科学的な知識が捉えた原理を排除してそれに代えるということではないことは すでに十分 説明した。キリスト・イエスと言うわけは 科学の眼で明らかになっていく真理が しかしながら この真理を問い求めているほかならぬこのわたし〔をとおして見られるのであって そのわたし〕が存在するという現実 そこでわたしが かれを分有しうるということを言いたいためである。科学が真理を探究しているのではなく 科学者つまりわたしが 問い求めているのである。〔科学〕原理を知らないということと 原理を愛していないということとは 別である。
神の予知を――宇宙の配置・歴史の計画を―― キリスト・イエスが告知した。つまり ご自身を告知した。これを排除することは もはや誰もしていないであろうが ただ知っているということが 人間の意志の自由を生かすものではない。自由意志を生かすために 神の予知を着るべきである。そのとき 宗教としてのキリスト教からわれわれは解放され 科学を十全にわれわれの社会生活の中でその位置を占めさせ活用していくであろう。しかし すでにそうなっている。ただ客観的に はじめからそうであるというのが 科学者の科学的詭弁なのである。あとは 生活原理の行き詰まりではなく 生活の現代社会的な複雑が待っているだけである。
また 複雑怪奇を科学的に分析し説明するのではなく――しかしもちろんその認識は必要であるが―― 複雑は前史の世界で(いやもはやその母斑をつけてはいるが後史の世界で) 光をなお曲げて運動する人びと つまりより正確には 空気のような身体ともって光の天使に変身しまっすぐな光を発散する人びと この一見 昼に見える暗闇への照明が必要である。言いかえると 人工的な昼の世界にある人びとの足もとの淵を照らしてあげて かれらを愛すること 疑いと絶望の淵からかれらを引き上げるべき手を差し出してやること――みなが理論家だろうか みなが科学者だろうか―― これである。つまり歴史は夜から始められるし 自己〔の暗闇〕から始められて行く。
われわれは ほんとうには 少なくとも自己を知らないというわけではない。


マイクル・ポランニーは これらのことをまとめて――と栗本慎一郎は書いている―― 社会の進化は すべて《内的》によって行なわれる ということを明らかにした。ここで言う《内的》とは 私たちが学校で教わったり 社会的な経験によって初めて知るような知識ではなく あらかじめ私たちに備わっている内部的な暗黙の知のことである。暗黙の非言語的な生物的能力と言ってよい。
つまり 私たちは 自分では制御することができないだけではなく まったく感じることさえもできないような内部的活動・内部的な努力というものを持っているのである。
つまり 私たちの脳である。・・・だから私たちの脳は ポランニーが言うように 《語ることができるより多くのことを知ることができる》し 意識下で物事を理解することをも又可能なのである。
これは 私たちの中にある暗黙の知覚の力であり いわばすべての力の根源なのである。これは人間にのみ存在するのではなく もっとも原初的な生命形態にも存在している。・・・
栗本慎一郎:パンツをはいたサル――人間は どういう生物が――》1981 〈7.《内なる知》が 発想の転換を可能にする〉)

この《内知〉というのは おそらくそのとおりであろうと思われる。そしてわたしたちは ただしく信じるために《神の予知――配備・計画――》をみとめ よく生きるために人間の意志による自由選択をみとめる。そしてこのことを 《知恵の知識の宝はすべて キリストの内に隠されている》(コロサイ書2:3)と表現して告白する。それは消極的に言えば 《内知》が神とみなされることのないためである。内知が やはり物質のはたらきだの 心の根源だの 貨幣物神こそがこの内知と関係しているのではないかだの 自然本性の潜在力としての自給自足主体性だのと それらが いづれも究極的な力だとして 説かれ信じられることないようにと考えられるからである。
《内知》の原理をただしく問い求め ただしく信じるためである。かつ よく生きるために 自由意志の選択(これは 意識しうる)をみとめるのである。
つまり積極的には キリストの奴隷となるというように 道を狭めることによって ぎゃくに 自由が幅広く生きたものになると考えたためである。(その前には 信がおとづれた)。《内知》が 《もっとも原初的な生命形態(たとえばアミーバだとかだと言う)にも存在している》ゆえ 無為自然でいいということにはならず また 内知の再発見・復権への競争・奔走に連れ去られて行くことのないためである。

しかし このことはポランニー兄弟も主張しているように 近代科学の内容自体を捨て去るということではない。――と栗本慎一郎も言うように つまり――単純に もとに戻れとか 自然に帰れとか主張することでは 断じて問題の解決にはならないのだ。そもそも 人間社会が近代科学を選びとったということは やはり そこになんらかの内知による 全体的承認があったというふうに考えるのが自然である。
このような点から 近代科学をもう一度考えなおすと 実は 科学の発展自身の中に人間の内知が働いていることがわかる。科学の発展は つねに正しい問題を立てることによって発展してきた。問題を立て 解決法をさぐることが新しい科学的発展の八〇パーセントの内容なのである。問題が立てられなければ答えは出てこない。その問題は はたしていかなる能力によって設定されるだろうか。それは明らかに内知の働きによる予見の力なのである。
栗本慎一郎パンツをはいたサル―人間は、どういう生物か

から 内知の働きによる予見の力に対して むしろ 神の予知(つまりわれわれが神の霊を受容する 神との和解)と意志の自由選択との両方をわれわれは みとめる。なぜなら 《問題を設定する》前に実は人は その答えを知っている。それに向かって人は内知を設定する。この《暗黙の非言語的な生物能力》――そのような相互作用――の原理の《言葉(つまり キリスト・イエス)》にわれわれは属(つ)く。かれを着る。
だからわれわれは――すでに後史に入って 光の子らであるから―― 信仰の弱い人たちを受け容れなければならないし また この光を信じず敵対する人びとを愛しなければならない。かれらを愛させなければならない。そしてすでに答えは出ている。このような新しい巡礼の旅。なぜなら この答えをわれわれは われわれも こうだと言って指し示したり表現したりすることは出来ないし その答え自身になるという旅ではなく この答えに似る者となるという生活者の過程であるから。ここに人間の社会の営みがある。人間にとっての宇宙の科学的な歴史がある。

  • 栗本慎一郎の言う《答え》とは 紡績機械とか蒸気機関の発明といったような具体的・特定のそれである。


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(つづく→2007-06-09 - caguirofie070609)