caguirofie

哲学いろいろ

#52

もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416

第十六章e 生活原理の新しい展開

わたしたちは今 きわめて繊細な議論をしています。引用のばあいは なるべく文脈全体を 少々長くとも載せるようにしています。

すべてのことがゆるされています。しかし すべてのことが益になるわけではありません。すべてのことがゆるされています。しかし すべてのことが人間を向上させるわけではありません。・・・市場で売っているものは 良心の問題として何もせんさくせず なんでも食べなさい。《地とそこに満ちているものは 主のもの》だから。・・・
(コリント前書10:23−26)

これで 交換経済社会における(または そこからわれわれを解放してゆく)新しい生活原理が 暗々裏に語られていると見なければならない。
余剰の《開発》が その《搾取》となっているけれども この搾取を否定しつつ しかしながらむしろ はじめの開発のときの歴史知性の発見による出発を その原理によって肯定しつつ むしろキャピタリスムならキャピタリスムのままで 新しい生活原理の展開をおこなってゆけばよろしい。ゆたかな社会となって はじめの聖書の良き知らせが たしかに福音としてよみがえって来る。日本におけるその跡付けについても われわれは いくらか・しかし基本的に考察したし なお問い求めてゆくだろう。上においては しばらく 男の女に対する関係の問題として これを省察したと思います。

何度も言ってきたし 今また涙ながらに言いますが キリストの十字架に敵対する生活を送っている者が多いのです。かれらの行きつくところは滅びです。かれらは腹を神とし 恥づべきものを誇りとし そしてこの世のことしか考えていません。
(ピリピ書3:18−19)

そして この世に属さない・原理のことを思っているわれわれは しかもこの世における腹の問題 つまり いかに食べるか 何を食べるか これについて 不安にされ むなしくされる。そこで 原理そのものをこれだと言って指し示すのではなく(また そのことは 経験的な部分をとおしてわづかに 知ることができるに過ぎないゆえ) なおかつこの原理の霊に属くことによって 日から日へ変えられつつ その経験的な過程としての生活 これを 議論していこうというわけでした。
《食物は腹のためであり 腹は食物のためである)にしか過ぎないことは すでに出発点であったからです。これは 社会の全体として まだ貧しかった時代には 時に 単なる道徳として持っていた また この世の支配者はむしろ この出発点の歴史知性を先取って律法と為し その統治方式に利用していたというような経過をたどってきたわけです。

それゆえ神に仕え 自分の腹に仕えなかったあの人(=パウロ)が 何をもってよろこびとしていたか 私にはよくわかります。よくわかって かれと共に大いによろこぶのです。
(告白13・26)

この観想が すでに社会の全体として 非現実なものではない 歴史の現段階に来ています。

ではいったいあなたは 何をもってよろこびとしているのか。おお 偉大なパウロよ。
自分を造ってくださった方の似像に従い 真の知識を得るため あらたにされた人 偉大なつつしみをそなえた《生ける魂》 神の奥義を――これが自然科学や社会科学の発達とともに いくらかはより一層あきらかにされるようになったその奥義を――語り伝えながら空を飛ぶ《鳥》の舌をもつ人 あなたは何をもってよろこびとなし 何を食べて生きているのか。
まことに このような《生ける人》に対してこそ あの食物はそなえられなければなりません。では あなたを養っている食物は何か。それは《よろこび》なのです。――さらにつづけてパウロのいうことを聞きましょう。かれは こう言います。

それにしてもあなたがたは まことによく 私の苦しみをともにしてくださった。
(ピリピ書4:14)

パウロがよろこびとし それを食べて生きていたものがここにあります。それは《かれらがよくやってくれた)ということです。
かれらがよくやってくれたことによってパウロの苦難が緩和されたからではありません。かれは あなたに向かってこう言っています。

艱難のとき あなたは私の心をくつろがせてくださった。(詩編4:2)

・・・
パウロが 《あなたがたは 私に用立てるために贈ってくれた》(ピリピ書4:16)と言ったとき かれはそれが自分のために役立ったからよろこんでいるのでしょうか。そうでしょうか。そのためではありません。ではそうでないということを どうして私たちは知るのでしょうか。ひきつづきかれ自身 こう言っているからです。

私が求めているのは贈り物ではなくて 果実である。
(ピリピ書4:17)

わが神よ。私はあなたから《贈り物 datum 》と《果実 fructo 》との区別をまなびました。《贈り物》とは 生活必需品を分けてやる人が じっさいに相手に与えるものであって たとえば貨幣 食物 飲物 衣類 住居 助力などをいいます。これに対し 《果実》とは 与える人が抱いているただしい善い意志のことです。
(告白13・26)

このゆえに わたしたちは 《すべての食物は清い》との大前提に立って 《〈種をもつすべての草〉と〈種のあるすべての実を結ぶすべての木〉を与えられている》が――もちろん 前者を排除しようというのではないが―― 後者の生活原理にもとづいて 実を結ぶ科学的知識の活用を 命題とし 実践しようと言ったことになります。そしてこのことは 腹を神としているなら為し得ないことは言うまでもなく 科学の知識から知る原理をただ知っているというだけでは なお かなわず かと言って この原理を自分勝手に先取りし 開発ないし搾取の手段として用い 社会の統治のための共同観念的な方策とすることによっても 為し得ず そうではなく 原理の霊を受け取り――《信じる》とは いったい どういう行為なのであるか 問い返し問い求めるという意味です―― 自分を造り変えてゆくことによってである。

エリア(預言者つまり 新しい生活者。列王記・上17:6−16)は寡婦(やもめ)の差しだす《果実》によって養われましたが その寡婦は 自分の養っているのは《神の人》であること 《神の人》であるがゆえに養うのだということを こころえていました。これに対してエリアが からすによって養われたときには 《贈り物》によって養われたのです。
このとき養われたのは 《内なる人》としてのエリアではなく 《外なる人》としてのかれでした。《外なる人》としてのエリアは もしそのような食物が欠乏したならば 滅びてしまったかも知れません。
(告白13・26)

これによっても新しい生活原理の展開を知ることができます。わたしたちは このことを なにか道徳の励行によって――ただし道徳をないがしろにしろと言うことではありませんが―― 為しうるとは思わないし 言わないのでした。あるいは 交換経済社会の中で 誰か経営の神さまとか偉大な政治家であるとかその人が われらの《内なる人》の代表であるとは 見ないし よう言わないのです。それは 《贈り物》を協働生産し 共同自治(配分・再配分)するところの社会的な役割を担う人たちであります。
したがって 《果実》の――だから確かに 余剰生産物とあたかも対応しているその果実の――協働生産(育成)・共同自治によって 交換経済社会をあたらしく全体的にも衣替えさせ 生活原理を新展開させてゆく このことは 時として実現すると 見たことになります。(つまりまた 《果実》は《意志》であるから 《重力》の場としての問題でもあります)。

それゆえに 主よ 私は御前において 真実のことを申し上げたいと思います――とアウグスティヌスは 一見 不遜にも 一歩すすんでこの生活原理を議論していきます。
すなわち まだ数えを知らず信仰をもたない人びとが あなたの子どもたち(信じる人びと)の疲れを回復させるため あるいは何かこの世の生活じょうの必要を援助するため 身体の面でこれを受け容れ もてなしてやりながら なぜそれをしなければならないか 何の目的のためにしなければならないかを知らない場合には ほんとうの意味であなたの子どもたちを養っているのではなく またあなたの子どもたちは ほんとうの意味でこの人びとに養われているわけではありません。
なぜならばこれらの人びとは それを聖なるただしい意志によってしているのではなく あなたの子どもたちも かれらの《贈り物》を そこにまだ《果実》をみとめないので ほんとうの意味でよろこぶことができないからです。たしかに魂は それによってよろこぶ まさにそのものによって養われるのです。
(告白13・27)

つまり このことは すでに単なる生活態度の表明にしかすぎないのですから この文章も 贈り物として読んでいるのではなく 果実を結ぶわたしが そのような声として聞いているものでなければならない。
というふうに わざわざ断わらなければならないのは いま述べていることが それは生活原理の議論でしかない または先人の議論の解釈でしかないことに 明らかですが わたしたちは このような初めの歴史知性の議論を どこまでも ふくらませて行くのであって 歴史知性の所有の有無であるとか その知性の原理の先取りによって 自分がその腹をふくらませて行くのであってはならない また逆に そのための生活共同の原理(方策)を打ち立てていくべきである その一つの過程が 現実であるということになります。
これが キャピタリスム論(その出発点)であり また 男の女に対する関係への一つの視点となるものです。
この当たり前の議論の地点から 一方で 宇宙膨張説そのままのように 空気のような身体をもってアマガケリゆくべきではなく 他方で 腹を神とする情欲の曲がった光の行きつく淵のなかに走りゆくべきでもない。自己の知恵の同一にとどまり 歴史知性(真理の似像)の自乗・三乗というふうに 自己の冪(べき)を形づくってゆくべきである。《神が造られたすべてのものを見られたところ それは はなはだ良かった》というのですから。

(つづく→2007-06-07 - caguirofie070607)